グレコ・イランの美術
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パルティアにおける「ギリシア愛好」の美術を最も顕著に示しているのが、ミトラダテス1世が建設した首都、ミトラダトケルタ(現:トルクメニスタンのニサ)の遺跡である。ニサで発見された兵士の頭像を含む多くの美術品は、初期のパルティア美術がギリシア美術から大きな影響を受けていたことを証明している。これらの中にはイラン的要素が全く見られないものが数多くあることから、グレコ・バクトリアや地中海世界からの搬入品である可能性もある。この中に含まれる有名なギリシア様式のリュトンは、グレコ・バクトリア、またはティグリス河畔のセレウキアからの戦利品であると見られている。これはアルサケス朝の宮廷美術を代表するものであるが、現代においてニサ以外のアルサケス朝の宮廷美術がどのようなものであったかを知る手立てはコインを除いてほとんど存在しない。 ニサに代表されるパルティア地方における美術に対し、イラン高原ではやや異なる発展の状況が見られた。イラン高原は比較的長期に渡りセレウコス朝の支配が行われ、ギリシア的な植民都市のネットワークもパルティア地方に比べ密であった。アレクサンドロス期からセレウコス朝時代のギリシア的特徴を持つ彫刻の断片が複数発見されている。セレウコス朝からアルサケス朝へと支配者が交代する頃、彫刻におけるギリシア的原理とイラン的原理の接近の兆候が見られた。その代表作はベヒストゥンの崖壁に彫られた「休息するヘラクレス」の像であり、ギリシアの主題(ヘラクレス)とイランの表現方法(岩壁レリーフ)が統一されている。 こうしたグレコ・イラン美術は、ギリシアの写実主義の影響下にあったが、仕上げや主題選択における技術的な退行が見られることから、しばしば「堕落したギリシア美術」と見做され、老衰期の単純な状態に後退した「哀れなほど低い」芸術水準を示すともされてきた。一方で、ヘレニズムによってイランの芸術に接ぎ木されたあらゆる要素から解放されて「決定的な進歩」を成し遂げ、単なるギリシア美術の模倣ではなく、新たにイラン系の装飾効果を重視した美意識やアラブ系の美術的伝統などの復興を通じて新しい様式を確立したとする見解も伝統的に存在する。この間、原始的な技術への回帰は否定し難く、制作技術はパルティア時代を通じて継続的に低下したが、外来の影響から解放され、伝統を復活させようとする意図は重要な意味を持った。 パルティア時代の一般的な美術主題には、拝火壇の前で行われる宗教儀式、王の狩猟、アルサケス朝の王の叙任式、そして馬上試合がある。これらのモチーフの使用は、地方支配者たちの描写にも広まった。一般的な芸術表現の媒体は、石碑のレリーフ、フレスコ画、そして落書きであった。幾何学的で定型化された植物文様はストッコとプラスター製の壁に用いられた。サーサーン朝時代に一般的となる二人の騎手がランスを構えて戦う馬上試合の美術主題は、パルティア時代のベヒストゥン山において初めて現れる。 パルティア美術の独特な特徴は正面主義原則を厳密に守った人物描写である。パルティアの影響下にある地域では、人物を絵、彫刻に描写する際には、横顔ではなく見る者に正対するように描く表現方法が普及した。人物描写の正面主義は、既にパルティア以前からある古い美術技法として見られた。古くは紀元前一千年紀初頭のスィアールク遺跡から発見された彩文土器にその類例が見られる。こうした正面描写はアケメネス朝時代の公的な美術では歓迎されなかったが、グレコ・イランの彫刻では継続的に使用された。ダニエル・シュルンベルガーはパルティア時代の正面描写の革新について以下のように説明している。 現在、「パルティアの正面主義(Parthian frontality)」と我々が呼ぶものは、古代中東とギリシアの正面主義のいずれとも非常に異なるものであるが、疑う余地なく後者から発達したものである。オリエント美術とギリシア美術の双方において、正面向きの描写は例外的な表現方法であった。オリエント美術では厳密に、伝統的な宗教と神話上の少数の人物にのみ使用する手法であり、ギリシア美術では主題が正面性を要求する明確な理由がある場合にのみオプションとして用いるものであった。そして、全体としては滅多に採用されなかった。パルティア美術においてはこれらとは逆に、正面向きが一般的な人物描写の方法となった。パルティアの正面主義は実際としてはレリーフと絵画のみでみられる習慣であり、全ての人物の正面表現は、(現代のモダンアートのように)他の部分の描写を犠牲にしても明快さと明瞭さをもって用いられた。正面向き描写が体系的に用いられたことで、横向きの描写と、動作中を表現するような中間的姿勢の描写は事実上完全に放棄された。この美術の特異な状態は、西暦1世紀の間に確立されたように思われる。 パルティア美術は、肖像における明確な正面描写の使用共々、サーサーン朝によってもたらされた深遠な文化的、政治的変化によって失われ放棄された。だが、ドゥラ・エウロポスでは165年にローマによって占領された後でも、パルティア式の正面描写の肖像は盛んに用いられつづけた。これは3世紀初頭のドゥラ・エウロポスのシナゴーグ(英語版)の壁画、この都市のパルミュラの神々に捧げられた神殿、そして現地のミトラ教の神殿によって例示されている。
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