フイ高地攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
8月20日、爆撃と砲撃の後にソ連軍北方軍の前進が始まると、日本側右翼(北側)の満州国軍は直ちに敗走し、これによりフイ高地の日本軍は孤立した。ジューコフの計画では「北方軍は一部兵力でフイ高地を遮断して、主力はノモンハンに向かって急進し、包囲環を形成する」であり、フイ高地は第7装甲車旅団で簡単に蹂躙できると考えていた。これはフイ高地を防衛する第23師団捜索隊(指揮官井置栄一中佐)の戦力を2個中隊程度の歩兵と過少評価していたからであるが、井置捜索隊の実際の戦力は騎兵2個中隊(内1個は装甲車小隊を含む自動車化中隊)、歩兵2個中隊、歩兵砲1個中隊、工兵1個中隊、九四式三十七粍砲4門、山砲2門、重機関銃29丁であり、総兵員は約800名と連隊には達しないが、ソ連軍の推測よりは大きな兵力であった。 ノモンハン事件では日ソ両軍ともに偵察活動が不十分で、お互いに誤った情報による作戦ミスを犯しているが、ソ連軍は総攻撃の際も同じ轍を踏んでおり、攻撃に際しての偵察活動もお粗末であった。軍司令部は全く情報を持たなかったし、各部隊は日本軍に攻撃を悟られないよう偵察活動は禁止されていたので、ソ連軍は司令部から前線部隊までまともな情報を持たずに総攻撃を開始したことになった。しかしシュテルンとジューコフは日本軍の前線の戦力を50,000名以上と、実際の2倍 - 6倍に過大に見積もり、その過大な推定に基づいて慎重な作戦計画を練ったため、不十分な偵察活動が原因となって全体的な作戦に大きな支障が生じることはなかった。しかしフイ高地の井置捜索隊については、戦力の過少評価の他に、井置中佐の指揮の下で、高地全体が全周1.5 kmの全周囲陣地になり、コンクリートを使用した掩体壕など、陣地内を張り巡らされた壕で高地が要塞化されているとの情報も持たないまま強攻することとなってしまったため。北方軍の兵員約6,000名、戦車200輌、装甲車123輌に対し、井置捜索隊は800名の少数の火砲しか無かったが、北方軍は大苦戦を強いられた。陣地攻略に絶大な威力を発揮する化学戦車を先頭に、ソ連兵は「ウラー」と喚声を上げながら突撃し塹壕に大量の手榴弾を投擲(とうてき)してきたが、塹壕を巧みに活用する日本兵により、陣地内の塹壕に化学戦車が擱座すると、日本兵が得意の白兵戦に持ち込み、ソ連兵を銃剣突撃で圧倒し大損害を与えて撃退するといった一進一退の攻防が20日の終日に渡って繰り広げられた。 北方軍が第601狙撃兵連隊連隊長スターク少佐戦死を含む大損害を出しながらも、フイ高地を突破できなかったことを知ったジューコフは、これ以上の作戦の遅れは容認できないと予備兵力全てをフイ高地攻略に投入することとした。それを知ったシュテルンがジューコフの下にやってきて「無理をせず一息入れて、2-3日かけて準備して再度攻撃せよ」と勧告したが、ジューコフは拒否し「戦争に犠牲はつきもの、特に頑強な日本軍相手であれば当然のこと、2〜3日も延期すれば、途方もない作戦遅延と損害を出す、貴方の勧告を受け入れたら損害は10倍にもなる、「貴方の勧告が命令なら書面にしてほしい、もっともそんな命令書はモスクワが拒否するはず」と突っぱねた。この後にジューコフが手を回し、国防相のヴォロシーロフがシュテルンに何らかの助言を行い、シュテルンは勧告を取り下げている。結局、その後の展開を見ればジューコフが正しかったのだが、シュテルンは納得しておらず、戦後に「予備部隊については、これは理解できない作戦である」と報告書に記述している。これでシュテルンとジューコフの対立はさらに深まることとなった。 井置捜索隊はその後も善戦し、圧倒的なソ連軍を21日と22日の2日にわたって撃退した。ジューコフは井置の善戦を素直に「我々が想像した以上に頑強」と評価する一方で、北方軍の司令官であったシェフニコフ大佐の戦術に対しては「北方兵団長は、兵力の一部をもってフイ高地の日本軍を釘付けにするかたわら、主力をもって速やかに南方への進撃を続けないで、フイ高地に一連の攻撃を続行し、いずれも失敗した」と激しく批判したのち、シュテルンの不興を無視して北方軍司令を解任した、後任にはアレクセンコ大佐を司令官に任命し、予備部隊の212空挺旅団899名と第9装甲車旅団1,809名を追加投入して、猛攻を加えてきた。既に戦力差は10倍以上となっていたが、それでも井置捜索隊は弾薬尽きるまで戦い続けた。その頑強な抵抗は戦後にソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所が編纂した『大祖国戦争史(1941〜1945)』に記述されるぐらいであったが、24日には800名の兵員の内戦死182名、負傷183名で半分の兵員が死傷しており、食糧・弾薬も尽きかけていた。24日昼に指揮官の井置は、各級指揮官を集めて今後の作戦を協議したが、部下からはこれ以上フイ高地を維持しようというどんな試みをやっても、半日しかもたないだろう。一旦撤退して、物資の補給を受けて戦力を補充しフイ高地の奪還を試みるべきという意見が出された。責任感から井置は拳銃で自決しようとしたが、部下に制止され撤退の命令を出すように懇願された。井置には仮に脱出に成功しても、命令なくして退却したかどにより罪を咎められて、フイ高地でこのまま死ぬかわりに別の機会に死を選ぶことになるということは十分分かっていたが、生存しているわずかな部下将兵が、水不足により脱水症状で苦しんでいるのを見るのが耐え切れなくなっており、24日の16時には日本軍としては殆ど前例がない独断での撤退命令を出した。残存兵269名は奇跡的にソ連軍の重包囲を掻い潜り、オポネー山まで撤退した。散々ソ連軍を足止めし大損害を与え、「ジューコフが指揮官なら井置に勲章を授けていただろう優秀な指揮官」とも賞された井置は、独断撤退を荻洲や小松原から責められ、ノモンハン戦停戦後9月16日に自決している。
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