プロテスタント迫害とアウクスブルク同盟戦争とは? わかりやすく解説

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プロテスタント迫害とアウクスブルク同盟戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:16 UTC 版)

ルイ14世 (フランス王)」の記事における「プロテスタント迫害とアウクスブルク同盟戦争」の解説

詳細は「大同盟戦争」を参照 1683年王妃マリー・テレーズ死去した。それから程なくしてルイ14世は最も愛した寵姫マントノン侯爵夫人秘密結婚をする。ルイ14世マントノン侯爵夫人との結婚公的な記録残さないあくまでも私人として結婚であり、彼女は王妃ではなかったが、ルイ14世はしばし顧問会議を彼女の部屋催し慎重な助言者として国王意思決定影響与えたハプスブルク家との戦争繰り返すうちにルイ14世これまでのガリカニスムフランス教会自立主義擁護から「カトリック教会守護者」へとスタンス移しローマ教皇との結びつき強めようになった。王は国内カトリック信仰強化目指しローマ教皇連携してジャンセニスト厳格主義信仰運動)を弾圧した。そして、ユグノー(フランス・プロテスタント)の弾圧着手するユグノー戦争結果アンリ4世ナント勅令によって政治的軍事的特権与えられユグノーも、ルイ13世時代リシュリュー枢機卿敗れ政治勢力としては没落して少数派となり、信仰の自由だけが僅かながら保証されていた。ルイ14世官職からユグノー締め出し職業制限し亡命まで禁じ勅令次々と出した兵士ユグノー家々送り込んで改宗強要することまでした(竜騎兵迫害)。 そして1685年ルイ14世ナント勅令廃棄しプロテスタント礼拝禁止改宗応じない牧師国外追放定めたフォンテーヌブロー勅令発した改宗応じないユグノー国禁犯して亡命し、その数は約20万人昇り、その中には多くの手工業者や商人含まれていた。そして、フランス残ったプロテスタント反乱であるカミザールの乱に対して武力鎮圧加えたルイ14世亡命者受け入れたサヴォイアに兵を送り虐殺まで行わせている。プロテスタント迫害内外非難受けてフランス孤立招いたが、宗教的不寛容広まっていた大多数占めカトリックフランス人からは喝采浴びた。このプロテスタント迫害については、秘密結婚したマントノン侯爵夫人敬虔なカトリックであり彼女の影響とする主張古来から存在するが、実際には王の義妹プファルツ公女影響またはあくまでもルイ14世の独自の決断であるとして彼女の影響否定する説もある。 1685年プファルツ選帝侯カール2世息子の無いまま亡くなり遠縁プファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムプファルツ選帝侯になると、ルイ14世は弟オルレアン公の妃エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールプファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒの娘、カール2世の妹)の相続権主張して1688年ケルン選帝侯選挙にも介入しヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン対抗してヴィルヘルム・エゴン・フォン・フュルステンベルクを擁立プファルツ継承問題合わせてフランス主張受け入れるよう呼びかけ拒絶されたことを口実プファルツ選帝侯領侵攻したプファルツは完全に破壊され、これに危機感持ったドイツ諸侯結束して抵抗するフランス軍食い止めることはできず、フランス軍焦土化作戦によって諸都市破壊された(プファルツ略奪)。 この時期イギリスではカトリック信仰復活図っていたジェームズ2世追放され王の姪プロテスタントメアリーとその夫のオラニエ公ウィレム迎えられておのおのメアリー2世ウィリアム3世として共同王位に就いていた。ルイ14世オランダ議会オラニエ公イギリス遠征止めさせるよう警告しており、これが受け入れられなかったためフランスオランダに宣戦布告した一方帝国議会も対仏宣戦議決しており、神聖ローマ皇帝レオポルト1世神聖ローマ帝国の名で正式にフランス宣戦布告した。こうして、イギリスオランダスペイン神聖ローマ帝国ブランデンブルクザクセンバイエルンサヴォイアそしてスウェーデンによる対仏同盟アウクスブルク同盟または大同盟)が成立するアウクスブルク同盟戦争大同盟戦争プファルツ戦争1688年 - 1697年)の大陸での緒戦神聖ローマ皇帝オスマン帝国との戦い大トルコ戦争)に傾注せざるを得なかったため、フランス軍フルーリュスの戦い(1690年)オランダ軍撃破しナミュール占領1692年)するなど有利に進んだルイ14世は国を追われジェームズ2世庇護しており、戦争が始まると彼に艦隊をつけてアイルランド送り込んだが、ジェームズ2世軍勢ジャコバイト)はロンドンデリー包囲失敗してアイルランド封じ込められフランス艦隊1692年バルフルール岬とラ・オーグの海戦英蘭艦隊敗れて制海権失ってしまった。 戦争その後長期消耗戦に陥り、フランス軍幾つかの会戦勝利をおさめたものの対仏大同盟包囲され孤立した状態であり、国家財政も底を突き始めたフランス戦術的優位維持した状態で、1697年レイスウェイク条約結ばれて戦争終結したルイ14世はエリザベート・シャルロットの相続権主張しないことを約束プファルツ選帝侯ケルン選帝侯フィリップ・ヴィルヘルム息子ヨハン・ヴィルヘルムとヨーゼフ・クレメンスが継承)、1679年仏蘭戦争以降獲得したルクセンブルクなどの領土放棄せざるを得なかったが、ストラスブールだけは確保したルイ14世はまたウィリアム3世メアリー2世夫妻イングランド王位を承認しジェームズ2世支援をしないことを約束した。この講和敵国譲歩しすぎると国民から不評受けた

※この「プロテスタント迫害とアウクスブルク同盟戦争」の解説は、「ルイ14世 (フランス王)」の解説の一部です。
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