ジャーナリスト・作家活動
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「ヨーゼフ・ロート」の記事における「ジャーナリスト・作家活動」の解説
1918年に一旦ガリツィアの母のもとに戻るが、ウクライナ・ハンガリー内戦に巻き込まれそうになり、ウィーンに戻った。敗戦後はウィーンで社会主義系の新聞『新しい日』の定期寄稿者となって、ジャーナリストとしての活動を始め、敗戦による社会問題を正面から論じるのではなくユーモアを交えた観察(フェユトーン)で「叙情的なフェユトニスト」と呼ばれた。ロートは、二重帝国の敗戦と帝国の零落について、「全世界が戦争を制御できなかったゆえにではなく、戦争そのもののゆえに、世界を、われわれのせかいのすべてを失った」と書き、それゆえ大きな闘争は「世界」大戦と呼ばれたのだと記した。ウィーンでは、カフェ・ツェントラール(ドイツ語版)によく足を運んだ。しかし『新しい日』紙は1年ほどで休刊となり、1920年、ロートは友人たちとともにベルリンに移り、『新ベルリン新聞』『ベルリン日報』『ベルリナー・ベルゼン・クゥリエ(ドイツ語版)』紙で活躍し始める。またロートは1921年、ベルリンでの居住許可に問題をかかえており、牧師の友人が彼はブロディ近くのドイツ人入植地、シュヴァーベンドルフ(ドイツ語: Schwabendorf、現ピドヒルチ(英語版、ドイツ語版))に生まれたとする洗礼証明書をあたえ、これによりサン=ジェルマン条約にもとづいてオーストリア国籍を取得することができた。 1922年、一時ウィーンに戻り、知り合いだった美しいユダヤ人女性フリーデリケ(フリードル)・ライヒラーと結婚した。1923年にドイツの代表的な新聞『フランクフルト新聞(ドイツ語版)』の特派員となり、ヨーロッパ各地を巡って紀行文やルポルタージュを寄稿した。この訪問先のホテルやカフェでは短編小説も執筆した。 1923年にオーストリア社会民主党の機関誌『労働者新聞(Arbeiter Zeitung)』の編集長に勧められて、ナチス台頭の裏面を描く初めての小説『蜘蛛の巣』(1923年)を連載。この時期の作品には、東部戦線の帰還兵たちを描いた『サヴォイ・ホテル』(1924年)がある。1926年、ロートは4か月にわたってロシアを旅行し、この際に社会主義への失望を抱くようになった。モスクワでロートに会ったドイツの文芸評論家ヴァルター・ベンヤミンは、『モスクワ日記』の中でこう書いている。 彼(ロート)は確信的なボリシェヴィキとしてロシアにやって来て、君主主義者としてロシアを去っていった。 — ヴァルター・ベンヤミン、『モスクワ日記』1926年12月6日付 この頃から、妻のフリーデリケは精神に異常をきたすようになった。ロートはこれ以後、ロシア軍捕虜となってロシア革命を経験しパリへと放浪する男を描く『果てしなき逃走』(1927年)、旧帝国時代と戦後の世代の葛藤を題材とする『フィッパーとその父』(1928年)などを執筆し、「失われた世代」の作家の一人といわれた。一方、1928年以降、妻のフリーデリケは精神病院への入退院を繰り返すようになった。ロートは、ヒトラーの政権掌握までの間、懸命にはたらいた。そして1930年代には、ユダヤ人教師一家の過酷な運命を描く『ヨブ-ある平凡な男のロマン』(1930年)、ソルフェリーノの戦いで皇帝の命を救った英雄の一族の運命をオーストリア帝国の没落に重ねる『ラデツキー行進曲』(1932年)などを発表し、作家としての名を不朽のものとした。『ラデツキー行進曲』では、19世紀から20世紀初頭にかけてのハプスブルク帝国を舞台としてトロッタ家3代の歴史が綴られている。
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