チェーカーの創設・反富農運動・赤色テロ・強制収容所の設置
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「ウラジーミル・レーニン」の記事における「チェーカーの創設・反富農運動・赤色テロ・強制収容所の設置」の解説
「チェーカー」、「クラーク撲滅運動」、および「グラーグ」を参照 1917年12月、レーニンは反ボリシェヴィキ勢力による政権転覆を防止するため、フェリックス・ジェルジンスキーが率いる秘密警察組織「反革命・投機・サボタージュ取締り非常委員会(全露非常委員会・БЧК チェーカー)」の創設を命じた。レーニンは旧体制を転覆し、革命の成功を確実にするには恐怖と暴力が不可欠であると提唱しており、死刑撤廃の提案にも強く反対した。 1918年初頭までに、ロシア西部の都市の多くでは慢性的な食糧不足による飢饉が発生していた。レーニンは、富農(クラーク)が生産した穀物を密かに備蓄していることがその原因であると見做し、1918年5月には徴発令を発して富農から穀物を没収するための武装分遣隊を組織し、6月には徴発を助ける目的で「貧農委員会(英語版)」の結成を命じた。徴発に向かった武装分遣隊はしばしば農民と衝突したため、この政策は大きな社会的混乱と暴力をもたらし、ロシア内戦が勃発する背景のひとつとなった。この問題に対する当時のレーニンの見解を示す顕著な一例はペンザのボリシェヴィキへ宛てた1918年8月の電報であり、レーニンはその中で農民の反乱を鎮圧するため「最低でも100人の名の知れた富農、金持ち、吸血者」を公衆の目前で絞首刑にするよう命じていた。 徴発によって農民は自ら消費する以上の穀物を生産する意欲を失い、結果的に生産量は急激に減少した。国家が認める経済活動を補完する形で闇市が急成長したが、レーニンは闇取引を行う者や投機家を射殺するよう命じた。1918年7月の第5回全ロシア・ソビエト大会で、社会改革党と左翼社会革命党は武力による穀物徴発を非難した。貧農委員会が富農ではない農民をも迫害しており、それが農民全体の反政府感情につながっていると判断したレーニンは、1918年12月に委員会を廃止した。 1918年8月、モスクワでレーニンは2度目の暗殺未遂に遭い、工場での演説を終えた帰途に銃で撃たれ重傷を負った。実行犯として社会革命党員ファーニャ・カプラン(ロシア語版、英語版)が逮捕され、処刑されたが、犯人は別人であったという説も存在する。いずれにしてもこの事件はミルバッハ暗殺と合わせて社会革命党を弾圧するきっかけになった。この暗殺未遂はロシアで広く報道され、レーニンの人気は同情を受けて高まった。1918年9月、レーニンは静養のためモスクワ近郊のゴールキの邸宅に移された。 1918年9月、人民委員会議は布告を発し、チェーカーによって指揮される組織的弾圧「赤色テロ」の開始が宣言された。赤色テロによる犠牲者は大半が富裕層の市民や帝国政府の元関係者であったが、反ボリシェヴィキの非ブルジョワジーや社会的に望ましくないと見做された売春婦のような人々も含まれていた。チェーカーはそれが政府の敵と見做すあらゆる人間に死刑を言い渡し、刑を執行する権限を与えられており、革命裁判所を頼る必要もなかったため、ソビエト・ロシア各地でしばしば大規模な処刑が実行されることとなった。一例としてペトログラードのチェーカーは数日間で計512名の死刑を執行した。赤色テロによる正確な犠牲者数を示す記録は現存していないが、のちに歴史家が推定した死者数には1万–1万5000人とするものや5万人–14万人とするものがある。 このような暴力の行使にレーニンが立ち会ったことや直接参加したことは一度もなく、公的には暴力から距離を保っていた。レーニンは機密文書や暗号化された電報の中で頻繁に処刑の執行を要求したが、公表される文書や演説の中で要求することはほとんどなかった。赤色テロは全ブルジョワジーの抹殺を目的とした試みであったと評される場合もあるが、レーニンが望んだのはブルジョワ階級自体の絶滅ではなく、ソビエト政権の支配に抵抗する一部のブルジョワの処刑であったとの見解も存在する。チェーカーによる大規模処刑には多くのボリシェヴィキも難色を示し、その活動を制限するため共産党は1919年2月にチェーカーから公的に戒厳令下にない地域における裁判と処刑の権限を剥奪したが、以後もロシア各地でチェーカーはそれまでと同様の活動を続けた。1920年までに、チェーカーはソビエト・ロシアにおいて最強の権力を持つ機関に成長し、他のすべての国家機構に影響を及ぼす存在となった。 また、1919年4月の布告によって各地に強制収容所が設置され、その管理は当初チェーカーに委託されたが、のちに強制収容所の管理を担う新たな政府機関「グラーグ」が創設された。1920年末の時点で、ソビエト・ロシアには84の収容所と約5万人の被収容者が存在したが、1923年10月には収容所の数は315となり、被収容者も約7万人に増加した。これらの被収容者は強制労働に従事させられていた。
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