ジャーナリストへの道
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福建省の地方官僚の家庭に生まれる。当初は旧学を学んだが、1909年(宣統元年)に福建工業学校に入学してからは新学に親しんだ。1912年(民国元年)、上海の南洋公学(後の上海交通大学)附属小学に入学し、その後南洋大学(公学改組後の学校名)まで進学している。ここでは父の希望もあって電気工学を学んだが、結局関心を抱くことができなかった。そのため1919年(民国8年)、上海聖ヨハネ大学に転入して外国文学と教育学を学んだ。 1921年(民国10年)に鄒韜奮は大学を卒業し、当初は上海紗布交易所で英文秘書を担当した。翌1922年(民国11年)、中華職業教育社に移り、月刊誌『教育與職業』の編輯となる。また、中華職業学校などで英語教師も務めた。この頃、『職業教育概論』などの教育学関連著書も執筆した。 1925年(民国14年)、『教育與職業』は週刊誌『生活』となり、翌年10月に鄒韜奮が主編となった。鄒は職業教育社社員のみを読者対象としていた同誌の主旨を変更し、一般社会向けの雑誌へと衣替えした。雑誌内において鄒は職業教育関連のみならず、社会改良主義などの主張も展開している。さらに同誌は、陳調元や王伯群など国民政府高官の腐敗ぶりをも暴く記事を掲載した。
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ジャーナリストへの道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 14:25 UTC 版)
父は秀才の家庭に生まれる。葉楚傖自身も当初は学問を志し、県試・府試に合格したが、院試には落第した。1903年(光緒29年)、上海南洋公学に入学し、さらに潯渓公学に移った。しかし数ヶ月で学生デモにより同公学は解散されてしまう。その後の葉は、革命派の思想に傾倒するようになる。1904年(光緒30年)、蘇州高等学堂に入学したが、学校の監督者との対立から学堂を去る。 まもなく、葉楚傖は広東省汕頭に移って、従兄が主筆を務めていた『中華新報』に入る。そして、病気の従兄の代理として主筆をつとめた。1909年(宣統元年)春に中国同盟会に加入すると、『中華新報』を舞台に、反清・革命派の宣伝に従事している。1911年(宣統3年)に『中華新報』は発禁処分を受けた。しかし葉は、すぐに『新中華報』として復刊し、さらにそれまでの主張を宣伝し続けた。 同年10月、辛亥革命が勃発すると、葉楚傖自身も革命派の軍に加入し、清朝の軍隊との戦闘に参加した。戦後は再びジャーナリストに戻り、上海で創刊された『太平洋日報』、『民立報』(于右任・邵力子らが創刊)に加わって、袁世凱批判の論陣を張った。また、柳亜子らの南社にも加入している。1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)の敗北とともに、『民立報』は廃刊に追い込まれた。しかしその後も、葉は『生活日報』などで小説・詩文等を書いた。
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