プシェミスル朝の時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > プシェミスル朝の時代の意味・解説 

プシェミスル朝の時代(13世紀)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:46 UTC 版)

ボヘミア王国」の記事における「プシェミスル朝の時代(13世紀)」の解説

9世紀始まったボヘミア公国歴史の中で、11世紀後半ヴラチスラフ2世12世紀にヴラジスラフ2世ボヘミア王名乗ったが、いずれも1代限り終わった連続的なボヘミア王国成立したのは1198年のことで、プシェミスル朝オタカル1世が、ローマ王位をめぐるフィリップオットー4世争いに際して前者支援する見返り王位認められた。フィリップ争い敗れオットー4世単独皇帝となったが、オタカル1世オットー4世教皇インノケンティウス3世にもボヘミア王号を認めさせた。1212年皇帝フリードリヒ2世出したシチリア金印勅書において、ボヘミア公国正式に王国昇格したボヘミア王は、帝国議会への出席除き将来わたってあらゆる帝国諸侯としての義務免れた皇帝持っていたボヘミア君主承認プラハ司教任命権放棄された。オタカル1世息子ヴァーツラフ1世ボヘミア王位を継承し、その地位盤石なものとした。 ヴァーツラフ1世の妹アネシュカ・チェスカーは、当時女性として並外れて果敢かつ行動的な人物だった。皇帝フリードリヒ2世との縁談断り修道院入って精神生活生涯ささげたのである。彼女が教皇インノケンティウス4世後押し受けて1233年創設した紅星騎士団は、ボヘミア王国最初騎士修道会となった。なお外来騎士修道会としては、ボヘミアではすでに聖ヨハネ騎士団1160年ごろ以降)、聖ラザロ騎士団12世紀後半以降)、ドイツ騎士団1200年ごろ - 1421年)、テンプル騎士団1232年 - 1312年)の4つ活動していた。 13世紀プシェミスル朝中央ヨーロッパ最強王朝1つとなった皇帝フリードリヒ2世地中海偏重政策彼の死後の大空位時代1254年 - 1273年)のために、中央ヨーロッパにおける皇帝権力著しく弱まった。また東方からはモンゴル帝国ヨーロッパ侵攻しボヘミア東方ライバルであるポーランドハンガリー大いに力を削がれていた。 オタカル2世帝国大空位時代とほぼ被る治世1253年 - 1278年)の間にボヘミア王国史上最大版図実現した皇太子時代1252年バーベンベルク家最後男系女子だったマルガレーテ結婚してオーストリア公となり、オーバーエスターライヒニーダーエスターライヒシュタイアーマルク一部獲得したその後1260年クレッセンブルンの戦いハンガリー王ベーラ4世破りシュタイアーマルク残部ケルンテン大部分カルニオラ一部征服し、その領土アドリア海達した。彼は「と金の王」とのあだ名呼ばれた彼の征服活動、金はその富を意味する。またドイツ騎士団支援して北方プロイセンにも遠征して1256年異教徒プルーセン人破り、クラーロヴェツ(チェコ語: Královec)という都市建設した。後にケーニヒスベルクドイツ語名で知られるようになったその名は「王の砦」を意味するが、これはドイツ騎士団オタカル2世敬意払って付けたのである。 しかし1273年ローマ王選挙オタカル2世破り選出されハプスブルク家ルドルフ1世皇帝回復志しオタカル2世勢力削り始めた国内貴族反乱にも苦しんでいたオタカル2世は、1276年までにオーストリア始めとするドイツにおける領土をすべて失い1278年マルヒフェルトの戦いルドルフ1世との決戦挑んだ敗死した。 跡を継いだヴァーツラフ2世元に従来ボヘミア王国版図しか残っていなかった。そのボヘミアも王が幼少であることから、その保護者になるという名目周辺諸国侵略の的となり、一時期王国ヴァーツラフ2世5年にわたりブランデンブルクシュテンダール辺境伯オットー4世支配下置かれたこともあった。が、彼は1300年ポーランド王位獲得1301年息子ヴァーツラフ3世ハンガリー王即位させた。1305年ボヘミア王位・ポーランド王位をも継承したヴァーツラフ3世の元で、プシェミスル朝支配ハンガリーからバルト海にまで及んだ。しかし翌1306年ポーランド王位を守るためポーランド遠征企図していたヴァーツラフ3世オロモウツ暗殺されプシェミスル朝断絶400年及んだプシェミスル朝ボヘミア統治は幕を下ろしたポーランドではピャスト朝ヴワディスワフ1世諸侯再統合進めて1320年ポーランド王位復活させ、ハンガリーではアンジュー朝成立した。その一方でボヘミア王国は、国外諸家王位を争う闘争舞台となった13世紀ドイツからの東方植民活発に行われた時代であるが、プシェミスル朝歴代君主はこの活動大い支援したボヘミア外縁部の都市鉱山地域には多数ドイツ人入植し一部ボヘミア内部にも植民都市建設したドイツ人入植地として有名な都市は、ストジーブロ、クトナー・ホラ、ニェメツキー・ブロト(現ハヴリーチクーフ・ブロト)、イフラヴァ挙げられるドイツ人はイウス・テウトニクム(ドイツ人の法、ラテン語: ius teutonicum )と称する独自の法体系持ち込み、これが後にボヘミアモラヴィアにおける商法基礎となったチェコ人貴族ドイツ人婚姻一般的に行われるようになった

※この「プシェミスル朝の時代(13世紀)」の解説は、「ボヘミア王国」の解説の一部です。
「プシェミスル朝の時代(13世紀)」を含む「ボヘミア王国」の記事については、「ボヘミア王国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「プシェミスル朝の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「プシェミスル朝の時代」の関連用語

プシェミスル朝の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



プシェミスル朝の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのボヘミア王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS