ウーゼドム島の攻囲、海戦と攻略
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「ポメラニア戦役 (1715年-1716年)」の記事における「ウーゼドム島の攻囲、海戦と攻略」の解説
1715年7月15日、3カ国の連合軍がシュトラールズントの近郊で合流し、シュトラールズント要塞の攻囲が始まった。海辺にあり、陸では大きな数々の池に囲まれた、この要塞へ通じる道は三つの堤防のみである。それらは南東のフランケンダム、南西のトリープゼーアー・ダムと、ダムガルテンから町へと続く途上にあるクニーパーダムであった。強力な外堡群が堤防への道を守っており、フランケン門前面の大きな堡塁は要塞化されたデーンホルム島によって、海から援護を受けていた。さらにたくさんの防壁と、多数の大砲があった。また攻囲軍の目前には、広大な湿原が広がっている。要塞自体には、15,000名の兵がいた。 フランケン門に面する南側の部分はザクセン軍、トリープゼー稜堡に臨む中央部はプロイセン軍、クニーパー稜堡前面の北側はデンマーク軍が担当することと決まる。シュトラールズントに臨む連合軍の兵力はおよそ50,000名であり、スウェーデン軍の数倍にもなった。またこの攻囲戦には、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とデンマーク国王フレゼリク4世も参加している。スウェーデン軍の出撃に備えて、連合軍は防衛線を構築した。10月に攻城砲が届くまで、攻囲軍は町を封鎖するに留める。各部隊は、長期の攻囲戦に対応するべく兵舎を建てた。 シュトラールズントを占領する準備となったのは、リューゲン島の制圧である。連合軍のリューゲン島への上陸を阻むべく、スウェーデンの海軍部隊は7月、島の南東にあるグライフスヴァルト湾(英語版)に没収していた数々の商船や漁船を沈めた。浅い水深のため、ただでさえ困難なグライフスヴァルト湾への進入は、これらの閉塞船によってさらに難しくなった。湾の完全な閉鎖を果たすため、カール12世はウーゼドム島の北端にあるペーネミュンデ砦(ドイツ語版)と、ペーネ河口の前面に位置するルーデン島(英語版)の防備を固めさせ、強力な守備隊を配した。 その間にデンマーク海軍のセーステッド(英語版)中将率いる戦隊が、浅海に対応した平底船(英語版)やガリオットを伴ってグライフスヴァルダー・オイエ(英語版)に到着した。続いてルーデン島への突破を目指したデンマーク海軍の試みは、同島近海に展開していた8隻の軍艦から構成される、スウェーデン艦隊によって無に帰す。 戦列艦22隻を伴うスウェーデン艦隊がこの海域に到着した後の7月21日、デンマークのセーステッド提督はウーゼドム島周辺の浅い海に退避し、救援を求めるためヴィネタ岩礁(ドイツ語版)付近に投錨することを強いられた。さらに、浅海に対応したスウェーデンの軍艦数隻がシュテッティーン潟(英語版)に進入し、オーダー河口を哨戒する。この時、同戦隊はシュテッティーンへの接近さえ敢行した。 連合軍のさらなる計画は、スウェーデンが保持していたウーゼドム島の攻略を予定していた。同島の確保は、シュトラールズントで使用する重砲をシュテッティーンからアンクラムへ、潟を渡って運ぶために必要だったのである。ゲオルク・アブラハム・フォン・アルニム(ドイツ語版)中将が、ウーゼドム島をスウェーデン軍から奪還する任務を受けた。彼は7月31日の早朝、騎兵800名と歩兵2,000名をもってスヴィーネ川(英語版)の渡河を強行する。現地の渡しには、約600名のスウェーデン兵がいた。この部隊はプロイセン騎兵の襲撃を受けて敗れ、300名が捕虜となる。プロイセン軍にとって遥かに困難な展開となったのは、陸側からは湿地を通過しないと到達できなかったペーネミュンデ砦への攻撃である。この砦は450名のスウェーデン兵が守っていた。 まず必要となったのは、攻城砲を運び込むことである。潟で作戦行動を取っていたスウェーデンの艦艇は、連合軍による潟の封鎖を免れるべく急いで外海へ後退し、ルーデン島沿岸の友軍の艦隊に合流した。この艦隊は1715年8月8日、それまでに集結していたデンマーク艦隊の全てと海戦に及ぶ。このヤスムント沖の海戦(ドイツ語版)でトロンパー・ヴィーク(英語版)から出撃したデンマーク艦隊は、スウェーデン艦隊をボーンホルム島へと撃退した。カール12世は、この海戦を117メートルの高台に据えた王座から見ていたという。結果としてスウェーデンの海上戦力は打ち破られ、艦隊はカールスクルーナへの継続的な逼塞を強いられる。そして小規模な艦隊(英語版)が、シュトラールズントとリューゲン島の連絡を保つのみとなった。さらに、ラーベ提督を上級指揮官とするデンマーク艦隊へジョン・ノリス(英語版)提督率いるイギリス艦隊が合流し、スウェーデン本土とスウェーデン領ポメラニアの間のいかなる連絡をも遮断したのである。また、ウーゼドム島に閉じ込められていたセーステッド提督の小艦隊もこの時、再び自由となった。 ペーネミュンデ砦の攻囲戦が地勢によって長期化する見通しとなった時、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はアルニム中将に砦へ突撃し、占領するよう命じた。この攻撃(ドイツ語版)は1715年8月22日、攻略部隊に多大な損害を強いつつも遂行された。手榴弾を装備した擲弾兵300名を含む合計1,000名が三つの戦列に分かれ、激しい抗戦に遭いながらも砦に進攻したのである。絶望的な戦いを繰り広げた守備隊のほとんどは討たれ、残りの者は捕虜となった。寄せ手は戦死者155名と負傷者458の損害を被った。これらの数字は、戦いの激しさを物語っている。 1715年12月25日、セーステッド中将率いるデンマーク海軍がノイエン・ティーフ水路の封鎖線を攻撃した。かつてスウェーデンに仕えていた水先案内人の裏切りによって、デンマーク艦隊は封鎖線の突破とグライフスヴァルト湾への進入を果たす。これと8月末のウーゼドム島の攻略によって、シュトラールズントで使用する予定の攻城砲がペーネ川を経由し、シュテッティーンからアンクラムへ運び込めるようになった。アンクラムからは水路と陸路の両方を利用し、グライフスヴァルトを通過して補給物資がシュトラールズントへと運ばれた。 10月、砲撃に使う重砲がようやく到着する。10月18日にはシュトラールズントの前面で塹壕が掘削された。11月3日には、海側から不意打ちをかけた突撃部隊が800名の守備隊を破った後、フランケン門の前にある堡塁群の占領が果たされた 。現地に詳しいマクシミリアン・アウグスト・ケッペン中佐(1717年没)の指揮下、1,700名の志願兵がスウェーデン軍に察知されていなかった砂州を干潮の間に渡り、その防衛陣地を迂回したのである。奇襲に加え、他の部隊による正面からの攻撃を受けた守備隊の内、逃れた者はわずかに過ぎなかった。ケッペンはその功績によってフリードリヒ・ヴィルヘルム1世から高級副官及び貴族に取り立てられ、ハーフェルラント(英語版)の古来の名門であるブレードウ家(ドイツ語版)のアンナ・ルイーゼと結婚したが、この作戦で風邪を引き、長い闘病の末に没している。
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