甘粕正彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/21 14:08 UTC 版)
甘粕 正彦 | |
---|---|
![]() 1940年 | |
生誕 |
1891年1月26日![]() |
死没 |
1945年8月20日(54歳没)![]() |
所属組織 |
![]() |
軍歴 | 1918 - 1923 |
最終階級 | 陸軍大尉 |
除隊後 | 満映理事長 |
経歴
生い立ち
明治24年(1891年)1月26日、宮城県仙台市北三番丁に旧米沢藩士で当時宮城県警部だった父・甘粕春吉と、母・内藤志け(仙台藩士内藤与一郎の娘)の長男として生まれる[1]。第四次川中島の戦いでの奮戦で知られる上杉家家臣甘粕景持の子孫で、銀行家の甘粕二郎と陸軍の甘粕三郎大佐は弟。甘粕重太郎陸軍中将は従兄弟。マルクス経済学者見田石介は父方の従兄弟で、石介の子が社会学者見田宗介、孫が漫画家見田竜介である。三菱電機副社長を務めた甘粕忠男は長男[2][3]。
1897年(明治30年)、父の転勤で福島師範附属小学校に入学[1]。その後、津中学校(現・三重県立津高等学校)・名古屋陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月に陸軍士官学校を卒業する[1]。
憲兵へ
士官候補生第24期として卒業(同期には岸田國士がいる)した当初は歩兵科であったが、1918年(大正7年)7月中尉の時に転科し、憲兵中尉となる[4]。歩兵から憲兵への転科は膝の怪我が理由とされ、転科に迷っていたところを上官東條英機と相談し積極的な意見を受けて憲兵となったという。この時朝鮮楊州憲兵分隊長を拝命する。
その後、憲兵司令部副官・憲兵練習所学生の後、1921年(大正10年)6月憲兵大尉に進み、市川憲兵分隊長を命ぜられる。翌年1月渋谷憲兵分隊長に移り、大正12年8月から麹町憲兵分隊長を兼ねる。なお、東京憲兵隊本部で甘粕の給仕を務めていたのが後に政治家となる福家俊一である。
甘粕事件
1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の混乱時に、9月16日、東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕はアナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥・橘宗一(6歳)の3名を憲兵隊本部に連行し、最終的に殺害、同本部裏の古井戸に遺体を遺棄した、いわゆる甘粕事件を起こした。
事件では憲兵や陸軍の責任は問われず、すべて甘粕の単独犯行として処理され、同年12月8日禁錮10年の判決を受ける。軍事法廷において甘粕は「個人の考えで3人全てを殺害した」、「子どもは殺していない。菰包みになったのを見て、初めてそれを知った」とたびたび証言を変えており、共犯者とされた兵士が「殺害は憲兵司令官の指示であった」と供述しているなど、この結論に現在でも疑義を挙げる人は多い(竹中労など)。
満洲国へ
1926年(大正15年)10月に仮出獄し予備役となる。甘粕には甘粕事件の裁判中、社会主義者を憎む多数の資産家から大量の義捐金が寄せられたとも伝えられ、また獄中から本を出し、これもかなり売れたとされるが、出獄後取材を受けた新聞記者には苦境と将来の不安を訴えている[5]。1927年(昭和2年)7月から陸軍の予算でフランスに留学する。フランスでは画家の藤田嗣治等と交流があったと言われる[要出典]他、フランス陸軍大学に留学していた澄田𧶛四郎とも交流していた。フランス留学の際の陸軍からの支援金もそれなりのものがあった筈だが、甘粕はギャンブル好きで競馬で失ったと言われる[6]。
1930年(昭和5年)、フランスから帰国後、すぐに満州に渡り、南満州鉄道東亜経済調査局奉天主任となり、さらに奉天の関東軍特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で情報・謀略工作を行うようになる。大川周明を通じて後に柳条湖事件や自治指導部などで満州国建国に重要な役割を果たす右翼団体大雄峯会に入る。そのメンバーの一部を子分にして甘粕機関という民間の特務機関を設立。この頃、麻薬取引にも手を染め、蓄財をしたとも言われる。
1931年(昭和6年)9月の柳条湖事件より始まる満州事変の際、ハルピン出兵の口実作りのため奉天に潜入し、中国人の仕業に見せかけて数箇所に爆弾を投げ込んだ。その後、清朝の第12代皇帝宣統帝の愛新覚羅溥儀(1924年(大正13年)に馮玉祥が起こしたクーデターにより紫禁城を追われ、1925年(大正14年)以降に天津に幽閉されていた)擁立のため、溥儀を天津から湯崗子まで洗濯物に化けさせて柳行李に詰め込んだり、苦力に変装させ硬席車(三等車)に押し込んで極秘裏に逃亡させた。
その働きを認められ1932年(昭和7年)の満州国建国後は、民政部警務司長(警察庁長官に相当)に大抜擢され、表舞台に登場する。自治指導部から分かれた満州唯一の合法的政治団体満州国協和会が創設されると理事になり、1937年(昭和12年)には中央本部総務部長に就任。1938年(昭和13年)、満州国代表団(修好経済使節団)の副代表として公式訪欧し、ムッソリーニとも会談。
満映理事長
1939年(昭和14年)、満州国国務院総務庁弘報処長武藤富男と総務庁次長岸信介の尽力で満洲映画協会(満映)の理事長となる。満映のある新京の日本人社会では「遂に満映が右翼軍国主義者に牛耳られる」、「軍部の独裁専横人事」と噂されたという。
岸信介が甘粕に報いるために理事長にしたのだという説や、当時の満映は準国策会社として作る映画は固苦しく不人気で実は経営危機に直面しており、甘粕が甘粕事件の際の義捐金をはじめとしてかなりの資産を成したと思われていたため、その資金による支援をあてにして寧ろ満映関係者の方から積極的に経営陣に入るよう求められたのだとする説がある。
甘粕は満映の経営立て直しのために大量の従業員の解雇を行ったものの、その再就職先の確保には努力したとされる。紳士的に振る舞い、経営の再建とともに、満映の日本人満人双方共に俳優・スタッフらの給料を大幅に引き上げただけでなく、日本人と満人の待遇を同等にしたことや、女優を酒席に同伴させることを禁止するなど、社員を大切にしたことから満映内での評判は高まっていった。甘粕はまた、文化人でもあり、ドイツ訪問時に当時の最新の映画技術を満州に持ち帰った。それは後に戦後、東映の黄金期を築くことにもなった。また、朝比奈隆が指揮をしていたハルビン交響楽団の充実にも力を尽くした。また甘粕本人は軍官僚あがりであり芸術的才には恵まれておらず、映画製作の芸術面において社員の監督等に馬鹿にされることも多かったが、そうした無礼の数々も「僕の範囲外なので」と笑って受け入れていた。
満州時代の甘粕は"満州の夜の帝王"とも呼ばれ、また、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたとも言われる。しかし甘粕はその硬骨漢ぶりと言動故に関東軍には煙たがられ、甘粕事件のイメージもあり、士官学校の恩師である東條英機という例外を除いては、むしろ冷遇されており、その影響力はあくまで日本人官僚グループとの個人的な付き合いや、士官学校時代の同期の学友達との人脈が源泉となっていたという(根岸寛一の証言)。また、根岸の証言によれば、謀略の資金源の大半は満映から出ていたという。
自殺
1945年(昭和20年)8月8日ソ連は日ソ不可侵条約を破棄し日本に宣戦布告。翌9日満洲に侵攻。ソ連軍が新京に迫りくる中、ポツダム宣言の受諾が発表された翌日である8月16日に甘粕は満映の社員を全員集めて「必ず死ぬ」と言った上で、中国人社員に「(満映は)中国人社員が中心になるべき」と述べ、最後に「皆さんのお世話になったことを深く厚く御礼申し上げます」と挨拶した。そのあとに身の回り品を形見として一人一人に配り、社内の預金を退職金として全額引き出した。甘粕の部下は自殺しないよう銃器や刃物などを取り上げ見張っていたが、20日早朝、監視役の大谷・長谷川・赤川孝一(作家・赤川次郎の父)の目を盗み、隠し持っていた青酸カリで服毒自殺した(この現場には映画監督内田吐夢や漫談家の坂野比呂志も居合わせた)。満映のスタッフは皆で甘粕を看取り、葬儀も執り行われた(新京で行われた葬儀には甘粕を慕う日満の友人三千人が参加し、葬列は1キロを越えたという[7])。甘粕の遺体は一時新京で埋葬されたが、翌1946年(昭和21年)4月に荼毘に付された。遺骨は家族の手で日本に持ち帰られて多磨霊園に納骨された[8]。
なお、甘粕の自殺については終戦直後の新聞で、満映の社員を集めて演壇に立ち拳銃で自らの額を打ち抜き自殺したとの報道があった[9]ため、「拳銃による自殺説」も流されることとなった。
性格
森繁久彌は甘粕について「満州という新しい国に、我々若い者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金を儲けようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった」と証言している。武藤富男は、「甘粕は私利私欲を思わず、その上生命に対する執着もなかった。彼とつきあった人は、甘粕の様な生き方が出来たら…と羨望の気持ちさえ持った。また、そこに魅せられた人が多かった」と述べている。
李香蘭こと山口淑子が、「満映を辞めたい」と申し出た際には「気持ちは分かる」と言って契約書を破棄したが、彼女の証言によれば「ふっきれた感じの魅力のある人だった。無口で厳格で周囲から恐れられていたが、本当はよく気のつく優しい人だった。ユーモアを解しいたずらっ子の一面もあるが、その度が過ぎると思うことも度々だった。酒に酔うと寄せ鍋に吸殻の入った灰皿を入れたり、周囲がドキリとするような事をいきなりやった」とのこと[10]。
権力を笠に着る人間には硬骨漢的な性格を見せ、内地から来た映画会社の上層部を接待した席で彼らが「お前のところの女優を抱かせろ」と強要した際に、「女優は酌婦ではありません!」と毅然とした対応をしたという。
これら周囲の人間の好意的な証言がある一方で、ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた。
- ^ a b c 山口(2006)、78頁
- ^ 甘粕忠男氏死去(元三菱電機副社長)[リンク切れ]時事通信
- ^ 甘粕忠男さん死去 朝日新聞2017年8月9日
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 51頁。
- ^ 『甘粕正彦 乱心の曠野』、190-192頁。
- ^ 『甘粕正彦 乱心の曠野』、235頁。
- ^ 佐野『甘粕正彦 乱心の曠野』414頁。
- ^ 佐野『甘粕正彦 乱心の曠野』25頁。
- ^ 敗戦直後に満州で自殺(昭和20年12月19日毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p7 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 佐野『甘粕正彦 乱心の曠野』392頁。
- ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
- ^ 佐野『甘粕正彦 乱心の曠野』408頁。
固有名詞の分類
- 甘粕正彦のページへのリンク