アメリカ競馬の侵入に対するラムトン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/13 07:34 UTC 版)
「ジョージ・ラムトン」の記事における「アメリカ競馬の侵入に対するラムトン」の解説
この時代は、アメリカの競馬がイギリス競馬界を席巻した。というのも、アメリカでは苛烈な競馬禁止法が成立してしまい、アメリカの一流の調教師、騎手、馬主、そして競走馬がみなイギリスへやってきたのである。イギリスではジャージー規則を作ってアメリカ血統の侵入を食い止めようとしていたが、人の流入は食い止める術がなかった。 ラムトンは、アメリカ人騎手のトッド・スローン(Tod Sloan)が披露した「アメリカ流の」新しい騎乗スタイルを酷評した。「スローンでなければ、あんな劣悪な馬で勝つことは不可能だ」と言って、スローンが優秀な騎手であることはラムトンも認めたが、スローンが柄の悪い取り巻きと交際していることを咎めていた。スローンは八百長で私腹を肥やしているとの噂が絶えなかったが、1900年に当時の高額競走の一つケンブリッジシャーハンデで、レース前にほかの騎手たちに金をばらまき、自分を勝たせるように工作していることが暴露され、ついにイギリスでの騎乗が禁止されてしまった。この不正を暴いたのは、ジョージ・ラムトンの兄であるダラム伯爵(en:John Lambton, 3rd Earl of Durham)だった。 一方、ラムトンが高く評価し、一目置いたアメリカ人にエノク・ウィシャード(Enoch Wishard)調教師がいた。ウィシャードは安馬を買って、ハンデキャップ競走に出走させて勝つことに長けており、1900年に54勝をあげてイギリスの調教師チャンピオンになった。ラムトンはウィシャードを「不正な手段をとらずに凡馬を走らせる天才」と評価した。ところが、あとになってこれもダラム伯爵によって不正が暴かれたのだが、ウィシャードは安馬にコカインを投与していた。ウィシャードはアメリカのイカサマ師と結託し、巨額の資金を複数の賭け師に分散させて賭けさせ、薬物投与によって興奮した馬を走らせて不正な利益をあげていたのだった。当時のイギリスには競走馬への薬物投与に関する知見がほとんどなく、ラムトンとダラム伯爵の兄弟は、薬物投与の実証実験を行って効果を確認し、ジョッキークラブに諮ってイギリス競馬での薬物投与禁止のルールを制定した。 当時のラムトンとアメリカのトップ調教師ジョン・ハギンズとのやりとりが残されている。 ジョージ・ラムトン「アメリカの競馬界は、ゴロツキや盗人であふれている。」 ジョン・ハギンズ「いや、もうアメリカにはいない。みなイギリスに来た。」 一方で、ラムトンはアメリカの進んだ調教技術や柔軟な給飼、軽い蹄鉄と優れた削蹄技術を高く評価し、積極的に採用した。
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