ベルギーの降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:58 UTC 版)
ベルギー軍は予備戦力無しでCadzand南からリース川のメーンまで、西はメーンからブリュージュまで戦線が伸びていた。制空権の極小範囲をイギリス空軍が確保するのみで、そのほとんどがドイツ軍が握っていた。ベルギー軍は認識できる目標全てに攻撃を受け、損失が発生していることを報告した。ベルギー軍とドイツ軍、もしくは海岸の間には自然の要害が無く、また、ベルギー軍には撤退する場所も存在しなかった。ドイツ空軍の活動により、鉄道網の大部分が破壊され、ダンケルクへの撤退はすでに不可能であり、3本の道、(ブリュージュ - Thourou - ディズミュド(Dixmude)、ブリュージュ - Ghistelles - ニーウポールト、ブリュージュ - オーステンデ - ニーウポールト)を使用して撤退していたが、これらの撤退はドイツ軍が制空権を握っていたため、損失なしに行うことはできなかった。水道は損害を受けて停止、ガスや電気も同様であった。運河は排水され、弾薬、食料の備蓄所として使用された。すでにベルギー国土はすでに1,7000平方kmしかなく、その地域に将兵、市民ら約3,000,000名が取り残されていた。これらの状況からベルギー国王レオポルド3世はさらなる抵抗は無駄と考え、5月27日、休戦を要請した。 同じ日、チャーチルはキースにメッセージを送り、この要請についてどう考えているか明らかにした。 ここのベルギー大使館により、国内に残留しているベルギー国王が、戦争に敗北し、個別の和平交渉を検討していると伝えられた。これと別個に戦争を続けるために、ベルギー政府が海外で結集された。たとえ、ベルギー軍がその武器を捨てなければならないとしても、徴兵適齢なベルギー人約200,000名がフランスにいる。そして、これだけでも1914年時のベルギー軍より過大な兵力である。この時点で決断することは、国王は国を分断し、ヒトラーの保護に国土をゆだねることになる。国王にこれら考慮すべき問題を伝え、連合国、そして国王が選んだベルギーの道に燦燦たる結果が生じることを理解させてほしい。 イギリス海軍は夜間、ミデルケルケ(Middelkerke)、セント・アンドリュース(ブリュージュの東)で司令部を避難させた。レオポルド3世とその母、エリザベート・ド・バヴィエールは5年間、自らが選んだ道としてベルギー国内で監禁されることとなった。5月28日午前4時、ベルギーは降伏した。激しい責任の擦り付け合いが始まり、イギリスとフランスはベルギーが連合国を裏切ったと主張した。ベルギー軍が崩壊したため、連合軍の状況が明らかに深刻と化すにもかかわらず、いかなる警告も無かったというのが主な不満であったが、その主張は明らかに不当であった。5月25日、崩壊寸前であったベルギー軍と接触していた連合軍の一部のみがそのことを知っていた。チャーチルとイギリスの反応は公式に抑えられ、5月28日午前11時30分、ロジャー・キース卿により、イギリス内閣においてベルギーにおける防衛戦の強い擁護が行われたためである。フランス、ベルギーの大臣はレオポルドの言動を裏切りだと考えたが、彼らは本当のことを知らなかった。レオポルドはドイツとの共同政府を構成するためではなく、ベルギー軍最高司令官として無条件降伏を行うというヒトラーとの文書にサインしていた。
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