アンジェルッチの怪文書
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「アンジェルッチの怪文書」の解説
ルイ15世が亡くなったことで復権の手がかりを失い、気を落としたボーマルシェであったが、すぐに次の策を見つけ出した。ユダヤ系イタリア人のグリエルモ・アンジェルッチなる男が、イギリスでルイ16世夫妻を中傷する怪文書を制作していることを聞きつけ、これを利用しようと考えたのだ。ルイ16世に宛てて「自身が父王のためにイギリスに赴いて使命を完遂したこと、その件に国王陛下(ルイ16世)も重要な関係があること」を認めた手紙を送り、警察長官のサルティーヌにも同様の内容で手紙を送って危機感を煽った。その結果ルイ16世に謁見を許され、すぐに中傷文書を闇に葬るように、モランドの時と同様の命令を受け、王の私設外交官となって再びイギリスへ渡ったのである。 ロンドンには、かつてスペイン滞在中に知己を得たロシュフォード卿が政府高官として健在であった。ボーマルシェは彼を通してこの使命を果たそうと考えたようだが、ロシュフォード卿の理解を得られず、早速行き詰ってしまった。困ったボーマルシェは、国王の命令書の送付を要請した。その文面まで提案していたり、サルティーヌに同様の手紙を送りつける徹底ぶりであった。サルティーヌ宛ての手紙にはアンジェルッチの怪文書の調査報告も付されている。ボーマルシェの報告が全部事実であったかどうか疑問が残るが、若き国王ルイ16世は「王妃の名誉が穢されようとしている」との報告を受けて冷静に思案を巡らせるほどの器量の持ち主ではなかった。慌てた国王は、ボーマルシェの要請に応えて、彼の提案した文面の命令書に署名を行った。 こうしてボーマルシェはアンジェルッチとの交渉に入ったが、モランドの時とは違ってなかなか円滑には進まなかった。アンジェルッチが高額な金銭を要求してきたため、あれこれ交渉を重ね、およそ35000リーヴルの支払いで合意に至った。原稿と印刷済みの4000部の文書がロンドンで焼却され、ついでもう一つの怪文書発行予定地であるアムステルダムに2人一緒に赴いて、同地でも出版予定の冊子を焼却することとなった。ところが、突然アンジェルッチが金と怪文書の原稿コピーを持ってニュルンベルクに逃走し、そこで怪文書を発行する動きを見せた。ボーマルシェはこの裏切りに激怒し、すぐさま後を追った。 ここまでの経緯は事実として考えてよいようだが、ここからの経過は資料不足もあって、虚実織り交じっていると考えられる。 8月14日の夕方、ニュルンベルクから遠くないノイシュタットの町役場に、不思議な客を乗せたという駅馬車の御者ヨハン・ドラツが現れ、証言を残していった。それによれば、ロナクと名乗る男はノイシュタット近くの森を通過中、駅馬車から降りて剃刀と手鏡を持ち、森を出たところで待つように言い残し、森の中へ消えていった。その指示に従って待っていると、斧を担いだ樵3人の後ろから、ハンカチで手に応急処置を施したロナク氏が現れたという。ハンカチには手がまみれ、首筋から血が流れているのが見えたのでどうしたのか問うと、盗賊に撃たれたと答えた。銃声を聞いていないドラツは、剃刀で自身を傷つけたのだろうと判断し、それ以上深入りしなかったという。 このロナク氏はなぜか近隣の自治体ではなく、翌日になってニュルンベルクの当局に出頭して自身の被害を訴え出た。その被害報告では盗賊の容姿が詳細に語られ、2人の盗賊の名前としてアンジェルッチ、アトキンソンという名前を挙げられている。アトキンソンとは、怪文書を発行しようとしていたアンジェルッチの用いていたイギリス名であるから、このロナク氏がボーマルシェであることは間違いないし、この被害報告の提出動機も明らかである。アンジェルッチの身柄を公権力によって抑え、あわよくばフランスへ連行しようと考えたのだろうが、それはともかく、1人の人間を2人に分割したこの被害報告には無理があった。なぜこのようなことをしたのか、この件に関してはドラツの証言とボーマルシェの手紙しか資料が存在しないため、確かなことはわからない。ボーマルシェはこの件について、自身を英雄のごとく劇的に描いている。 8月21日、ボーマルシェはシェーンブルン宮殿に赴き、女帝マリア・テレジアとの面会を求めたが、取次を拒否されてしまった。仕方なくボーマルシェは秘書官に「ご令嬢のマリー・アントワネットの名誉が穢されようとしているから、その件をお伝えしに参りました」とのメッセージを託して引き上げた。このメッセージに疑問を抱いた女帝は、側近の伯爵にボーマルシェと接触させ、その伯爵の同席のもとに翌日になって謁見を許した。この席の様子はボーマルシェがフランス帰国後にルイ16世に提出した報告書で仔細に語られており、この席でマリー・アントワネットへの忠誠心、これまでの顛末、偽名を用いた理由を語り、逃走したアンジェルッチから中傷文書を奪い取ったことを伝え、この男の逮捕を強く進言したという。 ところが、女帝とその側近たちはボーマルシェの話を全く信用していなかった。彼らはそもそもアンジェルッチなる男が存在するのか、そこから疑いをかけていたようだ。ボーマルシェは軟禁状態に置かれ、厳しい監視下のもとで過ごさなければならなくなった。宰相カウニッツは、ドラツの証言の調査を開始するとともに、フランス駐在オーストリア大使を通じて、フランス政府にボーマルシェの社会的信用を尋ねている。実際のところ、アンジェルッチという男の存在は長らく証明できなかった。1887年になってようやく、ボーマルシェの手紙中にこの男の名前があるのが確認されたため、今日においては「ボーマルシェ≠アンジェルッチ」であることは確実である。女帝に謁見を求めた目的として「その感謝を獲得して、フランス社会での自身の復権に利用したのではないか」との疑いもかけられたが、文書差し止めには成功しているのだから、そのまま帰国すれば復権のための計画は首尾よく運ぶに違いないので、これも単なる疑いの域を出ていない。 このように考えると、「アンジェルッチがニュルンベルクに逃走し、それを知ったボーマルシェが後を追って彼を捕まえ、持っていた文書のコピーを奪い取った」ということは間違いないと思われる。ただ、ドラツの証言でも少し触れられている「盗賊に襲われた」という件についてはかなりの疑問が残る。結局はっきりした事実はわからないのだが、研究者の中でもこの件についての見解は割れている。全くの虚偽、狂言と断じる研究者もいるが、ボーマルシェ自身の証言を全面的に支持する者もいる。おそらく、アンジェルッチから怪文書のコピーを奪い取ったボーマルシェが、自身の行為をもっと美化しようとしてでっち上げたのだろう。女帝マリア=テレジアに自身を売り込み、醜聞からブルボン王室を救ったとして箔を付ければ、自身の復権に大いに役立つからだ。しかし、それが通用しなかったことは先述したとおりである。女帝と宰相カウニッツの疑いを受けて勧められていた調査の結果、フランス政府からの身元保証もあって、ボーマルシェは軟禁状態から解放され、10月2日に帰国した。この件に関するカウニッツの書簡が残されているが、それによれば、最後までボーマルシェは信頼されていなかったようだ。
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