グレコ・イランの美術とは? わかりやすく解説

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グレコ・イランの美術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)

パルティア」の記事における「グレコ・イランの美術」の解説

パルティアにおける「ギリシア愛好」の美術を最も顕著に示しているのが、ミトラダテス1世建設した首都、ミトラダトケルタ(現:トルクメニスタンニサ)の遺跡である。ニサ発見され兵士頭像を含む多く美術品は、初期パルティア美術ギリシア美術から大きな影響受けていたことを証明している。これらの中にはイラン要素が全く見られないものが数多くあることから、グレコ・バクトリアや地中海世界からの搬入品である可能性もある。この中含まれる有名なギリシア様式リュトンは、グレコ・バクトリア、またはティグリス河畔セレウキアからの戦利品であると見られている。これはアルサケス朝宮廷美術代表するのであるが、現代においてニサ以外のアルサケス朝宮廷美術どのようなものであったかを知る手立てコイン除いてほとんど存在しないニサ代表されるパルティア地方における美術対しイラン高原ではやや異な発展状況見られた。イラン高原比較長期渡りセレウコス朝の支配が行われ、ギリシア的な植民都市ネットワークパルティア地方比べであったアレクサンドロス期からセレウコス朝時代ギリシア特徴を持つ彫刻断片複数発見されている。セレウコス朝からアルサケス朝へと支配者交代する頃、彫刻におけるギリシア原理イラン原理接近兆候見られた。その代表作ベヒストゥンの崖壁に彫られた「休息するヘラクレス」の像であり、ギリシア主題ヘラクレス)とイラン表現方法岩壁レリーフ)が統一されている。 こうしたグレコ・イラン美術は、ギリシア写実主義影響にあったが、仕上げ主題選択における技術的な退行見られることから、しばしば「堕落したギリシア美術」と見做され老衰期の単純な状態に後退した哀れなほど低い」芸術水準を示すともされてきた。一方でヘレニズムによってイランの芸術接ぎ木されあらゆる要素から解放されて「決定的な進歩」を成し遂げ単なるギリシア美術模倣ではなく新たにイラン系装飾効果重視した美意識アラブ系美術的伝統などの復興通じて新し様式確立したとする見解伝統的に存在するこの間原始的な技術への回帰否定し難く制作技術パルティア時代通じて継続的に低下したが、外来影響から解放され伝統復活させようとする意図重要な意味を持ったパルティア時代一般的な美術主題には、拝火壇の前で行われる宗教儀式、王の狩猟アルサケス朝の王の叙任式、そして馬上試合がある。これらのモチーフ使用は、地方支配者たちの描写にも広まった一般的な芸術表現媒体は、石碑レリーフフレスコ画、そして落書きであった幾何学的定型化された植物文様はストッコとプラスター製の壁に用いられた。サーサーン朝時代一般的となる二人騎手ランス構えて戦う馬上試合美術主題は、パルティア時代ベヒストゥン山において初め現れるパルティア美術独特な特徴正面主義原則厳密に守った人物描写である。パルティア影響下にある地域では、人物を絵、彫刻描写する際には、横顔ではなく見る者に正対するように描く表現方法普及した人物描写正面主義は、既にパルティア以前からある古い美術技法として見られた。古く紀元前一千年紀初頭のスィアールク遺跡から発見され彩文土器にその類例見られるこうした正面描写アケメネス朝時代公的な美術では歓迎されなかったが、グレコ・イランの彫刻では継続的に使用された。ダニエル・シュルンベルガーはパルティア時代正面描写革新について以下のように説明している。 現在、「パルティア正面主義(Parthian frontality)」と我々が呼ぶものは、古代中東ギリシア正面主義のいずれとも非常に異なるものであるが、疑う余地なく後者から発達したのであるオリエント美術ギリシア美術双方において、正面向き描写例外的な表現方法であったオリエント美術では厳密に伝統的な宗教と神話上の少数人物にのみ使用する手法であり、ギリシア美術では主題正面性要求する明確な理由がある場合にのみオプションとして用いるものであった。そして、全体としては滅多に採用されなかった。パルティア美術においてはこれらとは逆に正面向き一般的な人物描写方法となったパルティア正面主義実際としてはレリーフ絵画のみでみられる習慣であり、全ての人物の正面表現は、(現代モダンアートのように)他の部分描写犠牲にしても明快さ明瞭さをもって用いられた。正面向き描写体系的に用いられたことで、横向き描写と、動作中を表現するような中間的姿勢描写事実上完全に放棄された。この美術の特異な状態は、西暦1世紀の間に確立されたように思われるパルティア美術は、肖像における明確な正面描写使用共々サーサーン朝によってもたらされ深遠な文化的政治的変化によって失われ放棄された。だが、ドゥラ・エウロポスでは165年ローマによって占領され後でも、パルティア式の正面描写肖像盛んに用いられつづけた。これは3世紀初頭ドゥラ・エウロポスシナゴーグ英語版)の壁画、この都市パルミュラ神々捧げられ神殿、そして現地ミトラ教神殿によって例示されている。

※この「グレコ・イランの美術」の解説は、「パルティア」の解説の一部です。
「グレコ・イランの美術」を含む「パルティア」の記事については、「パルティア」の概要を参照ください。

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