コント、スペンサー、マルクス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 21:48 UTC 版)
「社会学史」の記事における「コント、スペンサー、マルクス」の解説
社会学(仏: sociologie)という術語は最初にフランスの随筆家アベ・シエイエス(1748年–1836年)によって造語された (ラテン語: socius、「仲間」; および接尾辞 -ology、「~の研究」、ギリシア語λόγος「知識」より)。 この術語はこれとは独立に1838年にフランスの思想家オーギュスト・コント(1798年–1857年)によって新語として再発明・紹介された。コントは初期には自身の研究を「社会力学」(仏:physique sociale)と称したが、この言葉は他の人々、特にベルギーの統計学者アドルフ・ケトレー(1796年–1874年)によって専有されていた。コントは社会契約の独創的な啓蒙社会哲学者に倣って著述し、社会領域の学的理解を通じて全ての人間に関する研究を統一しようとした。彼独自の社会学スキームは19世紀の人文主義者に特有のものであった; 全ての人間の生は個々の歴史的段階を通過し、そしてもしこの発展を把握できれば社会的病理の処方箋を書けるようになると彼は信じていたのである。コントのスキームでは、社会学は「学問の女王」となるはずであった; 全ての基本的な物理科学が初めに来て、ほとんど根本的に異なる人間社会の科学自体がそれに後続するというのである。以上のことから、コントは「社会学の父」とみなされるようになった。コントは自身の広範な科学哲学を『実証哲学講義』[1830年-1842年]と名付けたが、一方『実証主義の一般的視点』(1865年)では社会学特有の目的が強調された。 後半生では、コントは、かつて伝統的信仰に担われていた結合機能を果たすために、実証主義社会の「人類教」を発展させた。1849年に、彼は「実証主義暦」と呼ばれる改暦を提案した。側近者であるジョン・ステュアート・ミルにとって、「良いコント」(『実証哲学講義』の著者)と悪いコント(世俗宗教的な『機構』の著者)を区別することは可能であった。『機構』は失敗したが、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』の出版に遭遇して、19世紀の世俗的ヒューマニズム組織の激増に対して、特にジョージ・ヤコブ・ホリョークやリチャード・コングリーヴといった世俗主義者の著作を通じて影響を与えた。ジョージ・エリオットやハリエット・マーティノーといったコントの英語圏での信奉者は彼の機構の非常に盛大な儀式のほとんどを否定しているにもかかわらず、人類教という概念自体とコントが「他者のための生」(仏:vivre pour altrui、Altruismという単語の由来)を至上命令としたこととは好んだ。 コントによる社会進化の説明はカール・マルクス(1818年–1883年)の、人間社会は共産主義という頂点を目指す発展の途上にあるという思想との類似性をはらんでいる。これは、初期のユートピア的社会主義者でかつてコントの師であったアンリ・ド・サン=シモン(1760年–1825年)から両者が大きく影響を受けていることを鑑みれば驚くべきことではないだろう。両者は世俗化の波に乗っており、新しい科学的イデオロギーを発展させる傾向にあった。マルクスはヘーゲル主義の伝統に立って実証主義的方法を否定したが、それにもかかわらず「社会の科学」を発展させようという試みの中で、後のより広い意味での社会学の創設者の一人とみなされるようになった。アイザイア・バーリンはマルクスを「その称号を請求しうる者の中でも」近代社会学の「真の父」であると評している。 往時の人々の心を最も占めていたこれらの理論的な問題に対して行き届いた経験的な術語で明確かつ総括的な解答を与えたことが、また、二者の間に明らかに人工的なつながりを想定することなく明確で経験的な指示をそれらから推測したことがマルクスの理論の最大の業績であった[...]コントや彼に倣ったスペンサー、イポリット・テーヌが議論し秩序付けた歴史的・倫理的問題の社会学的取扱い方は、闘争的マルクス主義がその結論を問題として激しい論争を引き起こし、証拠の調査をより熱烈に、そして方法に対する関心をより強烈にさせたときにのみ、精密で具体的な研究となった。 — アイザイア・バーリン『カール・マルクス』、1967年、 この引用文にもみられるようにハーバート・スペンサー(1820年–1903年)はしばしばコントの追随者とみなされるが、彼は生前からこのことを嫌っており、コントを全く読んだことがなかったことを自叙伝に記している; 進化生命学の諸種の発展に倣って書いて、スペンサーは今日社会ダーウィニズム的とみなされるような術語を使って社会学を(いたずらに)再定式化しようとした(スペンサーは実際のところはダーウィニズムというよりラマルキズムの唱道者であった)。
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