アメリカ空軍立川基地
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敗戦に伴い連合国軍の1国として日本の占領に当たったアメリカ軍は立川飛行場を接収し、既存の滑走路の東側に延長約2000メートル(オーバーラン含む)の新滑走路を建設した。アメリカ軍は新滑走路から東側を極東航空資材司令部(FEAMCOM - Far East Air Materiel Command、 FAC 3011、通称フィンカム基地)、西側を極東空軍輸送飛行場(FAC 3012)とした。 1953年6月18日には、立川基地グローブマスター機墜落事故が発生。休暇を終えて朝鮮半島へ帰任途中の乗員ら129人全員が死亡し、当時の航空機事故としては史上最大の事故となった。 朝鮮戦争時には主に物資や人員の輸送のために軍や民間のチャーター機が多く使用したが、朝鮮戦争停戦後かつ連合国による占領が終了した後の1954年(昭和29年)4月には第315航空師団が移駐し、これと前後して軍事航空運輸サービス(MATS - Military Air Transport Service)の旅客ターミナルが開設された。 しかし立川飛行場の滑走路は両端が囲障に近く、実効延長は1500 - 1800メートルで、ハワイのヒッカム空軍基地まで無着陸飛行をしようとするロッキード コンステレーションやダグラス DC-6などの大型プロペラ機のみならず、当時開発が進められ、1950年代後半に就航が計画されていたボーイング707やダグラス DC-8などのジェット輸送機の離着陸が困難だった。そのため1月から3月の日米合同委員会(JC)で、在日米軍は立川飛行場をはじめ、木更津、新潟、小牧、横田、伊丹の各飛行場の拡張を要求した。 1956年(昭和31年)1月にアメリカ軍は2つの基地を統合して、立川航空基地(Tachikawa Air Base、FAC 3012、日米安保条約上の施設名称は「立川飛行場」)と名づけた。1950年代から1960年代にかけて、基地の西側は兵員や軍事物資、軍関係の旅行者を乗せた飛行機で賑わい、多くのレシプロ貨物機が飛来した。軍用輸送機としてはダグラス C-124やC-46、C-47、C-54、ロッキードC-130などが飛来し、ダグラス DC-6Bやロッキード コンステレーションなどの民間チャーター機も飛来した。最盛期には平均約2300回/月の発着と約2万人/月の空輸が行われた。 一方、東側の極東航空資材司令部は組織改編に伴い、極東航空兵站軍(FEALOGFOR - Far East Air Logistics Force)、航空資材軍太平洋地区(AMFPA - Air Materiel Force, Pacific Area)などに名称を変更しながら後方支援施設として機能した。 ジェット大型機への対応には北側への滑走路拡張が必要となったが、この計画に対して地元地権者や学生運動の活動家などが猛反対した。1957年(昭和32年)の強制測量をきっかけに砂川事件が起き、1959年(昭和34年)には最高裁判所が在日米軍の合憲性を判断する事態にまで発展した。 1960年(昭和35年)にベトナム戦争が始まったが、砂川事件の裁判が続き拡張計画の実施は停滞した。アメリカ軍は横田飛行場(旧大日本帝国陸軍立川飛行場付属多摩飛行場)の滑走路を1300メートルから3350メートルに延伸して兵員施設を整備し、1960年(昭和35年)から順次、立川の軍事航空運輸サービスを横田飛行場へ移転した。 1969年(昭和44年)、ベトナム戦争からの撤退を公約に掲げたリチャード・ニクソンがアメリカ大統領に就任した。この頃、立川では最終的に拡張予定地の90%にあたる約25.5万m2の土地買収が完了していたが、最初の拡張要求から14年が経過し、日本の防衛力整備が進んだことなどを主な理由として、アメリカ軍は1968年(昭和43年)12月20日に滑走路延長計画の中止を発表した。さらに同年3月には第315航空師団の解散と第22軍事空輸中隊の活動停止が発表され、同年10月には立川飛行場における飛行活動の全面停止が決定した。同年12月8日をもって、アメリカ軍による全ての飛行活動は停止された。 立川基地の飛行停止と米軍王子病院の閉鎖に伴い、約500人の労務者が整理された。美濃部亮吉都知事は民間企業に雇用の働きかけを行うとともに東京都で自体でも200人程度を雇用することを表明した。
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