サン=レミとは? わかりやすく解説

サン=レミ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/15 06:38 UTC 版)

サン=レミまたはサン・レミSaint-RémySaint-Rémi)は、フランス語の地名。聖レミギウスにちなむ。




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サン=レミ(1889年5月-1890年5月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 00:20 UTC 版)

フィンセント・ファン・ゴッホ」の記事における「サン=レミ(1889年5月-1890年5月)」の解説

サン=レミの療養所病室当初ファン・ゴッホは3か月程度滞在のつもりだったが、36歳から37歳までの1年間療養生活を送った同年1889年5月8日ファン・ゴッホは、サル牧師伴われアルルから20 km余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院フランス語版療養所入所した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いたてんかん発作起こしやすい、と私は推定する。」と記録している。 ファン・ゴッホは、療養所一室画室として使う許可得て療養所の庭でイチハツ群生アイリス描いたまた、病室鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈山裾斜面描いた6月に入ると、病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようになった。同じ6月、アルピーユの山並みの上輝く星々と三日月に、S字状にうねる描いた星月夜』を制作した。彼は、『オリーブ畑』、『星月夜』、『キヅタ』などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている。一方テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念伝えている。7月初めファン・ゴッホヨー妊娠したことを知らされお祝いの手紙を送るが、複雑な心情覗かせている。 ファン・ゴッホ病状改善しつつあったが、アルル作品取り行き戻って間もなく同年1889年7月半ば、再び発作起きた8月22日ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度発作野外で風の吹く日、絵を描いている最中起きた。」と書いている。9月初めに意識清明戻り自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像ドラクロワの『ピエタ』の石版複製手がかりにした油彩画などを描いたまた、ミレーの『野良仕事』の連作模写したファン・ゴッホは、模写仕事を、音楽家ベートーヴェン解釈するのになぞらえている。以降12月まで、ミレー模写のほか『石切場入口』、『渓谷』、『病院の庭の』、オリーブ畑、サン=レミのプラタナス並木通り道路工事などを描いた。 『アイリス1889年5月、サン=レミ。油彩キャンバス、74.3 × 94.3 cmJ・ポール・ゲティ美術館(米カリフォルニア州)F 608, JH 1691。 『星月夜1889年6月、サン=レミ。油彩キャンバス、73.7 × 92.1 cmニューヨーク近代美術館F 612, JH 1731。 『二本糸杉1889年6月、サン=レミ。油彩キャンバス、93.4 × 74 cmメトロポリタン美術館F 613, JH 1746。 『オリーブ畑』1889年6月、サン=レミ。油彩キャンバス72 × 92 cmクレラー・ミュラー美術館F 585, JH 1758。 『麦刈る男』1889年9月、サン=レミ。油彩キャンバス、73.2 × 92.7 cmゴッホ美術館F 618, JH 1773。 『プラタナス並木通り道路工事1889年12月、サン=レミ。油彩キャンバス、73.4 × 91.8 cmクリーブランド美術館F 658, JH 1861。 1889年クリスマスの頃、再び発作起き、この時は1週間程度収まった1890年1月下旬アルル旅行して戻ってきた直後にも、発作襲われた。1月31日テオヨーの間に息子(フィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に『花咲くアーモンドの木の枝』を描いて贈ったり、ゴーギャン共同生活時代残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身届けようアルルに出かけた時、再び発作意識不明になった4月ペロン院長テオに、ファン・ゴッホが「ある時は自分感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し疑わしげ様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復遅れている様子伝えている。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者恐ろしい恐怖感さいなまれ絵具飲み込もうとしたり、看護人ランプ注入中の灯油飲もうとしたりなど、数回わたって服毒試みた発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業没頭していた。」と記載されている。 一方ファン・ゴッホ絵画少しずつ評価されるようになっていた。同年1890年1月評論家アルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホ高く評価する評論載せブリュッセル開かれた20人展ではゴッホの『ひまわり』、『果樹園』など6点出品され好評博した2月、この展覧会ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』が初め400フラン売れ買い手画家20人展メンバーアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた。3月には、パリ開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点テオにより出品されゴーギャンモネなど多く画家から高い評価受けているとテオが兄に書き送っている。 体調回復した5月ファン・ゴッホは、ピサロ親し医師ポール・ガシェ頼ってパリ近郊オーヴェル=シュル=オワーズ転地することにした。最後に糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所退所した。翌朝パリ着き数日間テオの家で過ごしたが、パリ騒音気疲れ嫌って早々にオーヴェル向かって発った。 『花咲くアーモンドの木の枝1890年2月、サン=レミ。油彩キャンバス、73.3 × 92.4 cmゴッホ美術館F 671, JH 1891。 『糸杉と星の見える道1890年5月、サン=レミ。油彩キャンバス92 × 73 cmクレラー・ミュラー美術館F 683, JH 1967

※この「サン=レミ(1889年5月-1890年5月)」の解説は、「フィンセント・ファン・ゴッホ」の解説の一部です。
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