九州王朝説 概要

九州王朝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 08:22 UTC 版)

概要

論争の経緯

古事記日本書紀(8世紀成立)には、邪馬台国(邪馬壱国)や倭の五王の記述がないが、古い中国の史書とは時期も異なる。例えば、中国の魏志倭人伝(3世紀成立)では、帯方郡)への朝貢は卑弥呼壱与という二人の女王の業績とされているが、日本書紀では魏に朝貢した倭王は神功皇后一人であるとされている。

こうした矛盾は江戸時代から議論の対象となっていた。松下見林異称日本伝において中国史書の内容は信用できないとして日本書紀を基準に解釈すべきことを主張し、邪馬台国も倭の五王もすべて日本書紀の記述に合致するように解釈し直したが、その内容は倭王武雄略天皇清寧天皇の二人に比定するなど現代の文献史学の水準からは稚拙な面も存在し、松下の邪馬台国畿内説や倭の五王近畿天皇家説は現在のように広く受け入れられていたわけではなかった。

多くの国学者に影響を与えた本居宣長馭戒慨言において邪馬臺国や倭の五王は本来の倭王である近畿天皇家ではなく、熊襲任那日本府が倭王を僭称したとする熊襲偽僭説を主張した。この熊襲偽僭説を完成させたのが鶴峯戊申であり、彼は中近世文書に頻出する大宝以前の古代逸年号についても古代の九州年号である、と主張するなど現在の九州王朝説に近い主張となっていた。明治維新以降も戦前戦後を問わず神宮奉斎会会長今泉定助東京帝国大学教授飯田武郷九州帝国大学教授の長沼賢海東北大学名誉教授井上秀雄らが熊襲偽僭説や九州王朝説を主張していた。

こうした流れの中、在野の研究者であったものの親鸞研究等で学界からも一定の評価をされていた古田武彦の著書『失われた九州王朝』がベストセラーとなった。さらに彼の九州王朝説による論文「多元的古代の成立」は史学雑誌にも掲載されるなど、学界・アマチュアの双方で彼の説は一定の評価を受け、井上光貞安本美典らとの間で論争となった。そして市民の古代研究会が結成されると古田の学説は「古田史学」と呼ばれ、主にアマチュアの研究者の間で一世を風靡することとなった。

一方、東日流外三郡誌を巡る論争での古田の学界での影響力の低下、市民の古代研究会の分裂、さらには学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立もあり現時点では九州王朝説は一時期ほどには広まってはいない。しかしながら、古田の学説を継承する古田史学の会は新春講演会に定説派の学者も招聘し[1]大阪府立大学の講師が幹部を務めるなど、いまなお活発な活動をしている。近年では2018年平成30年)に所功が著書『元号 年号から読み解く日本史』で否定的に、小説家の百田尚樹が著書『日本国紀』で肯定的に、それぞれ扱うなど今でも歴史家や著名人の注目を集めている学説である。

主な主張

(以下は古田説の概要ではなく、学者・在野を問わず、各論者の説を纏めたもの。)
  • 紀元前から7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、(ゐ)、大倭(たゐ)、(たゐ)と呼ばれていた[注 4]
  • 1世紀には倭奴国(倭国)が北部九州を中心とした地域に成立し、倭奴国王(倭王)は博多湾近くに首都をおいて朝貢し「漢委奴國王」の金印を授与されていた。
  • 倭王卑彌呼(ひみか)は伊都国に都し、倭国は福岡平野奴国(当時としては大都市の2万戸)を中心としていた[注 5]。漢が滅亡し魏が興ったことにより、「漢委奴国王」の金印に代わり魏より「親魏倭王」の金印が授与された。
  • 卑弥呼は、筑紫の祖、甕依姫(みかよりひめ)のことである。また、壹與(ゐよ)は、風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。
  • 倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。
  • 筑紫君磐井(倭わい)は倭(九州)の王(武烈天皇)であり、継体は九州南部の豪族である。磐井の乱は継体による九州内の九州倭国に対する反乱であり、継体が武烈朝を武力討伐した記事である[注 6]
  • 九州倭国の継体朝において日本で初めて独自の元号九州年号)が建てられた。
  • 王朝との対等外交を行った「王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩彌」[注 7] は、九州倭国の倭国王であった。
  • 太宰府は倭京元年(618年)から九州倭国の滅亡まで倭京と呼ばれる九州倭国の都であり、日本最古の風水四神相応を考慮した計画都市であった。
  • 白村江の戦い」では、総司令官である九州倭国の天皇「筑紫君薩夜麻(さちやま・倭薩)」が唐軍の捕虜となったことで九州倭国は敗北した。
  • 壬申の乱」は畿内ではなく九州を舞台としており、乱の前年に唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国した薩夜麻(実は天皇の高市皇子のこと)と 薩夜麻が不在中に政務を代行していた中宮天皇(十市皇女)-大友皇子(弘文天皇)との対立に畿内の豪族大海人皇子(天武天皇)が介入し日本列島の覇権を得た事件で、勝敗を決したとされる美濃からの援軍とは畿内日本軍である。
  • 「壬申の乱」で九州倭国の天皇(高市皇子 = 薩夜麻)は大海人皇子(天武)の力を借り大友皇子らに勝利したが、協力を得る為に吉野の盟約で大海人皇子(天武)と九州倭国系の鸕野讚良皇女(持統天皇)の間の息子(草壁皇子)を後継者の皇太子とした。戦乱により九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより天皇(高市皇子 = 薩夜麻)の基盤は弱体化し、戦乱とそれに続く天災[注 8] で荒廃した九州から天武の勢力圏である畿内へ天皇(高市皇子=薩夜麻)は移った。
  • 大化の改新乙巳の変)」は皇太子であった草壁皇子が即位せずに逝去した為に、次の皇位に誰が付くか不明確となり、疑心暗鬼となった草壁皇子の子の軽皇子(文武天皇)と中臣鎌足藤原不比等と同一人物)が九州年号の大和(大化)元年(695年)に藤原京で天皇(高市皇子 = 薩夜麻)とその子を暗殺し、翌年の大化2年(696年)に軽皇子(文武天皇)が即位した事件である。
  • 神武東征は、6世紀任那滅亡等により発生した難民の一部が九州から東征したもので、先に九州から畿内に植民して巨大古墳を築造していた邇藝速日命が支配する長髄彦等の国である日下(日本)を征服したものである。通説飛鳥時代と呼ばれている時代までは、ヤマト王権(日本・日下)はまだ日本を代表する政権ではなく畿内地方政権にすぎなかったが、文武の時代に九州倭国から政権を完全に奪い日本全体が「日本」と呼ばれるようになった。
  • 古事記日本書紀は九州倭国の歴史書であり、続日本紀は天武朝の歴史書である。記紀に記された天皇の内初代神武天皇と第9代までの欠史八代の天皇および第40代天武天皇と第41代持統天皇、続日本紀に記された第42代天武天皇から第48代孝謙天皇までの7代、計18代だけが天武朝に連なる系譜である。記紀に記されている天武系の天皇は天皇ではなく畿内の地方豪族に過ぎなかった。記紀に記されたその他の天皇は九州倭国の天皇である。
  • 万葉集の歌なども8世紀までの古いものは、殆どが九州で詠まれたものである。
  • 神亀6年(729年)藤原氏は、九州倭国系である長屋親王を長屋王の変で抹殺。
  • 第3回神宮式年遷宮神亀6年/天平元年(729年) - 天平4年(732年))により伊勢神宮八代市から伊勢市に移された。
  • 神護景雲4年(770年称徳天皇暗殺により天武朝が断絶、藤原氏は滅亡した九州倭国の末裔光仁天皇)を天皇に擁立した。

古田説

上記概要と古田説の主な異なる部分について、掲載する。古田の論文は『史学雑誌』や『史林』に掲載されるなど、九州王朝説論者の中では数少ない学説の形に世に問うたものであった。

なお、この説の出典は特記のない限り古田の著書『失われた九州王朝』・『古代は輝いていた』・『古田武彦の古代史百問百答』による。

  • 九州王朝の始まりは後に天孫降臨として神話化される出来事であり、天孫降臨の舞台となった場所は福岡県の糸島近辺である。また九州王朝の前には出雲王朝が存在しており、国造制部民制の原型は既に出雲王朝の時代から存在していた。
  • 神武天皇1世紀から2世紀頃に実在しており、神武東征も基本的に史実である。九州王朝の分家として大和王朝(近畿天皇家)は成立した。
  • 古田は近畿天皇家の天皇については、基本的に九州王朝の分王朝の大王として近畿に実在した、と考える。記紀には景行天皇の「九州大遠征」をはじめ、九州王朝の大王・天子の記事からの「盗用」はあるものの、例えば景行天皇自身が九州王朝の大王であった、とは古田は主張していない。
  • 欠史八代も含めた天皇は実在したが、当時は大和盆地の南部を支配しているだけであった。崇神天皇の時代になって銅鐸圏の諸国を滅ぼし、後の近畿天皇家(古田は近畿分王朝、近畿大王家等の呼称を提案している)が近畿一帯を支配するようになった。
  • 磐井の乱」は、九州王朝の分家であるヤマト王権が武烈朝から継体朝に替わったことにより、九州王朝への臣従意識が薄れたヤマト(継体)による九州王朝への反乱であり、最終的にヤマトは糟屋屯倉の備蓄を戦利品としただけで、その後も九州王朝は存したとしていた。(もっとも後に「磐井の乱」はなかったとしている[2]。)
  • 乙巳の変については、近畿天皇家内部における「親九州王朝派」の蘇我氏が粛清された事件であるとする。
  • 天武天皇が近畿天皇家の人間ではなかった可能性については、根拠が中世文書であるため懐疑的である。

また、古田の説で特徴的なものとしては、次のような主張がある。

  • 魏志倭人伝における原文改訂を一切認めない。
  • 裸国・黒歯国は南米のエクアドルチリ北部である。
  • 狗奴国は邪馬壱国の東方にある。(狗奴国南九州説を支持しない。)なお、狗奴国の位置については当初は「瀬戸内地方説」を唱え、その後「畿内説」を提唱している。
  • 聖徳太子架空説は支持しない
    • 推古天皇聖徳太子小野妹子を遣使ではなく遣使として派遣したのである。また、その内容も対等外交ではなく朝貢外交である。
    • 聖徳太子は架空の存在ではなく、日本書紀も上宮法皇の記録をそのまま盗用したわけではない。

九州王朝説論者の間の論争点

九州王朝説論者は古田が主唱者ではあるが、学術論文の形をとっていないアマチュアの研究発表を含めると数々の異説が存在する。その主な論点を記す。

神武東征説話の信憑性
古田は「神話はリアルである」と述べて、神武東征伝承は基本的に信用できるとした。そして九州王朝の王子であった神武天皇が弥生後期に大和盆地に侵入し、九州王朝の分王朝としての近畿天皇家の創始者となったとしている。
これについて、九州王朝説論者の中には神武天皇非実在説や神武・崇神同一人物説を唱える者もいる。古田史学の会の代表である古賀達也は神武天皇の実在は認めつつ、その説話の中には九州王朝の天孫降臨説話からの盗用があるとしている。
近畿天皇家の存在について
古田の九州王朝説は多元王朝説の一環として主張されたものであり、近畿天皇家の存在自体を否定するものではなかった。むしろ神武天皇や欠史八代、神功皇后の実在を認める点では戦後の津田史学よりも古田史学の方が記紀の伝承を尊重しているとさえ言えた。
だが、近畿天皇家の伝承のほぼすべてを九州王朝(や、豊前の分王朝)からの盗用とする主張や、応神天皇以降の歴史のみが近畿天皇家の歴史であるというもの、景行天皇応神天皇仁徳天皇継体天皇欽明天皇等の数多くの天皇が実際には九州王朝の天皇であったとするものも存在している。なお、近畿天皇家の天皇の一部が実際には近畿ではなく九州に存在していたとする説は九州王朝説論者以外に水野祐坂田隆も主張していたが、こうした主張を古田は否定していた(水野の主張は『盗まれた神話』で、坂田の主張は「記・紀批判の方法 --坂田隆氏の問いに答える」で、それぞれ批判している)。
いき一郎は日本書紀は藤原不比等による創作であり、関西に存在したのは近畿天皇家ではなく扶桑国であると述べている[3]。これについて古田は対案として「扶桑国関東説」を示唆しつつ、近畿天皇家自体が存在しなかったという主張には同意することはなかった。
狗奴国の位置
古田は当初狗奴国讃岐説を主張していたが、後に狗奴国近畿説に転向した。こうした古田自身の主張の変遷もあり、狗奴国の位置については九州王朝説論者の間でも意見が分かれる。
従来の邪馬台国九州説論者同様、狗奴国の位置を邪馬台国(邪馬壱国)の南方である南九州に比定する論者も存在する。
前期難波宮の位置付け
前期難波宮は7世紀における太宰府と並ぶ条坊都市である。古田は前期難波宮は孝徳天皇難波長柄豊碕宮ではないことを主張していたが、では前期難波宮は何の遺跡であるのか、については明確な答えを出さなかった(古田は難波長柄豊碕宮は博多湾岸にあり、そこに白村江の戦い直前に九州王朝の呼びかけに応じてその分王朝である近畿天皇家のメンバーも終結していた、とした[4])。
古賀達也は前期難波宮は前後の時代の近畿天皇家の宮殿との連続性が見られないこと、むしろ太宰府と似ている部分があること、前期難波宮の造営・焼失の年代と九州年号の改元が一致していること、等を根拠に「前期難波宮九州王朝副都説」を提唱した。これについは古田史学の会の内部でも議論がある。
聖徳太子について
古田は聖徳太子架空説を述べていないが、一般に聖徳太子の業績とされる遣隋使は実際には九州王朝が派遣したものであること(聖徳太子は遣唐使を派遣した)、法華義疏は聖徳太子の真筆ではなく九州王朝の上宮法皇が「収集」したものであること(聖徳太子と同年代の作であれば天台大師等の6世紀末・7世紀初頭の僧侶の説が反映されていない、法華義疏の奥付に切り取られた跡がある、等の不審な点を説明できない[5])、を始め聖徳太子の伝承の多くは後世による造作であったり別人物の業績からの盗用であるとした。
これを受けて聖徳太子関連の業績のほぼ全てを九州王朝からの盗用とする論者や、聖徳太子架空説を主張する論者も存在する。







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