日朝関係史
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近代
日本と朝鮮の開国
日本は江戸時代末期に欧米諸国に対して開港した。王政復古により成立した明治政府は近代化を目指し、李朝では国王高宗の父である興宣大院君のもとで鎖国体制が維持されていた。李朝は、欧米からの開港要求に対しては、清が宗属国であるとして独自の外交は行わず、武力行使も辞さなかった。李朝の宗主国である清や、南下政策を続けるロシア帝国に対する政策の一環として、日本は朝鮮半島に注目する。明治政府はまず王政復古を李朝に伝えるために、李朝の東萊府に国書(書契)を送るが、李朝は華夷秩序の観点から受理を拒否した。文書の中に「皇」「勅」などの文字があり、これらは天子である清の皇帝だけが使える文字であり、対等である日本が使うなら交隣はできないという理由だった。閔氏政権となっても交渉は進展せず、日本は武力によって江華島事件を起こして日朝修好条規を結んだ。明治政府はそれまでの対馬藩による交渉を曖昧私交として廃止して、明治時代以降の交渉は対立が先鋭化した。日朝修好条規について、日本側は独立国同士の外交と解釈していたが、李朝側では日本との交隣関係の復活であり、宗属関係には清があるという解釈をした[146]。
日朝修好条規
日朝修好条規は日本側に有利な不平等条約だった。日本が開港の際に欧米諸国と結んだ条約よりも不平等な点が多く、開港場から4キロ以内の旅行や通商権、開港場における日本貨幣の使用、米穀輸出の自由、無関税なども定められていた。これによって、日本の対朝鮮貿易は拡大した[147]。日朝修好条規によって朝鮮は日本に朝鮮修信使を派遣して、開化政策が行われた。日本は倭館の敷地を引き継いで日本人居留地を建設し、朝鮮は釜山港、元山港、仁川港を開港した[146]。1880年に日本公使館が漢城に設置された[148]。
日清戦争から韓国併合まで
日清戦争
清は、日本とロシアの朝鮮進出を抑えるために、李朝に欧米との条約締結をすすめる。清の駐日公使館の黄遵憲は、修信使として来日していた金弘集に『朝鮮策略』という書物を渡して外交の助言を与えた。しかし清と李朝が宗属関係を強化すると、同等の待遇を求める他国が李朝との不平等条約を強化する結果をもたらした[149]。兵士への俸給遅滞が原因で壬午軍乱が起きると清軍が朝鮮半島への駐屯を始めて、李朝では開化政策をめぐる対立が激化した。清への藩属を守ろうとする事大党と、清からの独立を目指す独立党が対立して、清仏戦争の影響で清軍が減少すると金玉均らの独立党はクーデターを計画する。竹添進一郎日本公使は独立党に協力をして、公使館の日本軍もクーデターに参加する。しかし、独立党と日本軍の攻撃を受けると事大党は清軍と協力して反撃し、日本軍は撤退して独立党は敗北した(甲申政変)。日本はクーデター失敗後に公使館の損害賠償を李朝に求めて漢城条約を結び、清とは天津条約を結んだ[150]。
甲申政変後の朝鮮半島では、財政が悪化して収奪をする李朝政府や、不平等条約のもとで進出を強める日本と清に対する反発が高まる。それまでの政府内の運動ではなく、生活を脅かされた民衆の反乱が頻発して、農民軍による甲午農民戦争が起きる。日本軍と清軍は農民軍を鎮圧するために出兵したが、鎮圧後の撤退をめぐって日本と清が対立する。日本軍はクーデターによって閔氏政権を倒し、李朝政府を従属下におき、日清戦争が勃発した。日本軍が清軍に勝利すると農民軍は再蜂起したが鎮圧された。日本と清は下関条約を結び、李朝は清との冊封体制から離脱した。日清戦争中に成立した金弘集政権は、近代化政策として甲午改革を進めるが、日本の干渉で実現した政権であるため日本への従属が進む内容となった。井上馨公使の着任後に日本の内政干渉が強まり、大院君や王妃の国政関与の禁止、日本人顧問の大量採用、円借款などが行われた[151]。
大韓帝国の成立と日露戦争
三国干渉後の李朝では、日本の勢力を抑えるためにロシア帝国に接近する派閥ができて、閔氏が中心となった。金弘集政権を支持する日本は高宗の妃である閔妃と対立して、三浦梧楼公使らの計画により乙未事変で閔妃が暗殺される。三浦公使と金弘集政権は閔妃事件の隠蔽を試みるが、アメリカ人やロシア人に目撃されたために露見して国際問題となり、民衆が日本と金弘集政権への反発を高める結果となった。各地で義兵が起きて政府軍や日本軍との戦闘が起き、金弘集は殺害される。李完用らはロシアと協力してクーデターを起こし、高宗をロシア公使館へと移す。高宗は1年以上ロシア公使館で執政を行い、露館播遷と呼ばれた。ロシアは鉱山や森林の権利入手、政府軍の訓練、露韓銀行の創設などで進出して、欧米諸国もロシアに続いた。李朝では高宗が権力を強化して独立の維持をはかり、国号を大韓と改めて、高宗は皇帝に即位した。ロシアへの接近や政府権限の弱体化は改革派の懸念を招き、徐載弼や李完用を中心とする改革派は近代化と自主独立を確保するために独立協会を設立する。独立協会は法治主義、産業の育成、皇帝権力の制限、政府権限の強化、愛国心などを主張して、公開討論会である万民共同会を開催した。独立協会は立憲君主制のもとでの国政改革を目的としたが、共和制の樹立が目的であるとする誤情報が守旧派によって流布され、皇帝勅令で独立協会は強制解散となる。のちに大韓民国の大統領となる李承晩も独立協会に参加しており、弾圧によって逮捕された。独立協会の活動の一部は、一進会や愛国啓蒙運動に引き継がれた[152]。
ロシア帝国は清で起きた義和団の乱の後も満洲の占領を続け、朝鮮半島にも影響を強めて日本と対立した[153]。日露戦争が始まると、日本軍は漢城を制圧して韓国政府に日韓議定書を調印させて、朝鮮半島での軍事行動と内政干渉を強めた。日露戦争で日本が勝利した結果、ポーツマス条約においてロシアは大韓帝国への日本の優越権を承認した。こうして日本は朝鮮半島への植民地政策を開始して、東洋拓殖という国策会社を設立する。東洋拓殖は、日本列島からの移民と大土地所有の農業経営を行った。
ロシア帝国以外の列強にも、日本の大韓帝国支配を承認させるために、日露戦争中にアメリカ合衆国と桂・タフト協定、イギリスと第二次日英同盟を結ぶ。引き換えとして、日本はアメリカ領フィリピンとイギリス領インド帝国を承認した[154]。
日韓併合条約
朝鮮半島では抵抗が続いた。活貧党は両班や富豪、日本の鉱山主や鉄道事業者を襲撃して、小作農や貧民の生活改善のための政策を要求をした。要求には穀物輸出の禁止や開港場以外の外国商人の進出禁止、鉄道敷設権の禁止なども含んでいた。日露戦争後にも義兵運動が起き、日本軍も治安維持に出動した。武装闘争とは異なる路線として、独立協会を継承して国権回復を目的とする愛国啓蒙運動が起きた。愛国啓蒙運動は自国の歴史を知って愛国心を高めることを目的として、都市の住民や各地の両班が参加して、教育や出版による言論活動を行った。義兵や愛国啓蒙運動は、日本統治時代に朝鮮独立運動の基盤となった[155][156]。朝鮮からロシアへ移住をして抗日運動を行う朝鮮人も増えて、ウラジオストクには新韓村という朝鮮人街ができて抗日運動にも活用された[157]。
日本は第一次日韓協約により、韓国の財政と外交の顧問に日本の推薦者をおいた。第二次日韓協約により、韓国は外交権を日本に譲渡し、日本の保護国となった。高宗はハーグ平和会議に、日本の干渉を排除し韓国の外交権保護を要請する密使を派遣するが、既に日本の権益を認めていた列強からは認められなかった。このハーグ密使事件により、李完用らの勢力が皇帝退位へと動き、大韓帝国議会は高宗を退位させる。第三次日韓協約で日本が設置した韓国統監府によって内政も日本の管理下に入り、韓国軍は解体された。統監となった伊藤博文は、経済面から日韓併合に反対して保護政策の継続を主張した。伊藤は同じく併合反対派の曽禰荒助を次期統監とするが、伊藤の暗殺と曽禰の療養によって山縣有朋らの陸軍閥が対韓政策を主導する。こうして日本は日韓併合条約によって韓国併合を行った[158]。
日本統治時代
日本は朝鮮総督府を通じて朝鮮半島全域を統治し、当初は軍事力を前面に押し出した武断政治を行った。第一次世界大戦は、産業構造の変化や労働者需要の急増など日朝に影響を与えた。第一次大戦末期にアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が十四か条の平和原則を発表し、この原則に含まれていた民族自決は、日本の朝鮮人留学生に注目される。留学生は民族自決にもとづいて朝鮮半島の独立活動を行い、集会を警察に阻止されつつ、二・八独立宣言を出す。この宣言書は、金瑪利亜(金マリア)によって秘密裡に朝鮮に運ばれ、三・一独立運動にも影響を与えており、日本では吉野作造らや東京帝国大学の学生が連帯を表明した[159]。三・一独立運動はソウルから全国に波及したが、朝鮮総督府によって鎮圧される。日本内地における大正デモクラシーの影響もあって、武断政治は民生面の安定を重視した内地延長主義である文化政治に転換した。穏健派の斎藤実が朝鮮総統として派遣され、斎藤は公明正大で寛容な施政を行う一方で、反日運動に厳しい態度で接した。このため、朝鮮半島の統治下での反日運動は沈静化した[160]。併合の結果、満洲の朝鮮系住民に対する支配権や、間島では朝鮮と満洲の国境問題が生じた[161]。
日本で普通選挙法と治安維持法が制定された時は、朝鮮には普通選挙法は施行されなかった。普通選挙法は属地主義のために、朝鮮半島に住む者は日本人と朝鮮人ともに適用されなかった。内地と呼ばれた日本に住む朝鮮人は選挙権・被選挙権があり、選挙で議員に当選する朝鮮人もいた。
インフラストラクチャーと植民政策
この期間に日本は朝鮮半島のインフラの整備と産業の振興をすすめた[162]。朝鮮人にも高級将校や高級官僚への門戸を開放し、後の朝鮮発展の礎となる人材を養成した。朝鮮人は、日本軍の陸軍士官学校に入学することができた。朝鮮人士官の多くはのちに韓国軍に引き継がれて、第二次大戦後の韓国独立後は朴正煕大統領を筆頭に政界に進出する者もいた。独立後に第4代大統領となる尹潽善は、高宗時代に皇帝のもとで財をなし、日本の統治下でも繁栄した資産家の出身だった[163]。
朝鮮総督府のインフラ整備と並行して、朝鮮半島への植民政策が進められた。日本からの移住者は、日韓併合後に33万人に達した。朝鮮総督府の土地政策(後述)によって確保された土地にも移住して、最終的には北部に27万人、南部に50万人となった[164]。
土地政策
土地詐欺を防止するための啓導・啓蒙を繰り返し、農民たちは自分の土地が測量されて地籍に上がるのを見て、積極的に協調したとされる。一方で、朝鮮総督府の土地調査事業や産米増殖計画によって、土地を取得する日本人と土地を失う朝鮮人が増加して、間島や東辺道を中心として80万人ともいわれる朝鮮人が満洲へと流入した。火田民や土幕民となったり、日本へ渡って定住や出稼ぎをする者が急増した。土地を追われた者の中には抗日運動に参加する者も多かったが、朝鮮総督府は流入を放置して、抗日運動家の取り締まりという名目で警察権を租借地へ拡大する口実とした。朝鮮人への対応を朝鮮総督府が放置した結果、朝鮮人と中国人の対立が激化して、万宝山事件のような衝突が起きた。これらの事件は、強硬論を盛り上げて満洲事変を起こすきっかけの1つとしても利用された[165]。朝鮮人にはソ連国内を拠点にして抗日活動を行う者もおり、日本の満蒙問題には、朝鮮統治の安定化と共産主義対策も含まれるようになった[166]。
民族政策
併合後の大韓帝国の皇族である李王家については、皇帝に対して「大公」という尊称を用いる案を外務省が出した。これは日本の皇太子の下、親王の上に位置する地位を意味しており、アルファベット表記は Grand Duke で、西欧の身分制度を参考にしていた。皇帝を天皇の臣下とするのは反発が予想されたため、その対策も兼ねていた。大韓帝国側では、「韓国」という国号と、清と冊封関係にあった時代の「王」を踏襲を求めた。交渉により、最終的に大韓帝国皇室は王公族となった[167]。
日本の植民地では皇民化政策が進められ、朝鮮総督府では朝鮮半島と内地を平等に扱うという内鮮一体が提唱された。満洲国の民族協和である五族協和にも朝鮮人が含まれており、「和・韓・満・蒙・漢」となっていた。しかし実態としては平等ではなく、満洲国では非公式に日本人が1等、朝鮮人が2等、中国人と満洲人は3等とされ、食事や賃金にも格差があった。実質的に満洲を支配した関東軍は日系官僚への指導において、朝鮮人と中国人を疎遠にさせて統治するという方法が書かれた冊子を配布した[168]。
労働・兵役
朝鮮人は住所に関わりなく1945年まで兵役は免除されていたが、朝鮮人にも志願兵の募集が行われ、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した。当時陸軍を中心に、アジア・太平洋戦争における日本民族の人的消耗を避けるため外地民人の人的資源の活用は避けられないとする意見が広まっており、朝鮮における徴兵制はその帰結であった[169]。終戦前には徴兵制が施行され朝鮮人が入営し訓練が行われたが、終戦により戦闘には投入されなかった。
国家総動員法は在日朝鮮人も対象となったが、労働力不足は解消されず、石炭、土木、金属鉱業の企業では朝鮮半島からの労働者を募集した。しかし劣悪な労働環境や条件の情報が広まると募集に応じる人数は減り、企画院は強制的に朝鮮半島から労働者を連行する労務動員計画を開始して、在日朝鮮人には国民徴用令、朝鮮半島では一般徴用令を適用した。これらの日本統治時代の朝鮮人徴用は朝鮮人の反発を招き、警保局の資料によると1944年から紛争が急増して毎日約1件の争議が発生した。また、入国管理局の資料によれば、1939年-1945年までに22万人以上が逃亡した[170]。密航[171] で内地に向かった労働者や、慰安婦として働く女性も存在した[172][173][† 12]。
在日朝鮮人社会
最初の朝鮮町は、現在は大阪市の生野区内の地域が1909年に記録として残っている。日本人の家主が朝鮮人への賃貸を避けようとしたため、当初は海抜ゼロメートル地帯や工場付近など日本人の少ない場所で定住が進んだ[175]。朝鮮半島での不況と農民層の解体、そして内地の労働需要によって、内地へ渡航する者や出稼ぎで往来する者が急増した。特に第一次世界大戦後には日本の労働需要が高まり、内地の大学に留学する者もいて、在日朝鮮人は1915年の約4000人から1920年には3万人、1923年には9万人と急増して、1920年代に在日朝鮮人社会が形成された。日本人との朝鮮観をめぐる争いも起き、東京府立第一中学の校長を批判して退学処分となった者の中には、三・一独立宣言に署名した崔麟もいた。朝鮮人への蔑視は日本人側からも問題視されて、駐韓日本大使の林権助が日本人への訓令を発する事態となった[176]。
朝鮮人は安価な賃金で働き、日本の労働者からは就業機会を奪うとして反発を招いた。また、朝鮮半島の民族運動が内地では不逞行為として報道されて悪印象につながり、これらが原因となって関東大震災では朝鮮人虐殺事件が起きた。震災後の9月1日午後には、警察や軍隊は朝鮮人に関する流言を是認して、朝鮮人の殺傷を行った。警察は9月3日に流言の打ち消しをしたが、軍隊や民間の自警団は殺傷をやめず、多数の朝鮮人、中国人、そして誤認された日本人が犠牲となった。日本政府は自警団のみの責任を追及して検挙して、個々の犠牲者についての公的な調査は行われなかった[177][† 13]。官庁記録による犠牲者数は578人、朝鮮総督府の官憲調査による犠牲者数は813人にのぼった[179]。
1920年代には家族での定住が増えていき、1930年の国勢調査では40万人のうち3万人が内地出身の二世となった。1940年に予定されていた東京オリンピックの際には、東京の深川や塩崎に在日朝鮮人が集められた。日本政府が植民地政策の結果である朝鮮人を海外の目から遠ざける目的で、朝鮮総督府の費用で埋立地の上に長屋が建設された[180]。
独立運動・抗日運動
三・一独立運動の沈静化後は、朝鮮半島を出て、アメリカ、中国、ロシア領などで抗日運動や独立運動を行ったり、各地で支援を求める者もいた[161]。
大韓民国臨時政府
かつて独立協会に参加した李承晩は、高宗の使者として渡米したことがきっかけでアメリカへ留学する。李承晩はウッドロウ・ウィルソンと親交し、日韓併合条約後は上海で大韓民国臨時政府の初代大統領となった。やがて李承晩は内紛により臨時政府を離れ、日中戦争が起きると金九が指導する臨時政府は重慶へ移って、蔣介石の中国国民党と協力した。李承晩は韓国を国際連盟の委任統治領にする要請をしており、韓国の独立のためにはアメリカの支援が不可欠とも考えた。このために即時独立を目指す独立運動家からは反発を受けたが、日本の降伏によって李承晩の主張に近い形で韓国が解放されて評価を高めた。李承晩の亡命生活は通算40年におよび、大戦後に帰国して大韓民国を建国する[181]。
抗日パルチザン
朝鮮北部から満洲国にかけては、抗日パルチザンが活動した。抗日パルチザンはソビエト連邦の赤軍や中国の中華民国軍と協力する局面もあり、ロシア内戦では赤軍・抗日パルチザン・中華民国海軍がニコラエフスクを破壊する尼港事件も起きた。金日成が中国共産党の指導する東北抗日聯軍に参加して抗日パルチザン運動を展開し、ソ連の第88特別旅団に編入されて帰国する。大戦後に金日成は朝鮮民主主義人民共和国を建国する[182]。
朝鮮半島の独立・抗日運動
朝鮮半島内では、民族運動家の呂運亨や、共産主義運動家の朴憲永らがいた。呂運亨は、総督府に監視されながらも連合軍の情報を傍受して日本敗戦後の建国準備を進めており、朝鮮建国同盟という地下組織を結成した。こうした活動が、終戦後の朝鮮建国準備委員会に結実する(後述)[183]。
在日朝鮮人
在日朝鮮人の抗日活動には、労働組合の運動と民族主義の運動があった。融和を目的とした相愛会などの団体は、日本の治安当局と協力関係にあったため支持が増えなかった。賃上げや雇用など生存権を重視する労働運動と、朝鮮半島の解放と独立を重視する民族運動は方針の統一ができず、朝鮮人の保護や生活救済によって同化政策を進める融和団体が優勢となった。各都道府県には協和会が組織されて、在日朝鮮人の統制と同化を目的に活動した[184]。
第二次世界大戦の対日・対朝鮮方針
第二次世界大戦の連行国は、アメリカ、イギリス、中国国民政府によるカイロ会談を開催して、カイロ宣言を発表した。会談では朝鮮半島の安定を望む蔣介石によって朝鮮独立が求められ、宣言には連合国の対日方針として朝鮮半島の独立が言及された。カイロ宣言の内容は、のちのポツダム宣言に引き継がれた。連合国の中で民族自決と植民地解放を率先していたのはアメリカのみで、植民地を持つイギリス、フランス、オランダや多民族国家のソ連や中国は関心を示さなかった[185]。
経済面
貿易
日朝は日朝修好条規にもとづいて日朝通商章程を結び、日本は甲申事変後に政治的進出が後退する一方で、経済的進出を活発にした。日本の輸出はイギリスの綿製品で、紡績業の発展によって日本製へと移行した。朝鮮の輸出は米や大豆などの穀物が中心だった。日本の業者は朝鮮商人の客商に資金を提供して穀物を買い集め、朝鮮では米不足と米価高騰が起きた。朝鮮の地方政府は食糧問題を解決するために日朝通商章程で承認されていた防穀令を発令して穀物の域外搬出を禁じる。しかし前貸で穀物を買い付けていた日本の業者は、域外搬出禁止に対する損害賠償を求めて紛争となった。李朝の商人は不平等条約による日本と清の商人の進出に反発して、漢城で撤市(ストライキ)を行った[186][187]。日清戦争で清が敗北すると、朝鮮は清への朝貢を終え、日本は朝鮮の植民地化を進める。朝鮮の輸出の80%から90%、輸入の60%から70%が日本向けとなった[188]。
産業労働者
日本に渡った朝鮮人は、当初は炭鉱夫や土工などの労働が多かった。炭鉱夫としての朝鮮人の雇用は1897年に筑豊で始まった。朝鮮半島では植民地政策の鉄道敷設のために鉄道工夫が雇用されて、日露戦争時からは兵站の必要から急増した。鉄道工夫は、のちに日本の鉄道敷設でも肥薩線や山陰線をはじめとして雇用が進んだ。第一次世界大戦で欧州からのアジアへの輸出が減ると、日本の輸出が増加して大戦景気と呼ばれる好景気が到来して、人不足となって紡績、炭鉱、土建で朝鮮人労働者の求人が急増した。朝鮮人の賃金は日本人の賃金の3分の2以下であり、日本人労働者からは反感を呼び、在日朝鮮人を迫害する一因となった。労働者の募集は日本企業に委託されたブローカーが行ったが、過酷な労働条件や虐待で朝鮮人に被害を出したため、朝鮮総督府が防止を試みる。しかし、総督府の規則は内地には及ばないため、悪質なブローカーは絶えなかった。渡航者の規制が撤廃されると1921年の約3万人から1923年には9万人となり、道路工事、上下水道工事、水力発電所工事の土工となった。過酷な労働で死者を出した事件もあり、読売新聞の報道がもとで明らかとなった信濃川逃亡労働者殺害事件がある[189]。単身の出稼ぎが多く、1924年の調査では、土工の78パーセント、職工の86パーセント、日雇労働者の65パーセントが故郷に送金していた[190]。
労働運動
世界恐慌が起きると、中小の企業の倒産や工場の閉鎖が相次ぎ、朝鮮人労働者の多くはそうした職場であったため失業が急増した。中でも在阪朝鮮人の失業率は高く、日本人の約3倍となった。このため朝鮮人による労組の組織や、労働争議にも発展していった。在日朝鮮人労働総同盟が結成されたが、日本労働組合全国協議会との一体化を指示されると、3万人いた組合員数は2600人まで減少する。運動の過激化は一般の日本人の悪印象にもつながり、指導部の混乱や運動家の検挙によって衰退した。運動家には特高警察による拷問を受けた者もおり、日本の敗戦まで釈放されなかった。釈放された運動家には朝鮮総連の幹部となる者も多く、同組織の闘争的な方針につながる結果となった(後述)[191]。
金融
日朝修好条規によって、日本の通貨が朝鮮の開港場で使用できるように定められた。日本の国立銀行である第一銀行韓国総支店は業務を拡大して、第一銀行券を発行して大韓帝国の通貨として流通させた。のちに設立された中央銀行の朝鮮銀行は、創立事務を日本政府が行い、重役が日本人であり、韓国銀行券は金貨または日本銀行兌換券と交換できる点など、日本への従属を前提とした金融機関であった[192]。
世界恐慌後の日本は、自国の経済を保護するためにブロック経済を進めた。日本円を中心とする日満支経済ブロックに朝鮮も含まれて、朝鮮銀行は朝鮮銀行券を発行した。朝鮮の通貨として日本円を導入する案もあったが、朝鮮で混乱が発生した場合に日本に波及するとの理由で採用はされなかった[193]。日本は日中戦争や太平洋戦争の戦費を調達するために、銀行間で預け合い契約という手法をとり、朝鮮銀行は中華民国臨時政府の中国聯合準備銀行と契約をした。預け合いによって日本国内のインフレーションは避けられるが、同時に中国では通貨の濫発によるインフレーションが悪化した[194]。
文化面
思想
李朝時代の甲午農民戦争の基礎となったのは、崔済愚が創始した東学の思想だった。東学は、儒教、仏教、道教、シャーマニズムなどを含んでおり、その平等思想は反腐敗・反封建主義・反帝国主義の基礎となって普及した。甲午農民戦争の敗北後、東学の流れからは日本に協力する一進会も創設されたが、併合後に日本によって解散させられた[195]。朝鮮半島に浸透している風水思想については、朝鮮総督府は村山智順の調査で『朝鮮の風水』という研究書を出した[196]。
教育
朝鮮半島から日本への留学は1880年から始まり、集団留学は1883年に慶應義塾と陸軍戸山学校で始まった[176]。併合前の愛国啓蒙運動の一環として、両班や地方有力者が近代的教育の私立学校を各地に設立して、民族教育の普及にも貢献した。日本は韓国政府を通して私立学校令などの法令を定めて、愛国啓蒙運動の教育を規制した。朝鮮総督府による統治が始まると、初等教育をはじめ日本語教育とともに朝鮮語の教育が行われ、ハングルの普及が進んだ。日中戦争以後、内鮮一体の名の下、それまで公教育で必須科目として教授されていた朝鮮語は朝鮮教育令の改正によって1938年には随意科目となり、皇民化教育の一環として行われた。小学校にあたる国民学校や、現在のソウル大学校の前身にあたる京城帝国大学は、独立後は韓国政府に引き継がれた[197]。
建築
朝鮮総督府を建設する際には、景福宮の正面を敷地として王宮の大半を解体する計画が進められた。正門にあたる光化門を解体する予定だったが、柳宗悦らの反対によって移築して保存された[198]。
出版・文芸
李朝時代から欧米や日本の近代文芸作品が読まれるようになった。日清戦争後に朝鮮から日本に来た留学生は、ヨーロッパ文学を日本語に翻訳しており、多数の作品が和訳からの重訳で紹介された。やがて翻訳や翻案に続いて独自の作品を書く作家が現れて、在日朝鮮人文学が開拓されていった。朝鮮語と日本語の双方で作品を発表する作家も登場し、金史良は「光の中に」で芥川賞候補となり、李箱は難解さで物議をかもす小説や詩を発表した。ほかに九人会に参加して純文芸を追求した詩人の鄭芝溶、近代化を志向して『無明』で朝鮮藝術賞を受賞した小説家の李光洙らがいる。朝鮮初の文芸同人誌とされる『創造』は、東京で発行された[199]。朝鮮農民の離農や流浪が急増した1930年代に活動した姜敬愛は、植民地政策を告発する『人間問題』や『塩』、日本人と朝鮮人の友情を描いた日本語作品『長山串』を書いた[200]。独立から韓国建国までの過渡期には、張徳祚が日本統治時代末期を舞台に『喊声』を書いた。これは、娘が女子挺身隊で内地へ送られようとする母親の抵抗が主題となっている[201]。
甲午農民戦争後に抗日運動をした活貧党は、許筠が17世紀に書いたハングル小説『洪吉童伝』の義侠洪吉童をモデルとした[202]。日露戦争時の日韓議定書によって、日本軍に不利益となる集会・結社・言論活動は死刑以下に処すると布告して制限された。独立協会が発行した独立新聞は、ハングルのみで書かれた初の新聞となったが発行禁止となった。独立協会の路線を引き継いだ愛国啓蒙運動は、アーネスト・ベセルが社長となった大韓毎日申報や皇城新聞などの新聞を発行して言論活動を行った。日本は韓国政府のもとで新聞紙法を定めて、愛国啓蒙運動の言論を規制した[203]。日本統治時代の朝鮮で娯楽用に広く読まれた本としては、タクチ本がある[204]。在日朝鮮人社会の新聞としては、大阪の猪飼野で発行された民衆時報や、東京で発行された朝鮮新聞などがあった[205]。
注釈
- ^ 倭国では、高句麗を高麗(こま)と呼んだために、日本列島内に高麗郡や高麗神社などの名称があるが、のちに朝鮮半島で成立する高麗(こうらい)とは別の国を指す。
- ^ 隋書 東夷伝 第81巻列伝46 : 新羅、百濟皆以倭為大國,多珍物,並敬仰之,恆通使往來
- ^ 宋書 列傳第五十七 夷蠻 : 詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王
- ^ 職貢図 : 斯羅国 : 斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘
- ^ 三國史記 新羅本紀 : 元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質
- ^ 三國史記 百済本紀 : 六年夏五月 王與倭國結好 以太子腆支爲質 秋七月大閲於漢水之南
- ^ 実際は海賊との見方もある[35]。
- ^ 高麗史列伝巻十七 『若依蛮様、則工費多、将不及期..用本国船様督造』
- ^ 「元史」 卷十二本紀第十二世祖九 七月の条 『高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本』
- ^ イギリス商館長リチャード・コックスの日記 1617年8月31日 ある人々(それは庶民であるが)は、朝鮮通信使が来たのは臣従の礼を表し、貢物を献上するためで、もしそうしないと将軍は再び彼らに対して戦争を仕掛けたであろうと噂している[122]
- ^ 理由として、政治的儀礼で与えられた銀は朝貢に対する回賜と解釈したとされる[126]。
- ^ 日本国内で慰安婦についての議論があり、「単なる売春婦であり、性的搾取をはじめとした慰安所における人権侵害など何もない」「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」などといった主張がある。これらの主張を「日本版歴史修正主義」とする反論もある[174]。
- ^ 震災後に中国で日本支援運動が起きたが、中国人も殺害されていた。その多くは浙江省の自然災害のため出稼ぎに来ていた農民だった[178]。
- ^ 第一大邦丸事件では漁労長が殺害されている
- ^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉諡焉。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
- ^ 法的な首都は1972年の新憲法制定までソウル。
- ^ ただし、1960年代後半からの高度経済成長まで、南の大韓民国は北の朝鮮民主主義人民共和国よりもさらに貧しく、国家経済の規模も劣っていた事を理解する必要がある。
- ^ 日本社会党や日本共産党でも、1980年代末に韓国の民主化で現地との交流を開始したのを受けて、「南朝鮮」から「韓国」への表記へと切り替えた。
- ^ なお、この拉致事件を追及する特定失踪者問題調査会によれば、被害者になった可能性がある「特定失踪者」は1948年から2004年まで存在し、特に拉致の疑いが濃い事例に限っても1960年から1991年にわたっている。
- ^ その後、閔は韓国国籍と日本での在留特別許可を得たが、刑事事件によりしばしば逮捕され、2004年に拘置中自殺した。
- ^ 斯盧国は503年に新羅と国号を改めた
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