フイヤン派の政権
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ジャコバンクラブから分離した勢力が1791年7月16日にフイヤン修道院でフイヤンクラブを結成した。フイヤンクラブの議員が議会の多数になった。7月17日に議会は共和派の集会を弾圧し、国民衛兵を派遣し、発砲によって数百名の死者を出した(シャン・ド・マルスの虐殺)。フイヤン派の権力は軍事力と警察力を背景に安定した。共和派の革命派は潜伏した。 フイヤン派には自由主義貴族(領主)とブルジョアジーの最上層が結集していた。領主権の維持と確保のため8月27日に貢租の増加が決定された。9月3日に憲法が成立し、立憲君主制を採用して行政権は国王に属し、立法権は議会に属するが国王に拒否権を認めた(1791年憲法)。議会は一院制で選挙権も被選挙権も一定の租税を納める者に限定した。「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言された。こうして革命の第一段階は終わった。 1791年9月30日に国民議会は解散し、新憲法の下で10月1日に立法議会が招集された。国民議会の議員は立法議会の議員になれないという規定が設けられたので、議員は全員入れ替わったが、議会の党派は変わらなかった。権力の主導権を握るフイヤン派が264人、野党的左派が136人、無所属の中央派が345人いた。フイヤン派は絶対多数を取ったわけではなかったが、政治は安定し輸出と商品は増加し経済は安定した。革命直前に比べて1791年のパンの値段は43パーセント下がり、肉の値段も41~30パーセント下がった。下層階級の生活は安定し、騒乱状態は遠ざかった。憲法の成立を祝って大赦令が出され、共和派、貴族の反革命派も釈放された。 1792年1月に物価高騰が始まった。買い占め人とみられた商人の何人かが群衆に襲撃され破壊や放火の対象になった。アシニアの価値は下落をはじめた。1791年度の国家財政は1億6200リーブルの赤字となった。赤字の原因は新しい租税の基本となった地租が土地所有者の抵抗によって進まなかったためだった。赤字を補充するためにアシニアの増発が行われた。アシニアの信用をめぐってフイヤン派のブルジョアジーと他のブルジョアジー勢力との対立が起こった。
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