グルジエフとの出会い~ロシア脱出~コンスタンチノープル滞在~『ターシャム』の英語版のヒット~単身ロンドンへ(1915年~1924年)
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「ピョートル・ウスペンスキー」の記事における「グルジエフとの出会い~ロシア脱出~コンスタンチノープル滞在~『ターシャム』の英語版のヒット~単身ロンドンへ(1915年~1924年)」の解説
一九一五年四月、P・D・ウスペンスキーはグルジェフと初めて面談する。当時の彼の関心のありかを反映して、真っ先に質問したのは、インドのことと麻薬のことだった。ウスペンスキーは、サンクト・ペテルスブルグでグルジエフのグループの活動に加わり、グルジエフの思想・知識を熱心に吸収する。P・D・ウスペンスキーは、恋人のアンナ・ブトコフスキーをグルジェフに紹介し、彼女もグループの一員になる。彼女の手記によると、グループ内でのウスペンスキーのニックネームは「要約屋」、彼女のニックネームは「よろめき」だった。 まもなくP・D・ウスペンスキーのパートナーとなったのは別の女性だった。マダム・ウスペンスキーことソフィー・グレゴリヴナは、1874年にウクライナに生まれ、一九一七年にP・D・ウスペンスキーの紹介でグルジェフと出会い、やがてマダム・ウスペンスキーとして知られるようにななった。彼女はそれまでに二度結婚し、娘がひとりいた。マダム・ウスペンスキーとP・D・ウスペンスキーの間の関係は謎とされ、なんらかの事情から形式的に結婚したのだとも、正式には結婚していなかったかもしれないとも噂される。 1918年ごろになると、P・D・ウスペンスキーはグルジエフへの反発を覚えだし、その思想と人物を区別して考えるようになりだす。その背景には、グルジエフの追求する取り組みがコーカサス山中での共同の営みを通じて実践的な性格を強め、内戦に伴う混乱に対応する必要が生じるなかで生じた、一部の生徒に対するグルジエフの態度に対するP・D・ウスペンスキーの批判と、「ムーヴメンツ」の原型となる身体的な訓練や音楽の導入といったことへの不満があったと思われる。 音楽や彫刻といった非常に興味深い道があるというのは、疑いようもないことだ。だが、だれもが音楽や彫刻を学ばなければならないとは思われない。学校では必修科目と選択科目がある。[……]自分がついていけないような[科目を教える]師を選んでしまうなら、取り組みの最初の時点で誤りを犯すということになる。自分が扱うメソッドや科目とうまが合わない生徒、たとえやってみても意味がわからず、理解する見込みもない生徒とは取り組みを共にしないように注意するのは師の責任であると見なすのが道理だろう。だが、それでもそれが起こってしまい、自分は自分のついていけない師のところで学ぼうとしていたのだとわかったら、そこを離れて別の師を見つけるか、もしも可能なら独力でやっていくしかない。 P・D・ウスペンスキーはグルジエフとは別行動でロシアを脱出した後、1920年からマダムと共にコンスタンチノープルに滞在、ロシア本国を脱出したロシア人を相手にグルジエフに由来する思想を教える。ここでふたたびグルジエフと共に歩むことを試みるが、最終的にこれを断念する。「残念ながら、あなたがたがやっているのは無を空に注ぐようなおしゃべりにすぎない」。ウスペンスキーのもとを訪れたグルジエフのそのようなことばをチェスラヴ・チェコヴィッチが記録に残している。この時期、のちに愛憎半ばする間柄となるJ・G・ベネットと、偶然のきっかけで知り合っている。 ちょうどこのころ、アメリカの出版社からウスペンスキーの元に小切手が送りつけられてきた。その出版社が無断で英訳して出版した『ターシャム・オルガヌム』がアメリカで大ヒットしたのだった。その出版社は、ほんとうは高校中退であるP・D・ウスペンスキーの学歴について虚偽の表示をシていた。この誤りはずっと修正されず、ウスペンスキーは数学者としての経歴がある高学歴の人物で、前途を有望視されたインテリだったという誤解は現在にまで尾を引いている。 P・D・ウスペンスキーは、このようにして得られた名声を利用し、さらにグルジエフから得た知識も活用して、イギリスで運試しすることに決める。マダムはこれに同行せず、それから長いことグルジエフと行動を共にした。自分の意図したことではないにせよ、経歴を偽って出版した本のヒットに依存して精神的な教師としての稼業を始めることで、P・D・ウスペンスキーは、経済との引き換えに多くを失った可能性がある。イギリス人の夫と共にパリに移り住んでいた元恋人のアンナ・ブトコフスキーは、1922年にロンドンで彼と再会し、その変貌ぶりを嘆いた。 彼は外面に硬い殻を発達させていて、ああ彼はどうしてサンクト・ペテルスブルグ時代の柔らかく詩情あふれる内面の輝きを押しつぶしてしまったのだろうと私は思いました。彼は彼自身のそんな側面を弱さと見なしたのだろうけれど、そこから生じる幸せな空気のなかでこそ、彼の霊感とヴィジョンは最高の高みに達したのでした。それは知識をふりかざすのとはまったく違ったことでした。 ここで『イワン・オソキンの不可思議なる人生』に描写された少年時代を振り返るなら、教科に対する不満(ギムナジウムではギリシャ語とラテン語)、教師に反発することでの自己主張、自分のほうからの学ぶ機会の放棄は、オソキンがのちに深く悔やみながらもどうしてもやめられない人生における反復性のパターンだった。 「自分の力を過信していた。自分のやりたいようにやりたかった。恐いもの知らずだった。ふつう人が大事にするすべてのものを投げ捨てて、省みることなく行動してしまった」「何度も機会に恵まれたのに、どれもこれも逃してしまった。最初の機会がいちばん大事なものだった。まだ若く、こうしたらこうなるということがわからない時分、理解も自覚もないまま、人生のすべて、未来のすべてに影響するようなことをしでかしてしまう。なんてむごいことだろう。」
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