チェーザレの活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:08 UTC 版)
「アレクサンデル6世 (ローマ教皇)」の記事における「チェーザレの活躍」の解説
1500年は聖年であった為、多くの巡礼者がローマを訪れた。多くの巡礼者が贖宥状を購入し、教皇は多くの現金収入を得た(ちなみに聖年にサン・ピエトロ大聖堂の聖なる扉が開かれる慣例を創始したのはアレクサンデル6世である)。 教皇はこれを財源に軍を編成し、再びチェーザレを北部イタリアへ派遣した。戦況は一進一退ではあったが、4月にはついにミラノを再び落とし、ルドヴィーコ・スフォルツァを失脚させた。ところが外部の脅威を除くと内部で悲劇が起こり、ルクレツィアの夫、ビシェーリエ公が殺害された。もはや価値がなくなったとみなされたビシェーリエ公は、美しいルクレツィアを政略結婚で再び利用しようとしたチェーザレの指示で殺害されたという説もある。 教皇はさらなる財源としてスペイン人を多く含む新枢機卿12人を任命、12,000ドゥカットを手に入れた。北部を平定したチェーザレと共に、十字軍派遣の名目で中部イタリアの平定作戦を企てた。秋になるとフランスとヴェネツィアの援助も受けたチェーザレは10,000の軍勢をそろえる事ができた。 北部イタリアにおけるチェーザレの華々しい活躍と(厳しいものではあったが統制のとれていた)専制統治の見事さはニッコロ・マキャヴェッリから賞賛される事になった。 1501年7月にローマに戻ったチェーザレはロマーニャ公となり、イタリア北部を勢力下においたルイ12世と南イタリア攻略を検討し、スペインとの間にナポリ王国分割の密約も締結した。教皇も7月25日にこれを承認している。かくして、フェデリーコ1世は正式に退位させられ、フランス軍はナポリ領に侵攻、教皇はオルシーニ家と組んでコロンナ家の弱体化に成功した。 教皇は不在中、娘のルクレツィアを教皇代理としていたが、その明晰さは評判となった。ルクレツィアはそれから間もない1502年1月にフェラーラ公アルフォンソ1世・デステの元に嫁ぐ事になる。 この頃、ジョバンニが生まれている。彼の父は確定できない。アレクサンデル6世だったという説もあるし、チェーザレだったという説もある。 フランスとスペインがナポリ領の分割を巡って争っている頃、チェーザレは既に次の目標を探していた。彼は間髪入れずにカメリーノとウルビーノを攻め、すぐに陥落させて教皇を大喜びさせた。しかし、教皇の軍隊も傭兵が多いという弱みがあった。イタリア半島そのものに食指を動かし始めたフランスとなんとか手を組もうとした教皇だったが、これに失敗。再びフランス軍がイタリアに侵攻し、反ボルジア家的な人々を糾合した。教皇の外交手腕とチェーザレが南イタリアへのフランスの侵攻に協力する事を表明した事で、フランスは中部イタリア侵攻を思いとどまった。 次の危機は、かつて打倒した君主達から起きた。オルシーニ家の残党が謀議をはかったのである。教皇軍が敗北した為、さすがの教皇も色を失った。
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