ウーゼドム島の攻囲、海戦と攻略とは? わかりやすく解説

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ウーゼドム島の攻囲、海戦と攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 14:45 UTC 版)

ポメラニア戦役 (1715年-1716年)」の記事における「ウーゼドム島の攻囲、海戦と攻略」の解説

1715年7月15日、3カ国の連合軍シュトラールズント近郊合流しシュトラールズント要塞攻囲始まった海辺にあり、陸では大きな数々の池に囲まれた、この要塞通じる道は三つ堤防のみである。それらは南東のフランケンダム、南西のトリープゼーアー・ダムと、ダムガルテンから町へと続く途上にあるクニーパーダムであった強力な外堡群が堤防への道を守っており、フランケン門前面の大きな堡塁要塞化されたデーンホルム島によって、海から援護受けていた。さらにたくさんの防壁と、多数大砲があった。また攻囲軍の目前には、広大な湿原広がっている。要塞自体には、15,000名の兵がいた。 フランケン門に面する南側部分ザクセン軍、トリープゼー稜堡に臨む中央部プロイセン軍、クニーパー稜堡前面北側デンマーク軍担当することと決まる。シュトラールズントに臨む連合軍兵力はおよそ50,000名であり、スウェーデン軍の数倍にもなった。またこの攻囲戦には、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世デンマーク国王フレゼリク4世参加している。スウェーデン軍出撃備えて連合軍防衛線を構築した10月攻城砲が届くまで、攻囲軍は町を封鎖する留める各部隊は、長期攻囲戦対応するべく兵舎建てたシュトラールズント占領する準備となったのは、リューゲン島制圧である。連合軍リューゲン島の上陸を阻むべく、スウェーデンの海軍部隊7月、島の南東にあるグライフスヴァルト湾(英語版)に没収していた数々商船漁船沈めた。浅い水深のため、ただでさえ困難なグライフスヴァルト湾への進入は、これらの閉塞船によってさらに難しくなった。湾の完全な閉鎖を果たすため、カール12世ウーゼドム島北端にあるペーネミュンデ砦(ドイツ語版)と、ペーネ河口前面位置するルーデン島(英語版)の防備固めさせ、強力な守備隊配したその間デンマーク海軍のセーステッド(英語版中将率い戦隊が、浅海対応した平底船(英語版)やガリオット伴ってグライフスヴァルダー・オイエ(英語版)に到着した続いてルーデン島へ突破目指しデンマーク海軍試みは、同島近海展開していた8隻の軍艦から構成されるスウェーデン艦隊によって無に帰す戦列艦22隻を伴うスウェーデン艦隊がこの海域到着した後の7月21日デンマークのセーステッド提督ウーゼドム島周辺の浅い海に退避し救援求めるためヴィネタ岩礁ドイツ語版付近に投錨することを強いられた。さらに、浅海対応したスウェーデン軍艦数隻がシュテッティーン潟(英語版)に進入しオーダー河口哨戒する。この時、同戦隊はシュテッティーンへの接近さえ敢行した。 連合軍さらなる計画は、スウェーデン保持していたウーゼドム島攻略予定していた。同島の確保は、シュトラールズント使用する重砲をシュテッティーンからアンクラムへ、潟を渡って運ぶために必要だったのである。ゲオルク・アブラハム・フォン・アルニム(ドイツ語版中将が、ウーゼドム島スウェーデン軍から奪還する任務受けた。彼は7月31日早朝騎兵800名と歩兵2,000をもってスヴィーネ川(英語版)の渡河強行する現地渡しには、約600名のスウェーデン兵がいた。この部隊プロイセン騎兵襲撃受けて敗れ300名が捕虜となる。プロイセン軍にとって遥かに困難な展開となったのは、陸側から湿地通過しない到達できなかったペーネミュンデ砦への攻撃である。この砦は450名のスウェーデン兵が守っていた。 まず必要となったのは、攻城砲運び込むことである。潟で作戦行動取っていたスウェーデン艦艇は、連合軍による潟の封鎖免れるべく急いで外海後退しルーデン沿岸友軍艦隊合流した。この艦隊1715年8月8日それまで集結していたデンマーク艦隊全て海戦に及ぶ。このヤスムント沖の海戦ドイツ語版)でトロンパー・ヴィーク(英語版)から出撃したデンマーク艦隊は、スウェーデン艦隊ボーンホルム島へと撃退したカール12世は、この海戦117メートル高台据えた王座から見ていたという。結果としてスウェーデン海上戦力打ち破られ艦隊カールスクルーナへの継続的な逼塞強いられる。そして小規模な艦隊英語版)が、シュトラールズントリューゲン島連絡を保つのみとなった。さらに、ラーベ提督上級指揮官とするデンマーク艦隊へジョン・ノリス(英語版提督率いイギリス艦隊合流しスウェーデン本土スウェーデン領ポメラニアの間のいかなる連絡をも遮断したのであるまた、ウーゼドム島閉じ込められていたセーステッド提督小艦隊もこの時、再び自由となったペーネミュンデ砦の攻囲戦地勢によって長期化する見通しとなった時、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世アルニム中将に砦へ突撃し占領するよう命じた。この攻撃ドイツ語版)は1715年8月22日攻略部隊多大な損害を強いつつも遂行された。手榴弾装備した擲弾兵300名を含む合計1,000名が三つ戦列分かれ激し抗戦遭いながらも砦に進攻したのである絶望的な戦い繰り広げた守備隊のほとんどは討たれ残りの者は捕虜となった寄せ手戦死者155名と負傷者458損害被った。これらの数字は、戦い激しさ物語っている。 1715年12月25日、セーステッド中将率いデンマーク海軍がノイエン・ティーフ水路封鎖線を攻撃した。かつてスウェーデン仕えていた水先案内人の裏切りによって、デンマーク艦隊封鎖線の突破グライフスヴァルト湾への進入を果たす。これと8月末のウーゼドム島攻略によって、シュトラールズント使用する予定攻城砲がペーネ川を経由し、シュテッティーンからアンクラム運び込めようになったアンクラムからは水路陸路両方利用しグライフスヴァルト通過して補給物資シュトラールズントへと運ばれた。 10月砲撃に使う重砲がようやく到着する10月18日にはシュトラールズント前面塹壕掘削された。11月3日には、海側から不意打ちをかけた突撃部隊800名の守備隊破った後、フランケン門の前にある堡塁群の占領果たされた 。現地に詳しいマクシミリアン・アウグスト・ケッペン中佐1717年没)の指揮下、1,700名の志願兵スウェーデン軍察知されていなかった砂州干潮の間に渡り、その防衛陣地迂回したのである奇襲加え、他の部隊による正面からの攻撃受けた守備隊の内、逃れた者はわずかに過ぎなかった。ケッペンはその功績によってフリードリヒ・ヴィルヘルム1世から高級副官及び貴族取り立てられ、ハーフェルラント(英語版)の古来名門であるブレードウ家(ドイツ語版)のアンナ・ルイーゼと結婚したが、この作戦風邪を引き長い闘病の末に没している。

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