甘粕事件での横死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:18 UTC 版)
ところが1923年9月1日の関東大震災から間もない16日、野枝は大杉栄、大杉の甥・橘宗一とともに憲兵に連れ去られ、その日のうちに憲兵隊構内で扼殺されて殺害された(甘粕事件)。野枝の遺体は畳表で巻かれ、古井戸に投げ捨てられた。まだ28歳の若さであった。 53年後に発見された死因鑑定書によれば、野枝と大杉はともに肋骨が何本も折れており、胸部の損傷から激しい暴行を加えられていたことが発覚された。軍法会議法廷で甘粕正彦ら被告人は、被害者が「苦しまずに死んだ」と陳述していた。その後の研究によれば、虐殺の命令を出したのは甘粕ではなく、憲兵隊上層部(憲兵司令官・小泉六一)ないし陸軍上層部(戒厳司令官・福田雅太郎大将)であったと推認された。甘粕事件の発覚は、殺された大杉の甥である橘宗一がアメリカ国籍を持っていたため、アメリカ大使館からの抗議を受けて狼狽した政府(第2次山本内閣)の閣議(19日[いつ?])で大問題になったからであった。 野枝の墓は、静岡市葵区沓谷一丁目の沓谷霊園にある。1975年9月16日に名古屋の覚王山日泰寺で橘宗一少年の墓前祭が開かれて以来、毎年9月15日は名古屋で橘宗一の墓前祭が、翌9月16日は静岡で大杉栄・伊藤野枝の墓前祭が開かれることになっていたが、遺族らも高齢化し始めたことから、2003年9月16日の80回忌が最後の墓前祭となった。墓前祭には三女の野沢笑子(82歳)、四女の伊藤ルイの遺児で王丸容典(59歳)ら200名が参列した。
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