チェーザレ・ボルジアとの結婚
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「シャルロット・ダルブレ」の記事における「チェーザレ・ボルジアとの結婚」の解説
王座に着くと、フランスのルイ12世はブルターニュ公国との強い絆を築き、フランス王国に組み込むためアンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を望むが、その時点で彼は既にジャンヌ・ド・フランスと結婚していた。アルブレ伯アラン1世(英語版)率いるフォワ=アルブレは事実上の主権国家であるベアルン子爵領のフランスによる乗っ取りを恐れた。 ナバラの君主カタリナとフアンはルイ12世のベアルンヘの野望を和らげるため、アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を支援し和解交渉の助けとした。ルイ12世はジャンヌとの結婚の破棄を教皇に要求した。教皇は息子のチェーザレと王家の血をひく女性との婚姻を見返りとして要求した。ナバラの君主たちはフアンの妹シャルロットを交渉のために薦めた。 政略によりカタリナとフアンはピレネー山脈の北に心の安らぎを得ると同時に、ローマとの友好的な外交関係を確立し、特にナバラの教会の司教の任命をめぐるパンプローナのパラヴィチーニ家、ナバラ君主による対立を解決する道を開く可能性があった。1499年春に催された結婚式の契約には様々な条件が定められた。 1499年5月10日ブロワで、19歳のシャルロットは教皇アレクサンデル6世とヴァノッツァ・カタネイの悪名高い息子チェーザレ・ボルジアと結婚した。彼は当時フランス国王ルイ12世によって創設されたヴァランティノワ公になっていた。結婚は政略であり、チェーザレとフランスとの同盟関係を強固なものにするため取り決められた。チェーザレはフォワ=アルブレの支配下にある領土に長く留まることは無かった。結婚してシャルロットを妊娠させた直後にイタリアへ戻り、誕生した娘に会いに戻って来ることもなかった。チェーザレはルイ12世のイタリア侵攻に同行した。 シャルロットは「美しく豊穣」だったと形容されている。1504年、彼女はフュジーヌ(英語版)、ネレ(英語版)、ラ・モット=フイイ(英語版)の領主となった。チェーザレとシャルロットには一人だけ娘がいた。 ルイーザ・ボルジア、シャリュ領主、ヴァランティノワ女公(1500年5月17日-1553年)。最初の結婚は1517年4月7日、ブルゴーニュ総督のルイ2世・ド・ラ・トレモイユと。2度目の結婚は1530年2月3日、ビュッセ領主フィリップ・ド・ブルボンとで、この結婚では子供が生まれた。 チェーザレはスペインの牢獄から脱出してシャルロットの兄であるナバラ王のもとに避難した後、1507年3月12日のヴィアナの包囲戦で戦死した。シャルロットは彼の死後、父親の後継者でヴァランティノワ女公であるルイーザの摂政を務めた。チェーザレの死後からほぼ7年後の1514年3月11日、ラ・モット=フイユ(英語版)で死去して、同地の教会の墓地に葬られた。 21世紀に至ってもチェーザレ・ボルジアとシャルロット・ダルブレの子孫は数多く存命であり、その中にはシクスト・エンリケ・デ・ボルボン=パルマ王子がいる。
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