ソコロフの調査
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7月25日にエカテリンブルクが反共の白軍の手に落ちると、アレクサンドル・コルチャーク将軍はその月の末に皇帝一家の殺害を調査するソコロフ委員会を立ち上げた。オムスク地方裁判所調査官ニコライ・ソコロフ(ロシア語版)は1919年2月にロマノフの側近の数人(有名なところではピエール・ジリアール(英語版)やアレクサンドラ・テグレヴァ、シドニー・ギブス(英語版))から聴取した。 遺体が当初捨てられた炭鉱とその周辺でソコロフはユロフスキーと従者に見落とされた数多くのロマノフ家の所有物や貴重品を発見した。その中には寸断され焼かれた骨の破片や凝固した脂肪、ボトキン博士の上の義歯と眼鏡、コルセット、記章とベルトのバックル、靴、鍵、真珠とダイヤモンド、使用済みの銃弾数個、切断された女性の指の一部があった。アナスタシアのキング・チャールズ・スパニエルの死骸だけが穴の中で見つかった。遺体が炭鉱に投げ込まれる前に犠牲者の衣類全てが焼かれたとのユロフスキーの報告と一致する浅い穴は衣類の痕跡をとどめていなかった。フィアットのトラックが7月19日の朝にはまり込んだ場所の証拠としてこの場所の写真を撮りながらソコロフはコプチャキ街道の秘密の埋葬場所を結局は発見し損なった。その後、ソコロフは1919年7月、ボリシェヴィキの反撃を受け、発見した遺品を入れた箱を持って国外に避難せざるを得なくなった。ソコロフは8巻に及ぶ写真と目撃した報告を集めた。調査を完了する前に1924年にフランスで心臓発作で死亡した。箱はブリュッセルのイクルの聖ヨブのロシア正教会に保管されている。 予備の報告がフランス語と当時のロシア語で同じ年に本として出版され、1989年までの69年間、殺害についての唯一正当とされる歴史的な真相とされた。ソコロフは射撃され刺殺されたアレクセイとアナスタシアを除いて囚人は銃撃で即座に死亡し、遺体は大掛かりなたき火で破壊されたと誤って断定した。皇后と子供がツァーリと共に殺害されたと認めながら、調査の公表と世界的な受容は、1926年にソコロフの著作を大いに盗用した政府公認の教科書を発行するようソビエト当局を促した。1938年、ヨシフ・スターリンはロマノフ殺害に関する討論全てを厳格に取り締まらせた。ソコロフの報告も発禁処分となった。 詳細は「イパチェフ館#館の解体」を参照 イパチェフ館はレオニード・ブレジネフ政権下の政治局により、「十分な歴史的重要性」を備えていないとみなされ、殺害から60年を翌年に控えた1977年9月に取り壊された。エリツィンは後年、備忘録に「早晩この一連の蛮行を恥と感ずるであろう」と書いた。館を取り壊しても巡礼や君主主義者がこの場所を訪れるのを止められなかった。 地元のアマチュア探偵アレクサンドル・アヴドーニン(英語版)とボリシェヴィキ出身の両親を持つ映画監督のゲリー・リャボフ(ロシア語版)は、長年の秘密の証拠収集と主要な証拠研究を終えると1979年5月30日から31日にかけて浅い墓を発見した。三つの頭蓋骨が墓から持ち出されたが、検査を助ける科学者や研究所を見つけるのに失敗し、墓を発見した結果について憂慮すると、アヴドーニンとリャボフは、1980年の夏に再埋葬した。多くはアヴドーニンの杞憂だったが、ミハイル・ゴルバチョフ書記長は1989年4月10日にモスクワ・ニュース(英語版)にロマノフの墓所を明かすようリャボフを急き立てるグラスノスチ(開放)とペレストロイカ(改革)の時代に持ち込んだ。貴重な証拠を否定しながら、残りはこの場所を解体する早まった「公式の発掘」におけるソビエト当局者により1991年に発掘された。 遺体に着衣はなく受けた損傷が激しいため、最小限残ったものがアナスタシアのものなのか、マリアのものか、サンクトペテルブルクで鑑定され、埋葬されたのか論争が続いた。実際に森で発見された骨が完全にロマノフ家のものかについてロシア正教会内で相当な意見の相違があった。信頼性が確実になるまでの「象徴的な」墓を選択しながら、聖教会裁判所(英語版)はペトロパヴロフスク要塞に埋葬する1998年2月の政府の決定に反対した。その結果、1998年7月に埋葬されると帝室というよりは「革命によるキリスト教被害者」としてお勤めを行う司祭により話題にされた。 2007年7月29日、別の地元の愛好家団体がコプチャキ街道の主な墓から遠くない二つの小さなたき火の痕にあるアレクセイや姉妹の残したものを含む小さな穴を発見した。犯罪捜査官や遺伝学者がアレクセイとマリアと断定したが、「徹底的で詳細な」検査を要求する教会の決定まで国立公文書館に保管されたままである。
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