プシェミスル朝の時代(13世紀)
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「ボヘミア王国」の記事における「プシェミスル朝の時代(13世紀)」の解説
9世紀に始まったボヘミア公国の歴史の中で、11世紀後半にヴラチスラフ2世、12世紀にヴラジスラフ2世がボヘミア王を名乗ったが、いずれも1代限りに終わった。連続的なボヘミア王国が成立したのは1198年のことで、プシェミスル朝のオタカル1世が、ローマ王位をめぐるフィリップとオットー4世の争いに際して前者を支援する見返りに王位を認められた。フィリップは争いに敗れオットー4世が単独の皇帝となったが、オタカル1世はオットー4世や教皇インノケンティウス3世にもボヘミア王号を認めさせた。1212年に皇帝フリードリヒ2世が出したシチリア金印勅書において、ボヘミア公国は正式に王国へ昇格した。 ボヘミア王は、帝国議会への出席を除き、将来にわたってあらゆる帝国諸侯としての義務を免れた。皇帝が持っていたボヘミア君主承認権やプラハ司教任命権は放棄された。オタカル1世の息子ヴァーツラフ1世はボヘミア王位を継承し、その地位を盤石なものとした。 ヴァーツラフ1世の妹アネシュカ・チェスカーは、当時の女性としては並外れて果敢かつ行動的な人物だった。皇帝フリードリヒ2世との縁談を断り、修道院に入って精神生活に生涯をささげたのである。彼女が教皇インノケンティウス4世の後押しを受けて1233年に創設した紅星騎士団は、ボヘミア王国最初の騎士修道会となった。なお外来の騎士修道会としては、ボヘミアではすでに聖ヨハネ騎士団(1160年ごろ以降)、聖ラザロ騎士団(12世紀後半以降)、ドイツ騎士団(1200年ごろ - 1421年)、テンプル騎士団(1232年 - 1312年)の4つが活動していた。 13世紀、プシェミスル朝は中央ヨーロッパ最強の王朝の1つとなった。皇帝フリードリヒ2世の地中海偏重政策と彼の死後の大空位時代(1254年 - 1273年)のために、中央ヨーロッパにおける皇帝権力は著しく弱まった。また東方からはモンゴル帝国がヨーロッパに侵攻し、ボヘミアの東方のライバルであるポーランドとハンガリーが大いに力を削がれていた。 オタカル2世は帝国の大空位時代とほぼ被る治世(1253年 - 1278年)の間にボヘミア王国史上最大の版図を実現した。皇太子時代の1252年にバーベンベルク家最後の男系女子だったマルガレーテと結婚してオーストリア公となり、オーバーエスターライヒ、ニーダーエスターライヒ、シュタイアーマルクの一部を獲得した。その後1260年のクレッセンブルンの戦いでハンガリー王ベーラ4世を破り、シュタイアーマルクの残部、ケルンテンの大部分、カルニオラの一部を征服し、その領土はアドリア海に達した。彼は「鉄と金の王」とのあだ名で呼ばれた。鉄は彼の征服活動、金はその富を意味する。またドイツ騎士団を支援して北方のプロイセンにも遠征して1256年に異教徒のプルーセン人を破り、クラーロヴェツ(チェコ語: Královec)という都市を建設した。後にケーニヒスベルクのドイツ語名で知られるようになったその名は「王の砦」を意味するが、これはドイツ騎士団がオタカル2世に敬意を払って付けたものである。 しかし1273年にローマ王選挙でオタカル2世を破り選出されたハプスブルク家のルドルフ1世は皇帝権回復を志し、オタカル2世の勢力を削り始めた。国内貴族の反乱にも苦しんでいたオタカル2世は、1276年までにオーストリアを始めとするドイツにおける領土をすべて失い、1278年のマルヒフェルトの戦いでルドルフ1世との決戦に挑んだが敗死した。 跡を継いだヴァーツラフ2世の元には従来のボヘミア王国の版図しか残っていなかった。そのボヘミアも王が幼少であることから、その保護者になるという名目で周辺諸国の侵略の的となり、一時期王国とヴァーツラフ2世は5年にわたりブランデンブルク=シュテンダール辺境伯オットー4世の支配下に置かれたこともあった。が、彼は1300年にポーランド王位を獲得、1301年に息子ヴァーツラフ3世をハンガリー王に即位させた。1305年にボヘミア王位・ポーランド王位をも継承したヴァーツラフ3世の元で、プシェミスル朝の支配はハンガリーからバルト海にまで及んだ。しかし翌1306年、ポーランド王位を守るためポーランド遠征を企図していたヴァーツラフ3世がオロモウツで暗殺されてプシェミスル朝は断絶400年に及んだプシェミスル朝のボヘミア統治は幕を下ろした。ポーランドではピャスト朝のヴワディスワフ1世が諸侯の再統合を進めて1320年にポーランド王位を復活させ、ハンガリーではアンジュー朝が成立した。その一方でボヘミア王国は、国外の諸家が王位を争う闘争の舞台となった。 13世紀はドイツからの東方植民が活発に行われた時代であるが、プシェミスル朝の歴代君主はこの活動を大いに支援した。ボヘミアの外縁部の都市や鉱山地域には多数のドイツ人が入植し、一部はボヘミア内部にも植民都市を建設した。ドイツ人入植地として有名な都市は、ストジーブロ、クトナー・ホラ、ニェメツキー・ブロト(現ハヴリーチクーフ・ブロト)、イフラヴァが挙げられる。ドイツ人はイウス・テウトニクム(ドイツ人の法、ラテン語: ius teutonicum )と称する独自の法体系を持ち込み、これが後にボヘミアとモラヴィアにおける商法の基礎となった。チェコ人貴族とドイツ人の婚姻も一般的に行われるようになった。
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