「日露協約」構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:11 UTC 版)
日清戦争後、朝鮮半島・満州への進出をめぐり日露間の対立が高まると、日本国内では、「臥薪嘗胆」論により、近い将来の両国の開戦を不可避としこれに備えようとする意見と、もう一方は両国の利害は調整可能であり開戦は回避すべきとする意見が対立した。後者の立場に基づき、朝鮮に関する利害については山縣・ロバノフ協定(1896年)や西・ローゼン協定(1898年)など関係調整がはかられると同時に、「満韓交換論」(満州をロシア、朝鮮を日本の勢力範囲とし両国の棲み分けを画定しようとするもの)に基づき、より包括的な同盟関係(日露協商)を結ぶべきであるとする伊藤博文らの意見が一定の影響力を持った(このため伊藤は反対派から「恐露病」と罵倒された)。伊藤は「日露協商」実現へと働きかけたが、ロシアを仮想敵とする日英同盟(1902年)の成立により挫折し、かくして日露両国は開戦に向かった。
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