ジャーナリスト・作家として
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「上杉隆」の記事における「ジャーナリスト・作家として」の解説
1999年7月から2001年までニューヨーク・タイムズ東京支局取材記者。1999年、石原慎太郎東京都知事、高井英樹特別秘書ともに都庁記者会見を開放。2000年、デビュー作『石原慎太郎 5人の参謀』(小学館)を刊行。 2001年、フリーランス・ジャーナリストとして独立。小泉純一郎首相、飯島勲秘書官とともに内閣記者会の加盟社を拡大。2002年、一連の外務省を取材、田中真紀子取材で「雑誌ジャーナリズム賞企画賞」を受賞。「ジャーナリズム五原則」を提言開始。オプエド®の概念を日本に初めてもたらす。2003年、北朝鮮入国リポート、イラク戦争取材の途上で事故、パリなどで約一年間入院。2004年、『エビジョンイル』(文藝春秋)を造語。流行語大賞のノミネートを受けるも即日取り消された。2005年、メディア取材開始。「官報複合体」を造語。2006年、キューバを訪問しフィデル・カストロの弟のラウル・カストロなど現職大臣や政府高官に取材。 2009年、3月24日、民主党の小沢一郎代表から記者クラブ開放の言質を取り、記者会見オープン化を前進させる。8月、松野頼久次期内閣官房副長官らと新しい記者会見のスキームを創設。9月の鳩山由紀夫内閣発足後、外国人特派記者等の一部の記者は新たに会見に参加したが、ネットメディアは事実上締め出されていた点を公約違反であると指摘。フリーランスやネット、海外メディアなどにも開くよう大臣らと直接交渉し、金融庁、外務省、内閣府、総務省、文科省、法務省、環境省などでオープン化を実現させる。『記者クラブ崩壊』(小学館)を出版。ウィキリークスとジュリアン・アサンジの登場と安全保障上の危機を外務省で最初に質問(岡田克也外務大臣)。2010年、内閣記者会見開放を正式に申し入れ(幹事社:共同通信、フジテレビ)。日本で最初にテレビとネットのサイマル放送を実現(朝日ニュースター)。同年、官房機密費問題の追及を開始(週刊ポストなど)。 2011年、自由報道協会を創設し代表となる。 2012年、株式会社NOBORDER設立。2013年、公益社団法人自由報道協会代表を辞任。2014年6月、インターネットニュース番組「ニューズ・オプエド®」の放送を開始。プロデューサー兼アンカー。2014年6月、日本ゴルフ改革会議 の枠組みを事務局長として整え発足させる。 2016年、東京都知事選挙に立候補し、落選(後述)した際、ジャーナリストを引退することを表明。2018年5月3日、50歳の誕生日に放送された「ニューズ・オプエド」内にて小説家になる事を発表。2019年1月25日、京都、本山修験宗総本山京都聖護院門跡(もんぜき)で得度(出家)した。 2017年11月5日、日米首脳会談中の霞ヶ関カンツリー倶楽部(埼玉)に取材でNOBORDER NEWS(NBN)の一員として訪れた際、不審者が紛れ込んでいると通報・埼玉県警の警備本部に連行され、また、同時間帯にホテルニューオータニ(東京)にホワイトハウスが設置したプレスセンターにいた、公式取材パス所持のNBN記者も排除されたことを、「NOBORDER追放事件」として告発した。 2019年7月、過去の2度の引退宣言を撤回し、ジャーナリストに復帰したことを発表した。
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