クアナ・パーカーとサミュエル・バーク・バーネット
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「クアナ・パーカー」の記事における「クアナ・パーカーとサミュエル・バーク・バーネット」の解説
クアナ・パーカーとサミュエル・バーク・バーネットの家族間に育った特異な友情の物語は、パーカー家からバーネット家に渡った文化的所産の姿に表されている。クアナの戦いの槍ほど重要な文化遺産の贈呈は軽々しく成されるものではなかった。それはバーネット家がクアナ家から見られていた高い尊敬の明らかな印だった。クアナとサミュエル・バーク・バーネットおよびその息子トム・バーネットとの間に交わされた書簡はこれら伝説の人物の間に存在した相互の称賛と尊敬の関係をはっきりと映し出している。 1875年以前のクアナが若いときについてはほとんど知られていない。1850年頃のいずれかの時点で、クアナはコマンチェ族戦闘派酋長ペタ・ノコナの息子としてこの世に生を受けた。クアナの母シンシア・アン・パーカーは1836年5月19日にテキサス共和国ナバソタ川の水源にあったパーカーの砦に向けられた悪名高い襲撃の時に捕まえられた。シンシア・アンは掴まったときに9歳であり、直ぐにコマンチェ族の生活様式に染まった。 クアナはペタ・ノコナとシンシア・アンの間に生まれた3人の子供の総領だった。シンシア・アンがコマンチェ族の家族と共に25年間過ごした後の1860年12月18日、ピース川沿いノコニ宿営地にあったテキサス・レンジャーズの攻撃で白人に取り返された。シンシア・アンは悲しみに打ちひしがれ、夫や息子と別れたことで不機嫌だったという。捕まえられた時に幼い娘「プレーリー・フラワー」が一緒だったが、それから3年以内に死んだ。シンシア・アンは何度かコマンチェ族の家族の元に帰ろうとし、苦悶の年月を過ごした後で、1870年に死んだ。 テキサス・レンジャーズはノコニ宿営地への襲撃時にペタ・ノコナを殺したと報告したが、クアナに拠れば、襲撃があって母が捕まえられたときに彼とその父は遠くに出ていたので、事実ではなかった。クアナは数年後にカナディアン川の堤で父の埋葬を手伝ったとも言っていた。 歴史の記録では1874年6月27日にアドビウォールズでバッファロー・ハンター達を攻撃した時にクアナが居たとされるまで、クアナの半生はほとんど知られていない。この頃、クアナはアパッチ族との交流があったということを示す断片的な情報が残っている。 この交流は疑いもなくペヨーテの親交を得ることに関係しており、その結果クアナはアパッチ族の女を妻にした可能性がある。この同盟は短命に終わった。証拠として残っている精妙なアパッチ族の服、袋および杖はクアナの青年時代を偲ぶ名残である。 バッファローがほとんど絶滅に近くなり、アメリカ陸軍の襲撃のために馬や住み処を大きく失い、1875年5月下旬から6月初旬の間にシル砦にコマンチェ族クァハダ(アンテロープ)・バンドを連れて行くことになった。このことで南部平原における自由な遊牧的生活が終わりを告げ、囚われの生活に対する適応の始まりとなった。 バーク・バーネットは1874年にテキサス州南部、現在のウィチタ・フォールズ近くに牛を追っていき、そこで1881年に牧場の本拠を設立した。テキサスでは変わりやすい天候と厳しい干魃のために草地が枯れ死んでしまった。バーネットと他の牧場主達がコマンチェ族やカイオワ族と会合を開き、オクラホマのレッド川の直ぐ北、居留地内の100万エーカー (4,000 km2) 近い土地を借りることになった。 クアナはその生涯で「白人の土俵」で多くの調停を行うことになった。その1つの例がコマンチェ族の土地で放牧する権利に関することだった。元々クアナはその同時代人の多くと似て、イギリス人の放牧のために部族の土地を開放することに反対だった。しかし、その立場を変えて、直ぐにチャールズ・グッドナイトやバーネット家のようなテキサスの牛追い達の多くと親密な関係を持つようになった。 1880年にはすでにこれら新しい仲間とともに自身の牛の群れを持つようになった。1884年、クアナの尽力が大きく貢献してコマンチェ族、カイオワ族およびアパッチ族の土地での放牧権に対して初めて「草」の使用料が払われることになった。クアナとバーネット家の絆が強くなったのがこの時期だった。 バーネットは賃借が終わるまでに一万頭の牛を飼うようになった。バーネットのインディアンの権利に対する感情は強いものであり、彼らに対する尊敬の念は誠実なものだった。別の牛飼い王がインディアンと厳しい土地と戦って帝国を築いたところで、バーネットはコマンチェ族のやり方を学び、土地への愛情とインディアンとの友情をその家族にも伝えた。コマンチェ族はバーネットに対する尊敬の印として彼らの言葉で「マサスタ」、すなわち「ビッグ・ボス」という名前を贈った。 クアナは白人の生活様式に適応してオクラホマでも裕福な牧場主になったことでアメリカ政府指導者の尊敬も勝ち得た。クアナの広々とした2階建てのスター・ハウスには、7人の妻とその子供達それぞれに寝室があった。自分には個人的な居室があったが、むしろ質素な方だった。そのベッドの側には母シンシア・アンと妹プレーリー・フラワーの写真があった。クアナのもてなし振りはコマンチェ族指導者にもてなされたことのある多くの影響力ある人々に良く知られていた。インディアンにしろ白人にしろ、クアナを訪問した人々の中でも良く知られた牛飼いであるチャールズ・グッドナイトは面白いことにポーチで寝ることを好んだ。 クアナの白人の知り合いの中ではバーク・バーネットを最良の者に数えていた。「私は良き友人を得た、バーク・バーネットは心が大きく富める牛飼いだ。私の部族に良い扱いをしてくれる。偉大な男は金にしがみついて死ぬことを恐れるものだ。バーネットは誰でも助けてくれる」と言ったということである。 その後の27年間はこの特別な友情に対して大変多くの歴史的出来事が起こることになった。クアナの大きな家であるスターハウスがその地位を現す反転した白い星を付けていることはバーク・バーネットの努力に大いに帰することができる。フォートワースでのファットストック・ショーやその他の公的行事で多くの戦士と共にクアナが登場したことはバーネットの特別の要請によるものだった。展示されている「パレード」の槍はこれら大衆の集まりの時にたいていクアナが持っていたものだった。 セオドア・ルーズベルト大統領と行ったオオカミ狩りはクアナとバーネット家が共有した特に良く知られた出来事の一つだった。クアナの母と幼い妹の遺骸をテキサスからオクラホマに移したとき、その最終的な墓所を記すために必要な花こう岩の墓石を購入するのを手伝ったのがバーネットだったことはあまり知られていない事実である。
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