グルジエフとの出会い~ロシア脱出~コンスタンチノープル滞在~『ターシャム』の英語版のヒット~単身ロンドンへとは? わかりやすく解説

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グルジエフとの出会い~ロシア脱出~コンスタンチノープル滞在~『ターシャム』の英語版のヒット~単身ロンドンへ(1915年~1924年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 00:10 UTC 版)

ピョートル・ウスペンスキー」の記事における「グルジエフとの出会い~ロシア脱出~コンスタンチノープル滞在~『ターシャム』の英語版のヒット~単身ロンドンへ(1915年1924年)」の解説

一九一五四月P・Dウスペンスキーグルジェフ初め面談する当時彼の関心のありかを反映して真っ先質問したのは、インドのことと麻薬のことだった。ウスペンスキーは、サンクト・ペテルスブルググルジエフグループ活動加わりグルジエフ思想知識熱心に吸収するP・Dウスペンスキーは、恋人のアンナ・ブトコフスキーをグルジェフ紹介し、彼女もグループ一員になる。彼女の手記によると、グループ内でのウスペンスキーニックネームは「要約屋」、彼女のニックネームは「よろめき」だった。 まもなくP・Dウスペンスキーパートナーとなったのは別の女性だった。マダム・ウスペンスキーことソフィー・グレゴリヴナは、1874年ウクライナ生まれ一九一七年にP・Dウスペンスキー紹介グルジェフ出会い、やがてマダム・ウスペンスキーとして知られるようにななった。彼女はそれまで二度結婚し、娘がひとりいた。マダム・ウスペンスキーとP・Dウスペンスキーの間の関係は謎とされ、なんらかの事情から形式的に結婚したのだとも、正式に結婚していなかったかもしれないとも噂される。 1918年ごろになると、P・Dウスペンスキーグルジエフへの反発覚えだし、その思想人物区別して考えるようになりだす。その背景には、グルジエフ追求する取り組みコーカサス山中での共同営み通じて実践的な性格強め内戦に伴う混乱対応する必要が生じるなかで生じた一部生徒対すグルジエフ態度対すP・Dウスペンスキー批判と、「ムーヴメンツ」の原型となる身体的な訓練音楽導入といったことへの不満があったと思われる音楽彫刻といった非常に興味深い道があるというのは、疑いうもないことだ。だが、だれもが音楽彫刻を学ばなければならないとは思われない学校では必修科目選択科目がある。[……]自分ついていけないような[科目教える]師を選んでしまうなら、取り組み最初時点誤り犯すということになる。自分が扱うメソッド科目とうまが合わない生徒、たとえやってみても意味がわからず理解する見込みもない生徒とは取り組みを共にしないよう注意するのは師の責任であると見なすのが道理だろう。だが、それでもそれが起こってしまい、自分自分ついていけない師のところで学ぼうとしていたのだとわかったら、そこを離れて別の師を見つけるか、もしも可能なら独力でやっていくしかないP・Dウスペンスキーグルジエフとは別行動ロシア脱出した後、1920年からマダムと共にコンスタンチノープル滞在ロシア本国脱出したロシア人相手グルジエフ由来する思想教える。ここでふたたびグルジエフと共に歩むことを試みるが、最終的にこれを断念する。「残念ながらあなたがたやっているのは無を空に注ぐようなおしゃべりにすぎない」。ウスペンスキーのもとを訪れたグルジエフそのようなことばをチェスラヴ・チェコヴィッチが記録残している。この時期、のちに愛憎半ばする間柄となるJ・Gベネットと、偶然のきっかけ知り合っている。 ちょうどこのころアメリカ出版社からウスペンスキー元に小切手送りつけられてきた。その出版社無断英訳して出版した『ターシャム・オルガヌム』がアメリカで大ヒットしたのだった。その出版社は、ほんとう高校中退であるP・Dウスペンスキー学歴について虚偽の表示をシていた。この誤りはずっと修正されず、ウスペンスキー数学者として経歴がある高学歴人物で、前途を有望視されたインテリだったという誤解は現在にまで尾を引いている。 P・Dウスペンスキーは、このようにして得られ名声利用し、さらにグルジエフから得た知識活用してイギリス運試しすることに決める。マダムはこれに同行せず、それから長いことグルジエフ行動を共にした。自分意図したことではないにせよ、経歴偽って出版した本のヒット依存して精神的な教師として稼業始めることで、P・Dウスペンスキーは、経済との引き換え多く失った可能性がある。イギリス人の夫と共にパリ移り住んでいた元恋人のアンナ・ブトコフスキーは、1922年ロンドンで彼と再会し、その変貌ぶりを嘆いた。 彼は外面硬い殻を発達させていて、ああ彼はどうしてサンクト・ペテルスブルグ時代柔らかく詩情あふれる内面輝き押しつぶしてしまったのだろうと私は思いました。彼は彼自身のそんな側面弱さ見なしたのだろうけれど、そこから生じ幸せ空気のなかでこそ、彼の霊感ヴィジョンは最高の高み達したのでした。それは知識ふりかざすのとはまった違ったことでした。 ここで『イワン・オソキンの不可思議な人生』に描写され少年時代振り返るなら、教科対する不満(ギムナジウムではギリシャ語ラテン語)、教師反発することでの自己主張自分のほうからの学ぶ機会放棄は、オソキンがのちに深く悔やみながらもどうしてもやめられない人生における反復性パターンだった。 「自分の力を過信していた。自分やりたいようにやりたかった恐いもの知らずだった。ふつう人が大事にするすべてのものを投げ捨てて省みることなく行動してしまった」「何度も機会恵まれたのに、どれもこれも逃してしまった。最初機会がいちばん大事なのだった。まだ若くこうしたらこうなるということわからない時分理解自覚もないまま、人生のすべて、未来のすべてに影響するようなことをしでかしてしまう。なんてむごいことだろう。」

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