「日英水力電気」の構想
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1887年(明治20年)11月、東京電灯が東京において、火力発電所から架空配電線を伸ばして需要家に電気を供給するという電気供給事業を日本で初めて開業した。東京電灯の発電方式は開業時から長く火力発電のみであったが、需要増加と日露戦争勃発に伴う燃料石炭価格高騰を背景に水力発電への電源転換を試み、1904年(明治37年)10月山梨県東部・桂川(相模川)での水力発電所建設を決定する。準備中の1906年(明治39年)3月、アメリカでの技術調査を踏まえ、新設する駒橋発電所の出力を1万5000キロワットとし、東京まで70キロメートル余りの送電を55キロボルトの高圧で行うと計画を修正。そして翌1907年(明治40年)12月より駒橋発電所の運転を開始した。 東京電灯駒橋発電所の建設を契機として、大容量水力開発と高圧・長距離送電を組み合わせた新しい電気事業が全国的に広がり、それに伴って関西における宇治川電気(1906年設立)など新興電力会社の設立も相次いだ。こうした大規模水力開発時代の中、日本とイギリスの共同出資による大規模開発計画として立案されたものが「日英水力電気株式会社」の構想であった。設立計画の始まりは、日露戦争終戦翌年の1906年2月にさかのぼる。日本の経済力開発に資する企業を共同で起業することで、前年締結されていた第二次日英同盟による日英両国の関係強化を経済面にも波及させる意図があったという。 会社設立への第一歩として1906年に園田孝吉(当時十五銀行頭取)を代表に創立事務所が開設される。事務所ではまず東京から150マイル(約240キロメートル)の範囲にある河川・湖沼にて開発適地の調査を行った。その対象は利根川・鬼怒川・桂川・富士五湖・大井川・天竜川などで、資金面で多くを担う予定であったイギリス側のホワイト商会を中心とするシンジケートからも技師が派遣された。調査の結果、大井川源流部の椹島(さわらじま、静岡県)から県境をまたいで山梨県の保(現・早川町)まで約10キロメートルのトンネルを開削し導水すると900メートルの落差を得られる、という発電適地が見つかり、この地点の発電計画を「椹島保村計画」と名付けた。そのほか井川村出身の海野孝三郎が出願した大井川接岨峡での開発計画(「井川梅地計画」)も取り入れられ、補助計画として「牛ノ頚計画」も追加された。 「椹島保村計画」については難工事が予想され開発が見送られた。従って残り2つの計画について水利権取得に動き、1906年12月28日付で「井川梅地計画」については「大井川水力電気事業株式会社」名義で、「牛ノ頚計画」については「静岡水力電気事業株式会社」の名義でそれぞれ静岡県知事より水利権許可を取得した。1908年(明治31年)にはアメリカ人技師が来日し、5月には接阻峡に高さ90メートルのダムを建設するという開発の具体案もまとめられた。 水利権取得後の1908年6月27日、創立事務所で日英水力電気第1回発起人総会開催が開かれ、15人の創立委員が選出された。委員の顔ぶれは、園田孝吉・渋沢栄一・大倉喜八郎・朝吹英二・大田黒重五郎・久野昌一・田中常徳・副島道正(伯爵)・毛利五郎(男爵)・樺山愛輔・大谷嘉兵衛・中村円一郎の12人とイギリス側の3人で、園田が委員長となった。事業会社である日英水力電気とは別個に、イギリスの商習慣に倣いその親会社「日英共同株式会社」を設立する計画も並行して具体化され、日英水力電気の総会開催と同じ日にこちらも第1回発起人総会が開かれた。創立委員は9名で、日英水力電気側の創立委員でもある園田・副島・樺山・イギリス人技師1名と、益田太郎・岸敬二郎・木下七郎・白杉政愛・小林八右衛門が選出された。
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