ジャーナリスト・実業家
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著述活動をはじめ、明治10年(1877年)に自費出版で『日本開化小史』を刊行開始。翌明治11年(1878年)には『自由交易日本経済経済論』を出版。同年には沼間守一らの嚶鳴社設立に島田とともに発起人として参加し、演説活動も行っている。 翌明治12年(1879年)に大蔵省を辞職し、翻訳業を手がけつつ新聞への投書や著述活動を行い、同年にはイギリスの『エコノミスト』誌を範とした『東京経済雑誌』を創刊し、自由主義の立場での論陣を張った。明治13年(1880年)には東京府会議員となり、憲法制定や、条約改正などの政治問題に関しても発言。自由党機関紙『自由新聞』の客員も務める。 実業家としては、東京府知事・高崎五六から提案された府の士族授産金処理事業としての南洋交易を引き受け、明治23年(1890年)に南島商会を組織し、貿易船天祐丸で南洋渡航を行う。東京株式取引所、鉄道経営においては明治20年(1887年)に両毛鉄道社長、21年に小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)取締役などを務める。 明治13年(1880年)12月から明治23年〈(890年)7月まで)からまでの東京府会議員を経て、明治23年(1890年)には府会副議長となる。 明治27年(1894年)には尾崎三良らと帝国財政革新会を結成し、この年には衆議院議員に当選する。以後、明治27年(1894年)10月から明治38年(1905年)2月まで衆院議員を務めた。 明治29年(1896年)には進歩党を結成、明治30年(1897年)には島田三郎らと財政整理期成同盟会を組織する。明治31年(1898年)、憲政党創設委員に参加。 明治32年(1899年)、法学博士を授与される。 明治33年(1900年)、義和団の乱に際して視察を行う。 晩年『国史大系』、『群書類従』の編纂に道筋をつけた。ほとんど独力で行われたこれらの編纂・出版事業を評して鳥谷部春汀は「利益のみを目的としては決して企てることができない、文壇への慈善事業である」と賞賛している。 明治38年(1905年)、慢性腎炎のため死去。 大正4年(1915年)、従四位を追贈された。
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