フランス革命、イギリス革命、アメリカ独立革命等との比較とは? わかりやすく解説

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フランス革命、イギリス革命、アメリカ独立革命等との比較

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:04 UTC 版)

明治維新」の記事における「フランス革命、イギリス革命、アメリカ独立革命等との比較」の解説

西洋史学河野健二は「明治維新と「西洋」」(1964)において、明治維新経済的にブルジョワ革命であり、政治的に不徹底な革命であったとする。ただし、徹底不徹底程度問題でもあり、イギリス革命フランス革命よりも不徹底であったし、ジョルジュ・ルフェーブルがいうようにフランス革命も「農民革命」という点においては不徹底であったという。河野によれば明治政府は、自由民権派による国会開設請願運動に対して憲法制定国会開設約束するという先手を打つことによって革命矛先巧みにそらしたことができた革命政権であった河野健二編『近代革命アジア名古屋大学出版会 1987では、西欧革命明治維新対比されながら、明治維新変革性がクローズアップされ明治維新絶対主義成立とする見方はもはや見られなくなったフランス文化研究桑原武夫1956年には明治維新を「後進国型のブルジョワ革命」と評価していたが、1974年には明治維新は「文化革命」として徹底性があったとし、1986年には「ナショナリズムに立つ文化革命」と評価した桑原は「社会における巨大な変化革命と呼ぶこととすれば維新こそ革命と呼ぶべき」で、「明治維新革命呼ばずして、七月革命とか二月革命などという名称を平気で使っているのは滑稽であります最後将軍殺されなかったのですが、これはいわば日本人英知であって流血少ないからダメとは言えません」と述べ、かつて自分ブルジョワ革命とも言ったことがあるが、もうその用語は使わないマルクス主義風の発展段階説では解けないところが維新にはある、たとえば自由民権運動指導者だった中江兆民帝国憲法設計した井上毅敬愛し矛盾説明できないし、天皇絶対専制君主ではなかったといい、また、新国家軍国主義侵略行為も「罵倒から始めるのではなく西欧先進国場合をも併せ考え冷静に研究すべき」と述べた西洋史学遅塚忠躬によればイギリス革命では革命担い手ジェントリ限定されていたため、共通の利害見出すことができたが、フランス革命では、ブルジョワジー大衆との間に共通の利害見出すことが困難であり、革命路線に対して党派対立激化したがゆえに粛清いたったとし、こうして独裁テロル流血コスト払ったのはフランス革命社会革命であったからとする。遅塚は、明治維新フランス革命よりも流血少ないと強調されるが、フランス市民社会創出し社会的デモクラシー提示し近代化進めたのであり、「明治維新世界どういう貢献をしたかを考えとともに世界血まみれフランス革命負っているものが何であるかをも考慮すべきであろう」と指摘するトマス・C ・スミス1967年に、明治維新は「1789年大革命フランスもたらした上の大きな変革日本もたらした」と評した経済学者ケネス・E・ボールディング1970年に、コスト小さく持続的な成長もたらした成功した革命アメリカ独立明治維新であるとした。 他方イェール大学歴史学教授日本近代化論者のジョン・ホイットニー・ホール1971年に、日本にはフランス革命ロシア革命のような政治的イデオロギーがなく、明治維新ブルジョワ革命でも農民革命でもなかったと評した作家フランク・ギブニーは、明治維新を、アメリカ独立革命フランス革命ロシア革命中国革命同列の、五大革命一つとし、明治維新近代世界における最初の大文化革命であったとする。ギブニーは、明治文化革命は、中国共産党指導者自己の権力の座を守るために扇動した文化大革命とは違うという。明治革命は、中下武士指導したが、知識人豪商町人階級農民参加し主として国民合意よるもので、または、国民期待感高揚があり、下層身分であっても能力があれば権威になれたことを民衆目の当たりにするにつれ、「多く人々にとってー幕藩体制支持者にとってさえー、革命具体成果正当性は明らかであったそれ以上に、新し慣習新し思想新し技術新し知識には国民の心を魅了する力があった」と指摘する。さらに、アメリカフランス革命政治的革命であり、ロシア中国革命イデオロギー革命であったに対して明治革命近代史のなかで試みられ最初のトータル・レボリューション(Total Revolution全面革命であったという。また、ギブニーは、2000年書評でも、明治維新フランス革命ロシア革命多大な流血とは対照的であった評する歴史学者Thomas M.Huberは、1981年著書Revolutionary Origins of Modern Japan (Stanford University Press)で、明治維新担ったのは、層・下層武士中心とした、神官僧侶医師教員名主などのサービス・インテリゲンチャであり、明治維新とは、封建制度において抑圧されていたこれらの社会階層によって起こされ革命であったとした。 ハーバード大学教授アンドルー・ゴードン2003年著書日本近代史邦題日本200年)』で、1868年前後日本起きた明治革命では、政治統一中央官僚制、身分制廃止軍制教育・税改革など広範な改革実現したのであり、これは「政治経済社会文化のどの側面からとらえても、息を呑むほど壮絶であり、まさに革命にふさわしいものだった」とし、19世紀から20世紀にかけて世界各国起きた近代革命の日本的な展開であったとする。ゴードンによれば、この日本近代革命先行する西欧革命とは対照的であったが、それ以後起きた革命類似していた。西欧革命では新興階級である都市ブルジョワジー貴族階級特権異議唱えたが、日本では武士階級革命担ったため、「貴族的革命」ともいわれる日本武士は、主君雇われた「給与生活者従業員であったため、西欧封土や、中国貴族階級領土制や朝鮮両班よりも土地との結びつき弱く身分が不安定であったゴードンは、明治革命フランス革命比べて不完全な革命とするようなこれまでの評価は、ヨーロッパ中心主義的な評価にすぎず、非西欧地域の歴史をその固有条件即して理解しようとするものではないた有用でないとし、西欧基準とせず、同時に明治革命世界近代革命同様に持続的な激動プロセスであったことを認識することが肝要であるという。 日本政治思想史研究渡辺浩は、「明治革命・性・文明」(2021年)で、明治革命フランス革命は、身分制壊して中央集権体制つくった点で共通する評価する渡辺は「あれほどの大変革革命でないとしたら、何が革命」なのでしょう? かつて、「皇国史観」派は、日本に「革命」があったとは認めたくなかった(この語の元来の意味は、「王朝交代」ですから)。マルクス主義者多くは、真のブルジョア革命」ではなかったと考えた。こうして左右意見一致して革命ではなく、単に「維新」だ、ということになり、今に至っているのです。でも、維新」は単に新しくなることです。そこで、徳川世には、今いう「寛政の改革」を「寛政維新」とも言います。「ブルジョア革命であろうとなかろうと、あの不可逆的な変革を、たかが「維新」などと呼ぶ方がおかしくないでしょうか。」と説明するウェイクフォレスト大学R.ヘルヤーとハイデルベルク大学H.フュースも、明治維新アメリカ革命フランス革命同等革命的分水嶺として位置付けられるという。 日本近代史研究者東京大学名誉教授三谷博は、明治革命は「君主制ピヴォットとする世襲身分制解体という近代世界史上で有数革命」とする。比較革命史で見ると明治維新による犠牲者極めて少なく、その要因に、「公論」による政治決定や、長期的危機予測し、その対応に成功したことなどが挙げられるという。三谷は以下のように考察するナショナリズム役割戊辰戦争死者数が約13600人、西南戦争死者数が約11500人、倒幕運動側の死者数が約2500人で、復古反対勢力死者数不明だが、明治維新における政治的死者数は、27600人〜3万人推計できる。これに対してフランス革命での政治的死者数国内死者は約40万人フランス革命戦争での死者数は約115万人合計155万人とされるまた、20世紀中国国共内戦175文化大革命での犠牲者1000万人以上である。明治維新における政治的死者数少なかった理由には、徳川家新政府戦争極小に抑えたこと、特に江戸開城による戦争回避主因とされ、戊辰戦争抵抗者が限定され短期間終わった。このほか、大名上級武士らが、「御家(おいえ)」に代えて日本レベルナショナリズム持ったために世襲的特権剥奪抵抗しなかったこともあげられる(幕末尊王攘夷論目的鎖国を守るためでなく、日本根本的改革にあった)。フランス革命では、革命派は、「国民化」を阻む抵抗勢力であった貴族王党派ヴァンデー農民などを殺戮し、さらに革命派は、周辺君主国との戦争回避せず選択したために、大量犠牲出たフランスではすでに三部会において「国民」が権力源泉とされ、新秩序対等に構成する集合的主体として重視されていたが、日本では国民」による秩序構想支持されたのは明治10年代であった分権制・中央集権江戸時代幕藩体制連邦国家であり、君主二人いる(徳川将軍天皇双頭国家であった清朝のような一極集中型の組織解体難しいのに対して分権制は解体再編も容易であるが、ただし、インドジャワのように、分権であったがゆえにその隙をついて外部勢力国家統合をなした場合もある。近世日本双頭連邦国家であったが、維新によって単一国家としての日本」が創出された。フランスでは革命前より単一国家で、封建領主連合体からは脱却していたが、一部貴族による支配王権による支配とが混在していた。しかし、中央集権体制完成したのは革命とナポレオン体制であったことから、国家統合という点では明治維新フランス革命同様の結果産んだ間接アプローチ戦略廃藩実現しようとした新政府は、廃藩急激に進めると諸大名からの抵抗を受けると予想し間接アプローチ戦略をとって、廃藩置県より前に地均らしとして版籍奉還建議した版籍奉還は、江戸期将軍代替わりに伴う統治許可証返還慣習拡張したものであったために、諸大名からの抵抗はほとんどなかった。戊辰戦争では、新政府は各大名銃隊のみの編成命じた。これにより、上級家臣従者伝統的武芸も使うことができなくなった動員財政逼迫した藩は統治権返上申し出たところもあった。 君主制による改革維新君主権強化主導したのは大名家臣であり、いわば領主庶民の間の中間層であった維新は君押し立てた意味では「上からの改革であったが、内実中間層による「下からの改革であった新政府御誓文で「広く会議興し万機公論に決すべし」と宣言し、これが民撰議院設立建白書などでも繰り返し引用され国是となり、立憲政治定着していった。誓文以前にも安政期から「公議」「公論」は重視されており、これが誓文確認されており、ここに経路依存性がある。さらに、室町期以降には天皇政治的決定権喪失していたという経路依存性もあり、こうして天皇朝廷明治維新において「公論」を受け入れ憲法による君制限受け入れることができた。これは19世紀朝鮮清朝が君制限強く抵抗したことからみても、例外的であった復古明治維新西洋文明取り入れながら、神武創業という神話的な始源への復古唱えられた。一方フランス革命でも進歩提唱されながら、古代ローマ式の誓いポーズや、凱旋門建設月桂冠戴冠など古代ローマ復古象徴用いられた。また、江戸時代役人政策提言する際には、先例古例)を引用するのが慣例であり、明治維新が「復古」を用いたのは特殊でも奇異でもなかった。また、西洋での王政復古は、革命以前世襲貴族支配復元し、「国民」や「民主」という秩序規範否定しようとする「反動」の運動であったのに対し明治維新での「王政復古」は、人々の「国民」化や「公論」を促進した 変革速度1863年までは尊攘派公議政体追求のふたつの運動拡大し尊攘派最後局面徳川公儀打倒計画したが、公然と倒幕」を主張するものは少数とどまり散発的なテロル除けば暴力行使されず、「倒幕」が急進化しても、中間派はクーデターでこれを抑え1868年王政復古クーデター軍事力行使されなかった。長州公武合体体制挑戦し薩摩支援得て徳川軍撃退成功した王政復古クーデター徳川家による政権独占否定された。さらに徳川方武力発動したうえで敗北したため、新政府徳川排除し、さらに戊辰戦争によって中央政権としての地位固まったその後新政府版籍奉還中央集権化身分平準化武士被差別身分廃止公職就任権利開放土地所有権承認課税統一移動の自由職業選択の自由婚姻の自由、刑罰均一化などを実行していった。フランス革命比べると、明治維新経過緩慢で、理念上の議論乏しく制度設計新政府成立後始まった三谷いかにも行き当たりばったりに見えるが、これが維新犠牲者少なくさせた基礎条件とみられる理念上の闘争欠如し幕末10年間の政争において国家進路への合意形成されたために、武力発動最小限済まされた。フランス革命では、いきなり旧体制全面否定打ち出し新秩序設計図提示した1789年5月三部会直後6月国民議会結成7月バスティーユ襲撃8月封建制廃止人権宣言発布貴族からの裁判権剥奪11月教会財産国有化1790年には世襲貴族制の廃止聖職者市民化、1791年には同業組合禁止,憲法制定1792年にはオーストリア宣戦布告フランス革命戦争)、1793年国王処刑と、日本王政復古から廃藩までの3年間に比べてはるかに急激で、社会深部及んだフランス革命中途から漂流始めたのに対し日本では新秩序ゆっくりと熟成していった。 民衆運動暴動日本では1866年武州一揆や、ええじゃないか1873年徴兵令小学校反対一揆地租改正反対一揆などの民衆騒擾があるが、これらは個別争点をめぐるもので、同時期に進行していた武士の政治運動連動していなかった。フランスではバスティーユ襲撃など民衆蜂起政治変動決定的であった。この背景として、フランス田舎貴族公共事務から退きながら、徴税裁判権維持していたため、これが庶民による貴族特権への怨恨基盤となり、民衆食料不安の原因貴族陰謀帰した。これに対して日本武家日常行政携わり無役の侍が農村部居住し課役徴収少なかった暴動比較しても、日本では破壊対象建物証文であったが、フランスでは大恐怖恐怖政治など「恐怖支配」が起こり民衆得体知れぬ陰謀」に怯え犯人探しをした。日本では1858年政変において、井伊直弼側近が、水戸藩徳川斉昭息子将軍建てる計画があるという水戸陰謀論を、一橋派への弾圧根拠としたが、以後陰謀論はあまり登場しなかった。 国家君主日本では政策決定権君主個人でなく、重臣合議体であった中下武士による政策提案上級武士による合議君主による裁可という段階を経て行われ君主発議は稀で、重臣会議決定そのまま受け入れるのが通常であったフランスでは君主は「国家第一下僕」といわれたものの、国家政策最終決定者であり、自らの意思による決定誇示されていた。(加藤弘之立憲制論ではフランス革命反面教師とされた。)そのため、フランス国王国外逃亡とその失敗は、王制致命傷となり、革命定着急進化分水嶺となり、「国王フランス主権者でも国民でもない」という烙印を押されることとなった公論知的環境日本では1858年以降、「天下公論」が政府批判論拠とされたが、自由民権運動以前には閉じられ空間行われており、街頭で演説デモンストレーションパンフレット配布などは行われなかった。フランスでは公開の場で議論され三部会召集憲法制定議論によって決められた。明治維新では天皇持ち出されることで徳川権威引き下げられ大名統治権解体された。これは、三部会国民議会国王の権威訴えて貴族特権否定したことに似ているまた、18世紀フランスでは啓蒙思想などの知的環境発展した。これが革命において慣習覆し抽象的な原則体系置換しようとしたことにつながった。しかしこのような原則論互いに矛盾し論争激烈となり、予想外副作用もあり、混乱と不安定長期化した。日本では、「国防」「公議」「尊王」といったスローガンが主で、制度論は稀だった。幕末では約十年かけて、新秩序への合意熟していったため、対立最小化された。

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