フランス革命、イギリス革命、アメリカ独立革命等との比較
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「明治維新」の記事における「フランス革命、イギリス革命、アメリカ独立革命等との比較」の解説
西洋史学の河野健二は「明治維新と「西洋」」(1964)において、明治維新は経済的にはブルジョワ革命であり、政治的には不徹底な革命であったとする。ただし、徹底不徹底は程度問題でもあり、イギリス革命はフランス革命よりも不徹底であったし、ジョルジュ・ルフェーブルがいうようにフランス革命も「農民革命」という点においては不徹底であったという。河野によれば、明治政府は、自由民権派による国会開設請願運動に対して憲法制定・国会開設を約束するという先手を打つことによって革命の矛先を巧みにそらしたことができた革命政権であった。河野健二編『近代革命とアジア』名古屋大学出版会 1987では、西欧の革命と明治維新が対比されながら、明治維新の変革性がクローズアップされ、明治維新を絶対主義の成立とする見方はもはや見られなくなった。 フランス文化研究の桑原武夫は1956年には明治維新を「後進国型のブルジョワ革命」と評価していたが、1974年には明治維新は「文化革命」として徹底性があったとし、1986年には「ナショナリズムに立つ文化革命」と評価した。桑原は「社会における巨大な変化を革命と呼ぶこととすれば、維新こそ革命と呼ぶべき」で、「明治維新を革命と呼ばずして、七月革命とか二月革命などという名称を平気で使っているのは滑稽であります。最後の将軍は殺されなかったのですが、これはいわば日本人の英知であって、流血が少ないからダメとは言えません」と述べ、かつて自分もブルジョワ革命とも言ったことがあるが、もうその用語は使わない、マルクス主義風の発展段階説では解けないところが維新にはある、たとえば自由民権運動の指導者だった中江兆民が帝国憲法を設計した井上毅を敬愛した矛盾が説明できないし、天皇も絶対専制君主ではなかったといい、また、新国家の軍国主義の侵略行為も「罵倒から始めるのではなく、西欧先進国の場合をも併せ考え、冷静に研究すべき」と述べた。 西洋史学の遅塚忠躬によれば、イギリス革命では革命の担い手がジェントリに限定されていたため、共通の利害を見出すことができたが、フランス革命では、ブルジョワジーと大衆との間に共通の利害を見出すことが困難であり、革命の路線に対して党派対立が激化したがゆえに粛清にいたったとし、こうして独裁とテロル、流血のコストを払ったのはフランス革命が社会革命であったからとする。遅塚は、明治維新はフランス革命よりも流血が少ないと強調されるが、フランスが市民社会を創出し、社会的デモクラシーを提示し、近代化を進めたのであり、「明治維新が世界にどういう貢献をしたかを考えるとともに、世界が血まみれのフランス革命に負っているものが何であるかをも考慮すべきであろう」と指摘する。 トマス・C ・スミスは1967年に、明治維新は「1789年の大革命がフランスにもたらした以上の大きな変革を日本にもたらした」と評した。 経済学者ケネス・E・ボールディングは1970年に、コストが小さく持続的な成長をもたらした成功した革命はアメリカ独立と明治維新であるとした。 他方、イェール大学歴史学教授で日本近代化論者のジョン・ホイットニー・ホールは1971年に、日本にはフランス革命やロシア革命のような政治的イデオロギーがなく、明治維新はブルジョワ革命でも農民革命でもなかったと評した。 作家フランク・ギブニーは、明治維新を、アメリカ独立革命、フランス革命、ロシア革命、中国革命と同列の、五大革命の一つとし、明治維新は近代世界における最初の大文化革命であったとする。ギブニーは、明治文化革命は、中国共産党の指導者が自己の権力の座を守るために扇動した文化大革命とは違うという。明治革命は、中下級武士が指導したが、知識人、豪商、町人階級、農民も参加し、主として国民の合意によるもので、または、国民の期待感の高揚があり、下層の身分であっても能力があれば権威になれたことを民衆が目の当たりにするにつれ、「多くの人々にとってー幕藩体制の支持者にとってさえー、革命の具体的成果の正当性は明らかであった。それ以上に、新しい慣習、新しい思想、新しい技術、新しい知識には国民の心を魅了する力があった」と指摘する。さらに、アメリカとフランスの革命が政治的革命であり、ロシアと中国の革命がイデオロギーの革命であったのに対して、明治革命は近代史のなかで試みられた最初のトータル・レボリューション(Total Revolution)全面革命であったという。また、ギブニーは、2000年の書評でも、明治維新はフランス革命やロシア革命の多大な流血とは対照的であったと評する。 歴史学者Thomas M.Huberは、1981年の著書Revolutionary Origins of Modern Japan (Stanford University Press)で、明治維新を担ったのは、層・下層武士を中心とした、神官・僧侶、医師、教員、名主などのサービス・インテリゲンチャであり、明治維新とは、封建制度において抑圧されていたこれらの社会階層によって起こされた革命であったとした。 ハーバード大学教授アンドルー・ゴードンは2003年の著書『日本近代史(邦題:日本の200年)』で、1868年前後に日本で起きた明治革命では、政治統一と中央官僚制、身分制の廃止、軍制・教育・税制改革など広範な改革が実現したのであり、これは「政治、経済、社会、文化のどの側面からとらえても、息を呑むほど壮絶であり、まさに革命にふさわしいものだった」とし、19世紀から20世紀にかけて世界各国で起きた近代革命の日本的な展開であったとする。ゴードンによれば、この日本の近代革命は先行する西欧の革命とは対照的であったが、それ以後に起きた諸革命と類似していた。西欧の革命では新興階級である都市ブルジョワジーが貴族階級の特権に異議を唱えたが、日本では武士階級が革命を担ったため、「貴族的革命」ともいわれる。日本の武士は、主君に雇われた「給与生活者・従業員」であったため、西欧の封土や、中国の貴族階級の領土制や朝鮮の両班よりも土地との結びつきが弱く、身分が不安定であった。ゴードンは、明治革命をフランス革命と比べて不完全な革命とするようなこれまでの評価は、ヨーロッパ中心主義的な評価にすぎず、非西欧地域の歴史をその固有な条件に即して理解しようとするものではないため有用でないとし、西欧を基準とせず、同時に、明治革命が世界の近代革命と同様に持続的な激動のプロセスであったことを認識することが肝要であるという。 日本政治思想史研究の渡辺浩は、「明治革命・性・文明」(2021年)で、明治革命とフランス革命は、身分制を壊して中央集権体制をつくった点で共通すると評価する。渡辺は「あれほどの大変革が革命でないとしたら、何が「革命」なのでしょう? かつて、「皇国史観」派は、日本に「革命」があったとは認めたくなかった(この語の元来の意味は、「王朝交代」ですから)。マルクス主義者の多くは、真の「ブルジョア革命」ではなかったと考えた。こうして左右の意見が一致して、革命ではなく、単に「維新」だ、ということになり、今に至っているのです。でも、「維新」は単に新しくなることです。そこで、徳川の世には、今いう「寛政の改革」を「寛政維新」とも言います。「ブルジョア革命」であろうとなかろうと、あの不可逆的な大変革を、たかが「維新」などと呼ぶ方がおかしくないでしょうか。」と説明する。 ウェイクフォレスト大学のR.ヘルヤーとハイデルベルク大学のH.フュースも、明治維新はアメリカ革命やフランス革命と同等の革命的分水嶺として位置付けられるという。 日本近代史研究者で東京大学名誉教授の三谷博は、明治革命は「君主制をピヴォットとする世襲身分制の解体という近代世界史上でも有数の革命」とする。比較革命史で見ると明治維新による犠牲者は極めて少なく、その要因に、「公論」による政治の決定や、長期的危機を予測し、その対応に成功したことなどが挙げられるという。三谷は以下のように考察する。 ナショナリズムの役割。戊辰戦争の死者数が約13600人、西南戦争の死者数が約11500人、倒幕運動側の死者数が約2500人で、復古の反対勢力の死者数は不明だが、明治維新における政治的死者数は、27600人〜3万人と推計できる。これに対して、フランス革命での政治的死者数は国内の死者は約40万人、フランス革命戦争での死者数は約115万人、合計約155万人とされる。また、20世紀の中国の国共内戦が175万や文化大革命での犠牲者は1000万人以上である。明治維新における政治的死者数が少なかった理由には、徳川家と新政府が戦争を極小に抑えたこと、特に江戸開城による戦争回避が主因とされ、戊辰戦争も抵抗者が限定され、短期間で終わった。このほか、大名や上級武士らが、「御家(おいえ)」に代えて「日本」レベルのナショナリズムを持ったために世襲的特権の剥奪に抵抗しなかったこともあげられる(幕末の尊王攘夷論の目的は鎖国を守るためでなく、日本の根本的改革にあった)。フランス革命では、革命派は、「国民化」を阻む抵抗勢力であった貴族、王党派、ヴァンデーの農民などを殺戮し、さらに革命派は、周辺の君主国との戦争を回避せずに選択したために、大量の犠牲が出た。フランスではすでに三部会において「国民」が権力の源泉とされ、新秩序を対等に構成する集合的主体として重視されていたが、日本では「国民」による秩序構想が支持されたのは明治10年代であった。 分権制・中央集権。江戸時代の幕藩体制は連邦国家であり、君主が二人いる(徳川将軍と天皇)双頭国家であった。清朝のような一極集中型の組織は解体が難しいのに対して、分権制は解体も再編も容易であるが、ただし、インドやジャワのように、分権制であったがゆえにその隙をついて外部勢力が国家統合をなした場合もある。近世日本は双頭・連邦国家であったが、維新によって単一国家としての「日本」が創出された。フランスでは革命前より単一国家で、封建領主の連合体からは脱却していたが、一部で貴族による支配と王権による支配とが混在していた。しかし、中央集権体制が完成したのは革命とナポレオン体制であったことから、国家の統合という点では明治維新とフランス革命は同様の結果を産んだ。 間接アプローチ戦略。廃藩を実現しようとした新政府は、廃藩を急激に進めると諸大名からの抵抗を受けると予想し、間接アプローチ戦略をとって、廃藩置県より前に地均らしとして版籍奉還を建議した。版籍奉還は、江戸期の将軍代替わりに伴う統治許可証返還の慣習を拡張したものであったために、諸大名からの抵抗はほとんどなかった。戊辰戦争では、新政府は各大名に銃隊のみの編成を命じた。これにより、上級家臣は従者も伝統的武芸も使うことができなくなった。動員で財政が逼迫した藩は統治権の返上を申し出たところもあった。 君主制による改革。維新で君主権強化を主導したのは大名の家臣であり、いわば領主と庶民の間の中間層であった。維新は君権を押し立てた意味では「上からの改革」であったが、内実は中間層による「下からの改革」であった。新政府は御誓文で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と宣言し、これが民撰議院設立建白書などでも繰り返し引用され、国是となり、立憲政治が定着していった。誓文以前にも安政期から「公議」「公論」は重視されており、これが誓文で確認されており、ここに経路依存性がある。さらに、室町期以降には天皇は政治的決定権を喪失していたという経路依存性もあり、こうして天皇と朝廷は明治維新において「公論」を受け入れ、憲法による君権の制限も受け入れることができた。これは19世紀の朝鮮や清朝が君権制限に強く抵抗したことからみても、例外的であった。 復古。明治維新は西洋文明を取り入れながら、神武創業という神話的な始源への復古が唱えられた。一方、フランス革命でも進歩が提唱されながら、古代ローマ式の誓いのポーズや、凱旋門建設や月桂冠の戴冠など古代ローマ復古の象徴が用いられた。また、江戸時代の役人も政策を提言する際には、先例(古例)を引用するのが慣例であり、明治維新が「復古」を用いたのは特殊でも奇異でもなかった。また、西洋での王政復古は、革命以前の世襲貴族の支配を復元し、「国民」や「民主」という秩序規範を否定しようとする「反動」の運動であったのに対し、明治維新での「王政復古」は、人々の「国民」化や「公論」を促進した 変革の速度。1863年までは尊攘派と公議政体追求のふたつの運動が拡大し、尊攘派は最後の局面で徳川公儀打倒を計画したが、公然と「倒幕」を主張するものは少数にとどまり、散発的なテロルを除けば暴力は行使されず、「倒幕」が急進化しても、中間派はクーデターでこれを抑え、1868年の王政復古クーデターで軍事力は行使されなかった。長州は公武合体体制に挑戦し、薩摩の支援を得て、徳川軍の撃退に成功した。王政復古クーデターで徳川家による政権独占は否定された。さらに徳川方は武力を発動したうえで敗北したため、新政府は徳川を排除し、さらに戊辰戦争によって中央政権としての地位が固まった。その後、新政府は版籍奉還、中央集権化、身分の平準化、武士や被差別身分の廃止、公職就任権利の開放、土地所有権の承認、課税の統一、移動の自由、職業選択の自由、婚姻の自由、刑罰の均一化などを実行していった。フランス革命と比べると、明治維新の経過は緩慢で、理念上の議論も乏しく、制度設計は新政府成立後に始まった。三谷はいかにも行き当たりばったりに見えるが、これが維新の犠牲者を少なくさせた基礎条件とみられる。理念上の闘争が欠如し、幕末約10年間の政争において国家の進路への合意が形成されたために、武力発動が最小限で済まされた。フランス革命では、いきなり旧体制の全面否定を打ち出し、新秩序の設計図を提示した。1789年5月の三部会直後の6月に国民議会が結成、7月バスティーユ襲撃、8月に封建制の廃止や人権宣言を発布、貴族からの裁判権の剥奪、11月に教会財産の国有化、1790年には世襲貴族制の廃止、聖職者の市民化、1791年には同業組合禁止,憲法制定、1792年にはオーストリアに宣戦布告(フランス革命戦争)、1793年に国王処刑と、日本の王政復古から廃藩までの3年間に比べてもはるかに急激で、社会の深部に及んだ。フランス革命は中途から漂流を始めたのに対し、日本では新秩序がゆっくりと熟成していった。 民衆運動・暴動。日本では1866年の武州一揆や、ええじゃないか、1873年の徴兵令・小学校反対一揆、地租改正反対一揆などの民衆騒擾があるが、これらは個別の争点をめぐるもので、同時期に進行していた武士の政治運動と連動していなかった。フランスではバスティーユ襲撃など民衆蜂起は政治変動に決定的であった。この背景として、フランスの田舎貴族が公共事務から退きながら、徴税権と裁判権を維持していたため、これが庶民による貴族特権への怨恨の基盤となり、民衆は食料不安の原因を貴族の陰謀に帰した。これに対して日本の武家は日常行政に携わり、無役の侍が農村部に居住し、課役徴収も少なかった。暴動を比較しても、日本では破壊対象が建物や証文であったが、フランスでは大恐怖、恐怖政治など「恐怖の支配」が起こり、民衆は得体の知れぬ「陰謀」に怯え、犯人探しをした。日本では1858年の政変において、井伊直弼の側近が、水戸藩徳川斉昭が息子を将軍に建てる計画があるという水戸陰謀論を、一橋派への弾圧の根拠としたが、以後、陰謀論はあまり登場しなかった。 国家と君主。日本では政策の決定権は君主個人でなく、重臣の合議体であった。中下級武士による政策提案、上級武士による合議、君主による裁可という段階を経て行われ、君主の発議は稀で、重臣会議の決定をそのまま受け入れるのが通常であった。フランスでは、君主は「国家第一の下僕」といわれたものの、国家の政策の最終決定者であり、自らの意思による決定が誇示されていた。(加藤弘之の立憲制論ではフランス革命は反面教師とされた。)そのため、フランス国王の国外逃亡とその失敗は、王制の致命傷となり、革命の定着と急進化の分水嶺となり、「国王はフランスの主権者でも国民でもない」という烙印を押されることとなった。 公論・知的環境。日本では1858年以降、「天下の公論」が政府批判の論拠とされたが、自由民権運動以前には閉じられた空間で行われており、街頭での演説やデモンストレーション、パンフレット配布などは行われなかった。フランスでは、公開の場で議論され、三部会召集も憲法制定も議論によって決められた。明治維新では天皇が持ち出されることで徳川の権威が引き下げられ、大名の統治権も解体された。これは、三部会や国民議会が国王の権威に訴えて貴族の特権を否定したことに似ている。また、18世紀フランスでは啓蒙思想などの知的環境が発展した。これが革命において慣習を覆し、抽象的な原則体系で置換しようとしたことにつながった。しかしこのような原則論は互いに矛盾し、論争は激烈となり、予想外の副作用もあり、混乱と不安定が長期化した。日本では、「国防」「公議」「尊王」といったスローガンが主で、制度論は稀だった。幕末では約十年かけて、新秩序への合意が熟していったため、対立は最小化された。
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