フランスに移って 1922-1945
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「ジョルジュ・シムノン」の記事における「フランスに移って 1922-1945」の解説
デジール・シムノンは1922年に亡くなる。その結果、ジョルジュ・シムノンはレジーヌ・ランション(以後、愛称だった「ティギー」を用いることとする)とともにパリに引っ越すことになった。最初はまず第17区に居を構えた。バティニョール通りからそれほど離れていない場所である。彼は街に馴染み、居酒屋、安宿、バー、レストランなどに精通することになった。さらに重要なことには、シムノンが普通の労働者階級のパリ市民達と知り合ったのである。様々なペンネームを用いて作品を著すことで、シムノンの創造性はいよいよ実を結び始める。 シムノンとティギーは、1923年3月、結婚するためごく短い期間リエージュに戻った。シムノンは、育ちはカソリックだったにもかかわらず、信仰を保ってはいなかった。ティギーの家は、完全に無宗教だった。しかし、シムノンの母親は教会での結婚式にこだわり、ティギーに、カソリックの教理問答集を勉強して、名目上だけでも信者になるよう強制した。シムノンが確固とした信仰を持っていたわけではなかったのに、シムノンの子供達は全員、カソリック教徒として洗礼を受けさせられることになった。とはいえティギーと結婚しても、シムノンが他の多くの女達とのつながりを断ち切ることにはならなかった。その中でも一番有名だと思われた女性は、ジョセフィン・ベイカーだった。 シムノンは取材の任務を受けて、1928年に長期間船旅に出ることになる。この船旅で、シムノンは船の面白さを覚えた。1929年、彼は自分の船を建造することを決心した。オストロゴス号である。シムノン、ティギー、料理人でもあり家政婦でもあるアンリエット・リベルジュ、そして彼らの飼い犬であるオラフがオストロゴス号の住民となった。そしてフランスの運河を巡る旅をした。アンリエット・リベルジュは、「ブール」(文字通り、玉、という意味で、彼女の少しずんぐりした見た目にちなんだ呼び名)、として知られる女性だが、シムノンとはこの後数十年の間恋愛関係にあった。しかし、シムノン夫妻の親しい友人であり、シムノン家の一部となっていたのである。 1930年、シムノンが創り出した最も有名な登場人物、メグレ警視(Commissaire Maigret)が作品「刑事(Detective)」に初めて登場する。この作品はジョセフ・ケッセルズの頼みに応じて書かれたものだった。この初めてのメグレ刑事ものは、オランダを航行している時、特にいうならデルフゼイルの近辺を航海中に書かれたものだった。このことを記念してデルフゼイルにはメグレの像が建てられている。 1932年には、シムノンは頻繁に旅に出た。アフリカ、東ヨーロッパ、トルコ、ソビエト連邦などから記事を送っていた。世界中を旅する生活は1934年になっても終わらず、1935年まで続いた。 1932年から1936年にかけて、シムノン、ティギー、ブールは、フランス、シャラント・マリティム県マルシリにある、ラ・リシャルディエールという16世紀の大邸宅に住んでいた。この邸宅は、シムノンの小説「ドナデュの遺言(Le Testament Donadieu)」の中で触れられている。1938年の初め、シムノンはラ・ロシェルにある別荘アグネを借り、8月には(シャラント・マリティム県の中の)ニュル・シュル・メールの農家の建物を購入している。そして、ティギーとの間の一人息子、マークがここで1939年に誕生した。 シムノンは、第二次大戦中はヴァンデ県に住んでいた。戦争中の彼の行動はかなりの議論を呼ぶこととなった。学者の中には、シムノンがこれまでずっとドイツと通じていたのだという見方をするものが出てきており、その一方でこの見方を否定するものがいた。シムノンのことを、政治には関心の無い男で、本質的に日和見主義者だが、決してドイツの協力者などではない、と解釈していたのである。しかし、シムノンが現地の農場主達からドイツの協力者だと告発され、その一方で、ゲシュタポからは彼がユダヤ人ではないかと疑われて-これは「シムノン(Simenon)」という名前と「シモン(Simon)」という名前とを混同してのことだったのだが-状況はさらに混乱したものとなった。ともあれ、戦争末期にはシムノンは当局の監視下に置かれていた。というのも、ドイツの占領中に、彼は自分の著作の映画化の権利をドイツの映画スタジオと交渉して取り決めていたからである。1950年には、5年間、新作の出版を一切禁止される処分を受ける。しかし、この処分は公に告知されていなかったため、ほとんど実効のないものであった。 戦争中、シムノンは重要な作品をいくつも生み出した。その中には、「ドナデュの遺言(Le Testament Donadieu)」、「万聖節の旅人(Le Voyageur de la Toussaint)」「マエの輪(Le Cercle des Mahé)」などである。彼は重要な文通も行っている。特にアンドレ・ジイドとの文通が有名である。 1940年代初めには、シムノンは健康上の不安を抱えていたが、ある時、その地の医者が彼の心臓が重篤な状態にある(シムノンの父親のことを思い出させるが)と誤診したのである。余命数ヶ月という診断であった。また、ティギーがブールのことでシムノンにとうとう不意打ちをくらわせたのも同じ頃であった。シムノンとティギーは1949年までは夫婦でいたのだが、今では結婚といっても形だけのものになっていた。ティギーが最初に抗議したのにもかかわらず、ブールは二人とともにとどまっていたのだった。 戦争中の不確かな振る舞いにもかかわらず、ラ・ロシェールの街は結局はシムノンに栄誉を与えることとなった。1989年に、彼にちなんで埠頭の名前をつけたのである。シムノンは体調が悪く、献呈の式典には出席できなかった。しかし、2003年には、彼の息子のジョニーが父親を表彰する別の行事に参加している。
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