カロリング‐ルネサンス【(ドイツ)Karolingische Renaissance】
カロリング・ルネサンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)
「フランク王国」の記事における「カロリング・ルネサンス」の解説
詳細は「カロリング朝ルネサンス」を参照 カロリング朝期、特にカール1世(大帝)の治世において、今日一般にカロリング・ルネサンスと呼ばれる古典古代の文芸復興の潮流があった。カール1世個人がどの程度教養を身につけていたかは、カール1世の伝記を残したアインハルト(エジナール)が書き残したことしか知られていない。それによればカール1世はラテン語を理解したが、文字は使えなかった。 カール1世はその活発な軍事活動によって3度ローマへと赴いた(774年、781年、786年)。このことはカロリング・ルネサンスの重要な基盤となった。即ち、イタリアとローマへの行軍を通じて、ファルドゥルフ(フランス語版)、アクィレーリアのパウリヌス(英語版)、そして何よりも当時パルマにいたアングロ・サクソン人助祭アルクィン(アルクィヌス)や文法学者・歴史学者であるパウルス・ディアコヌスといった知識人がフランクの宮廷に招聘された。アルクィンはこの後カール1世の文化政策を主導する中心人物となる。さらにヒスパニアからイスラームの支配を逃れてやってきたテオドルフ(英語版)や、アイルランド人ドゥンガル(英語版)らもフランク宮廷に到来した。 また、ローマ教皇から『ディオニュシオ=ハドリアーナ法令集(ドイツ語版)(Collectio canonum Dionysio-Hadriana)』と呼ばれる膨大なローマ教会法集が贈られ、これがフランク教会法の基盤となった。キリスト教帝国の王として、カール1世は人々が神の御心にかなって救いに到達するためには祈りの言葉を正しく唱える必要があると考え、ピピン3世時代にメッツ(メス)のクロデガングが始めていたローマを手本とする典礼の統一化を推進した。このため十分な能力を持った聖職者の養成が必要となり、教育の質的向上を図る訓令や法令が繰り返し発布された。カール1世の周囲には学者たちが集まってひとつの「宮廷」が形成され、アルクィンはこれを古代ギリシアのアカデメイアになぞらえた。アーヘンの宮廷には図書館が建設され、サッルスティウス、キケロ、クラウディアヌス(英語版)など、キリスト教以前のラテン語古典作品が並べられた。814年にカール1世が死んだ時点で実現していたことはごくわずかであったが、ルートヴィヒ1世(敬虔帝)はカール1世の文化政策を引き継いだ。 上記のような知識人たちの努力と政策的な支援の結果、9世紀には膨大な文筆活動が行われた。これを通じてカロリング・ルネサンスが文化史に残した特筆すべき遺産は「文法」と「文字」である。カロリング朝期の学者たちは文法的に正しいラテン語を追い求めた。「文法的に正しいラテン語」とは古代末期に明確化された古典ラテン語の文法規範にかなうラテン語を指し、特に帝政ローマ末期の文法学者ドナトゥスの文法書が広く拠り所とされた。学者たちはドナトゥスの文法書を基準にメロヴィング朝時代から伝わる写本の校訂を行い、「野卑な」「劣悪な」言葉を排除していった。アルクィンやテオドルフも同様の思考から、ラテン語訳聖書の修正を行い、聖人伝や教父の説教も同じく見直しがされた。これによって中世ラテン語の規範が確立され、学者たちの書き言葉とコミュニケーションの共通言語としてヨーロッパ中世を通じて使用されることになった。 文字において特筆すべきことはカロリング小文字体(カロリーナ小文字)の発明である。カロリング小文字では読みやすさを重視し、単語と単語の間に空白を置き、合字を避ける、などして筆写時の誤読を避けることが意図された。この文字は、神の言葉を正しく伝えるためには完璧で誤解の余地のないやり方で筆写されているべきであるという宗教的信念に応える技術的手段として存在した。このような信念は書籍の装飾にも反映されていき、書物の体裁とメッセージは一体であり、美麗な書体と装飾がメッセージの価値を高めるとされた。こうして規格化され、豪華に装飾され、時には金字で綴られた大型の福音書が作成されるようになった。 これらの結果、カロリング朝時代の何十年かの間に膨大な著作、筆写が行われ、現代でも当時の写本が8,000点あまり残っている。これは当時作成されたもののごく一部分にすぎないと考えられている。
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