プロテスタント迫害とアウクスブルク同盟戦争
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「ルイ14世 (フランス王)」の記事における「プロテスタント迫害とアウクスブルク同盟戦争」の解説
詳細は「大同盟戦争」を参照 1683年、王妃マリー・テレーズが死去した。それから程なくしてルイ14世は最も愛した寵姫マントノン侯爵夫人と秘密結婚をする。ルイ14世とマントノン侯爵夫人との結婚は公的な記録を残さない、あくまでも私人としての結婚であり、彼女は王妃ではなかったが、ルイ14世はしばしば顧問会議を彼女の部屋で催し、慎重な助言者として国王の意思決定に影響を与えた。 ハプスブルク家との戦争を繰り返すうちにルイ14世はこれまでのガリカニスム(フランス教会自立主義)擁護から「カトリック教会の守護者」へとスタンスを移し、ローマ教皇との結びつきを強めるようになった。王は国内のカトリック信仰の強化を目指し、ローマ教皇と連携してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)を弾圧した。そして、ユグノー(フランス・プロテスタント)の弾圧に着手する。ユグノー戦争の結果、アンリ4世のナント勅令によって政治的・軍事的特権を与えられたユグノーも、ルイ13世の時代にリシュリュー枢機卿に敗れ政治勢力としては没落して少数派となり、信仰の自由だけが僅かながら保証されていた。ルイ14世は官職からユグノーを締め出し、職業を制限し、亡命まで禁じる勅令を次々と出した。兵士をユグノーの家々に送り込んで改宗を強要することまでした(竜騎兵の迫害)。 そして1685年、ルイ14世はナント勅令を廃棄し、プロテスタントの礼拝の禁止と改宗に応じない牧師の国外追放を定めたフォンテーヌブロー勅令を発した。改宗に応じないユグノーは国禁を犯して亡命し、その数は約20万人に昇り、その中には多くの手工業者や商人が含まれていた。そして、フランスに残ったプロテスタントの反乱であるカミザールの乱に対しては武力鎮圧を加えた。ルイ14世は亡命者を受け入れたサヴォイアに兵を送り、虐殺まで行わせている。プロテスタント迫害は内外の非難を受けてフランスの孤立を招いたが、宗教的不寛容が広まっていた大多数を占めるカトリックのフランス人からは喝采を浴びた。このプロテスタント迫害については、秘密結婚したマントノン侯爵夫人が敬虔なカトリックであり彼女の影響とする主張が古来から存在するが、実際には王の義妹プファルツ公女の影響またはあくまでもルイ14世の独自の決断であるとして彼女の影響を否定する説もある。 1685年にプファルツ選帝侯カール2世が息子の無いまま亡くなり、遠縁のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムがプファルツ選帝侯になると、ルイ14世は弟オルレアン公の妃エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール(プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒの娘、カール2世の妹)の相続権を主張して、1688年にケルン選帝侯の選挙にも介入し、ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンに対抗してヴィルヘルム・エゴン・フォン・フュルステンベルクを擁立、プファルツ継承問題と合わせてフランスの主張を受け入れるよう呼びかけ、拒絶されたことを口実にプファルツ選帝侯領へ侵攻した。プファルツは完全に破壊され、これに危機感を持ったドイツ諸侯が結束して抵抗するがフランス軍を食い止めることはできず、フランス軍の焦土化作戦によって諸都市が破壊された(プファルツ略奪)。 この時期、イギリスではカトリック信仰復活を図っていたジェームズ2世が追放され、王の姪でプロテスタントのメアリーとその夫のオラニエ公ウィレムが迎えられておのおのメアリー2世・ウィリアム3世として共同王位に就いていた。ルイ14世はオランダ議会にオラニエ公のイギリス遠征を止めさせるよう警告しており、これが受け入れられなかったためフランスはオランダに宣戦布告した。一方、帝国議会も対仏宣戦を議決しており、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は神聖ローマ帝国の名で正式にフランスに宣戦布告した。こうして、イギリス、オランダ、スペイン、神聖ローマ帝国、ブランデンブルク、ザクセン、バイエルン、サヴォイアそしてスウェーデンによる対仏同盟(アウクスブルク同盟または大同盟)が成立する。 アウクスブルク同盟戦争(大同盟戦争、プファルツ戦争:1688年 - 1697年)の大陸での緒戦は神聖ローマ皇帝がオスマン帝国との戦い(大トルコ戦争)に傾注せざるを得なかったため、フランス軍がフルーリュスの戦い(1690年)でオランダ軍を撃破し、ナミュールを占領(1692年)するなど有利に進んだ。ルイ14世は国を追われたジェームズ2世を庇護しており、戦争が始まると彼に艦隊をつけてアイルランドへ送り込んだが、ジェームズ2世の軍勢(ジャコバイト)はロンドンデリーの包囲に失敗してアイルランドに封じ込められ、フランス艦隊も1692年のバルフルール岬とラ・オーグの海戦で英蘭艦隊に敗れて制海権を失ってしまった。 戦争はその後、長期の消耗戦に陥り、フランス軍が幾つかの会戦で勝利をおさめたものの対仏大同盟に包囲され孤立した状態であり、国家財政も底を突き始めた。フランスが戦術的優位を維持した状態で、1697年にレイスウェイク条約が結ばれて戦争は終結した。 ルイ14世はエリザベート・シャルロットの相続権を主張しないことを約束(プファルツ選帝侯とケルン選帝侯はフィリップ・ヴィルヘルムの息子ヨハン・ヴィルヘルムとヨーゼフ・クレメンスが継承)、1679年の仏蘭戦争以降に獲得したルクセンブルクなどの領土を放棄せざるを得なかったが、ストラスブールだけは確保した。ルイ14世はまたウィリアム3世とメアリー2世夫妻のイングランド王位を承認し、ジェームズ2世の支援をしないことを約束した。この講和は敵国に譲歩しすぎると国民から不評を受けた。
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