日朝関係史 近世

日朝関係史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 05:09 UTC 版)

近世

女直の勃興

中世から続く日朝貿易は、間接的に明に大きな影響を与えた。日本が輸出した銀は、李朝を通して明と朝鮮の中間に位置する遼東にも流通しており、遼東の交易には女直(女真)が参加していた。女直は高麗人参や毛皮などの高級品を輸出して栄え、ヌルハチの支配によって勢力を拡大した。秀吉による朝鮮出兵以前にヌルハチは挙兵して、民族は満洲族と名を変え、やがて明に代わって中国を支配する王朝となる[104]後述)。

文禄・慶長の役(壬辰戦争、唐入り)

朝鮮国王の住む景福宮の想像復元図。宣祖の逃亡で起きた朝鮮民衆の蜂起によって放火掠奪され、約270年後に興宣大院君が再建した

日本を統一した豊臣秀吉は中国の明の征服を企図し、対馬の宗氏を介して朝鮮に服従と明征伐の先鋒となることを求めた。対馬の宗義智は、秀吉の命令を変えて、朝鮮には秀吉の天下統一を祝賀する朝鮮通信使を送ってほしいと要請した。こうして約150年ぶりに通信使が派遣されて秀吉に謁見したが、秀吉は対馬が命令を変えたことを知らないために、李朝が降伏しに来たと錯覚した。秀吉は朝鮮国王に対して明の征服を先導するように求める書を渡す。

李朝には、通信使の派遣前から秀吉の朝鮮侵攻の噂が伝わっていた。そのため通信使の目的は、名目上は秀吉の日本統一を祝いつつ、噂の真偽を確かめることだった。しかし、通信使の正使黄允吉と副使金誠一は、それぞれ西人党東人党という異なる党派に属して対立関係にあった。西人党の黄允吉は侵攻があると報告し、一方で東人党の金誠一は侵攻はないと報告をした。当時の李朝では東人党が力を持っており、金誠一の意見が採用された。のちに日本軍が一気に進軍できたのは、この誤情報も一因とされる[105]。文禄の役ののちに通信使をつとめた黄慎は、関白は人臣であるため礼分の面では対等ではないが、天皇は政治に無縁であると観察した[106]

秀吉は明に行くために朝鮮半島を通行する要求を行ったが、李朝から良い回答がなかったため、朝鮮半島を攻撃した(文禄・慶長の役)。緒戦で日本軍は各地の朝鮮軍を破って平壌咸鏡道まで進撃したが、伸びた戦線に対して義勇軍の抵抗を受け、李朝が宗属している明軍も参戦する。戦争の長期化を望まない小西行長などの領主がおり、明や李朝との講和交渉を優先させて、戦線を後退させたまま戦局は膠着した。秀吉の死去にともない日本軍が撤退して終戦となり、日本と中国・朝鮮軍との間で展開したこの戦争は16世紀東アジア最大の戦闘ともいわれる[107]。交戦と治安悪化、食糧再分配と生産の崩壊と民衆反乱などもあり、朝鮮の国土は疲弊した。また、この時の騒動で役所に保管されていた戸籍なども燃やされ、その結果朝鮮半島では白丁が低減し、両班を自称する者が増加したと言われている。

文禄・慶長の役で荒廃した朝鮮半島の様子は、日本軍に従軍した僧の慶念による『朝鮮日々記』や、興福寺の僧による『多聞院日記』にも書かれた[108]

徳川政権による国交回復

秀吉の死後、日本では徳川家康による武家政権である江戸幕府が成立した。徳川家康は、秀吉の「唐入り」には消極的で朝鮮半島に派兵せず、朝鮮との国交回復を望み、宗氏を介して使節を派遣した。こうして徳川家康と李朝の間で国交回復の交渉が進められた。光海君は捕虜の送還や貿易交渉に応じ、己酉約条が結ばれて貿易が再開された。李朝は日本との正式な国交がある通信国となった[109]。日朝の交渉を仲介した対馬藩は、早期の国交回復をさせるために徳川幕府の国書やそれに対する李朝の返答書を偽造、改竄していた。改竄が発覚して関係者が処罰される柳川一件が起こり、柳川一件ののちに貿易は幕府が管轄した[97]

日本人が国交のない地で救助された場合は帰国が保証されておらず、滞在が長期にわたったり帰国できない場合があった。日本、琉球、李朝、清では漂流民の送還が行われるようになり、朝鮮に漂着した日本人は、保護のもとで比較的に短期間で帰国できた、秀吉後の断交状態でも日朝相互の漂着民の送還は行われており、江戸幕府の寛永期には両国で漂流民を送還する体制が整えられた。1618年から1872年までに朝鮮から送還された日本人は1200人を超える。外国に漂着した者は、帰国後に他国への往来を禁じられて死亡時は幕府に届け出る必要があったが、朝鮮からの帰国者は緩和が進み、漂着前と同じ生活が送れるようになった[110][111]若狭国以西では、畠山氏のように漂流民の送還とともに李朝との貿易を行おうとする大名や、李朝に使者を送った大名もいた[94]

朝鮮通信使

狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年承応4年・孝宗6年

正式な国交がある通信国として、外交使節である朝鮮通信使も再開した[109]。室町幕府に対しては4回訪日した朝鮮通信使が、江戸幕府では将軍の代替わりごとに将軍家を祝賀するために来訪して、公式の外交関係が保たれた。通信使は第2代将軍徳川秀忠の時代から始まり、国交回復までの回答兼刷還使3回と通信使が9回、約200年に渡って合計12回の来訪を行った。李朝では文禄・慶長の役の影響で警戒をしており、朝鮮半島での外交交渉は倭館に滞在する対馬藩の使者との間で行われ、将軍の使者は直接に朝鮮国王には派遣されず、日本使節は漢城や内陸部には入らなかった。李朝は江戸幕府の政治について、室町幕府と同じく国政を行うのは天皇ではなく将軍だと解釈した。そこで、室町時代と同様に将軍に対して通信使が派遣された[112]。交渉の実務記録は、対馬藩の記録が宗家文庫として残っており、他に対馬藩儒の雨森芳洲による『交隣提醒』や『交隣始末物語』、松浦霞沼『朝鮮通交大紀』、草場佩川『津島日記』などがある。室町時代の外交文書『善隣国宝記』に続いて、江戸時代には『続善隣国宝記』も書かれた[100][113]。対馬藩の藩儒である雨森芳洲は、第9次通信使の申維翰と親交を結び、申維翰は体験記として『海游録』を書いた[114][113]

日本は徳川家定が将軍となる頃に江戸城の西の丸の火災、凶作、マシュー・ペリーの浦賀来航が起きており、李朝では凶作により通信使の費用調達が困難となった。日朝双方で財政難や外圧の困難がありつつも、対馬での聘礼を合意する。しかし徳川家茂が将軍となる頃には、日米修好通商条約の調印やロシア軍艦対馬占領事件などが相次いだため、通信使の計画は実現されず、釜山の倭館や対馬の厳原で交流を保った[115]。朝鮮通信使は、のちに世界の記憶に登録された(後述)。

華夷変態と小中華思想

李朝は16世紀末に南方の日本から攻撃され、17世紀には北方の清から攻撃を受ける結果となった。中国で成立したは、日本と朝鮮双方の外交方針に変化をもたらした。遼東地域の女真が勢力を拡大して清となり、明が滅亡すると、日本では華夷変態と呼ばれた。中華の明が夷狄の清に変わったという意味であり、夷狄でも中華となり得るという概念が生まれた。李朝は清と宗属関係を結び、日本とは交隣関係を結んだ[116]。李朝は清の藩属国となりつつも、朱子学のもとで清に対する批判も起きる。漢王朝の明の滅亡によって、中華の継承者は自国にあるという尊華攘夷・尊明排清の思想が主張されるようになり、これを小中華思想とも呼ぶ[117]

幕府と李朝の外交では、名称が問題となった。幕府の将軍は「日本国大君」を用いており、大君という称号は日本では諸侯の長を意味して国王と対等以上を意味したが、李朝では臣子に与える職号であり国王の下位にあった。両国は互いに都合のよい解釈をしており、交渉の窓口は対馬藩が担当していたので深刻な対立とはならなかった。この問題は、幕府が倒れて明治政府となった時に表面化する[118]後述)。

通信使と征韓論

幕府の公式文書では、通信使には来貢使という用語は使われていないにも関わらず、民間では一方的な従属関係を示す来貢という言葉が広まった[119]。通信使について当時の日本人は「朝鮮が日本に朝貢をしなければ将軍は再び朝鮮半島を侵攻するため、通信使は貢物を持って日本へ来る」という噂もしていた[† 10]。李朝でも、そうした日本人の存在は知られていた。延享度の通信使の帰国報告では、幕府は諸侯に朝鮮入貢として知らせており、それまでの使節も知らぬふりをしていたと記されている[121]。『朝鮮人来聘』や『朝鮮人来朝記』においても、三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵を持ち出して朝鮮通信使を朝貢使節と見なしており、日本人が朝鮮通信使を朝貢使節団として捉えていたことがうかがえる[121]。また、山鹿素行の『武家事紀』、本居宣長の『馭戒慨言』なども朝鮮通信使を朝貢使節とみなした。通信使の途絶は両国の財政難が理由だったが、通信使が途絶した際には朝貢を止めたと解釈する風潮が生じた。幕末には、清国広州の新聞に、とある日本人が寄稿した征韓論が掲載される八戸事件が起きる。こうした朝鮮観は、明治時代以降の日本の外交に影響を与えた[122]

経済面

倭館の再開

18世紀の釜山浦の草梁倭館図

倭館は豊臣秀吉による文禄・慶長の役で閉鎖されたのちに己酉約条によって再開された。釜山には日本人が生活する倭館が建設され、敷地は10万坪、人口は400人から500人ほどだった。江戸時代から明治初期にかけては、倭館が唯一の公認の日本人町だった。李朝は鎖国政策をとっていたが、日本とは正式な国交を保った。ただし文禄・慶長の役からの警戒もあって、日本人は首都漢城府には入れず、李朝が準備した釜山の倭館まで往来ができた。そのため、朝鮮からの情報は入手しづらい状態であった[123]

秋田藩の家老による『梅津政景日記』によれば、秋田の院内銀山には高麗にゆかりのある人物がいたという記録もある[94]

通貨問題

対馬藩は幕府から朝鮮との貿易を許され、日朝貿易の窓口になった。また、薩摩藩によって武力で幕藩体制に組み込まれた琉球王国とも通交があったようである。朝鮮は中国産の生糸や、薬用として重宝された高麗人参を輸出して、日本は慶長丁銀で購入した。幕府では貿易による貴金属の流出が問題とされ、銀の含有率を低くした銀貨に切り替える。李朝では含有率が低い銀貨の受け取りを拒否したため、幕府は高麗人参専用の銀貨として人参代往古銀を発行した[123]。日本は外交使節の朝鮮通信使にも銀を贈ったが、朝鮮側は銀を自国内には持ち込まず、朝鮮人被虜の送還費用や外交窓口である東莱府の資金とした[† 11][124]

日本は輸入品によって貴金属の流出が続いたために、輸入額が大きい品物を国内生産するという、現在の輸入代替にあたる政策も行われた。第8代将軍徳川吉宗の時代には、中国からの砂糖と朝鮮からの高麗人参が国産化された。吉宗の命令で草梁倭館は調査をすすめて、やがて日本では、お種人参という名で国産が実用化された。高麗人参の貿易で多大な利益を得ていた対馬藩にとっては、経済面で衰退する一因となった[125]

文化面

対潮楼から望む弁天島、仙酔島

朝鮮通信使は日朝の文化交流のきっかけともなった。迎賓館として福禅寺の境内に客殿の対潮楼が建立されて、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。『海東諸国紀』には日本の地図も収められており、江戸時代には日本で同書の写本が流通した[106] [126]

大名行列とは異なり、朝鮮通信使は外交官の他に、美しく着飾った小童や楽隊、文化人、医師、通訳などが随行員に加わっており、異国情緒を持った一種の見世物として注目された。揮毫(現代で言えばサイン)を求める者が多数にのぼって通信使の負担となったため、天和時以降は直接に頼むことは禁じられた[127]

食文化・医学

トウガラシなどの作物は17世紀以降に日本から朝鮮へ持ち込まれており、サツマイモ趙曮が対馬で栽培を学び、凶作にも役立つ作物だと『海槎日記』に記した[128]。対馬藩は朝鮮の食文化情報を幕府や各藩に提供して、通信使用の饗応料理を発展させた。やがて日本でも朝鮮料理本として『信使通筋覚書、朝鮮好物附之写』が刊行されて、焼肉、モツ料理、きみすい(キムチ)の作り方が解説された[129]

朝鮮には許浚の東洋医学書『東医宝鑑』があり、日本の医師は通信使と情報交換をした。幕府は良医を派遣するように要請して、李朝は内医院正から良医を選んで派遣した。日朝の問答は『桑韓筆語』や『倭韓医談』にまとめられている。

儒教

藤原惺窩林羅山をはじめとする日本の儒学者は、捕虜となった朝鮮の儒学者や、儒教の教養を持つ通信使と交流した。慶長の役で捕虜となった姜沆は、藤原惺窩の朱子学研究に影響を与え、姜沆は帰国後に日本の見聞記『看羊録』を書いた。文禄・慶長の役では大量の書籍が朝鮮半島から日本に運ばれ、のちに徳川家康の駿河文庫で林羅山らが保管した[130]。日本が独自に儒教を発展させていた一方、李朝では朱子学、とくに性理学が中心であり、異説を認めない立場が強固であった[131]。朝鮮の主流は伊藤仁斎荻生徂徠太宰春台らの説を批判したが、主流ではない実学は日本の儒学を評価した[132]

文芸

通信使は漢詩など中国文化の素養があり、日本の文人墨客や民衆との交流がなされて詩文の唱酬の記録が多数作られた[133][134]律詩の書軸には、次韻の形式も用いられた。次韻とは、以前の書軸と同じ韻字を用いて唱和する形式であり、日朝交流の継続を希望して書かれた意図がうかがえる[135]。詩人の許蘭雪軒は作家の許筠の姉にあたり、優れた漢詩を吟じたが李朝では評価されなかった。許蘭雪軒の作品はのちに明で評判となり、文台屋次郎兵衛によって日本にも紹介されて人気を呼んだ[136]

書画・工芸

羽川藤永筆『朝鮮通信使来朝図』。江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使の行列を描く。神戸市立博物館収蔵、池長孟コレクション。

通信使来日の際には行列絵巻が描かれて、『洛中洛外図』や『江戸図屏風』にも通信使が登場する[137]。通信使を描いた画家には狩野安信狩野益信英一蝶奥村政信羽川藤永歌麿葛飾北斎らがいる[138]。通信使の名前や肩書などの情報を載せた浮世絵版画はガイドブックとして人気を呼んだ[139]。通信使の画員は日本画家と親交して、その活動は『古画備考』にまとめられて、日本からは狩野派屏風絵を贈った[140]。通信使は各地に墨蹟も残しており、徳川家光を祀る大猷院霊廟には『霊山法界崇孝浄院』が贈られた。

文禄・慶長の役において、大名は朝鮮から儒学者などと共に多くの陶工も連れ帰り、日本各地で陶芸が盛んになった。中でも肥前国の伊万里焼は、長崎貿易オランダ東インド会社がヨーロッパへ輸出する品物にもなった[141]滋賀県東近江市五個荘小幡人形などには、随行員である小童や楽隊を人形にした唐人人形もある。

芸能

通信使を模したとされる芸能には、唐人おどり、唐子おどりなどがある。通信使が日光東照宮に参拝した影響で、名古屋東照宮仙台東照宮の祭礼でも朝鮮風の唐人行列が出た。神田明神祭山王祭でも通信使の仮装が出し物になったほか、朝鮮風の衣装で辻踊りも流行して幕府から禁止された。歌舞伎浄瑠璃も通信使を題材とした。唐人殺しの事件は有名で、『世話料理鱸包丁』をはじめとして作品が作られ続けた[142]。日本の舞楽は通信使に披露されて、猿楽雅楽の演奏や、歌舞伎も披露された。雅楽の納曽利陵王は朝鮮では楽譜が失われており、通信使に感銘を与えた[143]




注釈

  1. ^ 倭国では、高句麗を高麗(こま)と呼んだために、日本列島内に高麗郡や高麗神社などの名称があるが、のちに朝鮮半島で成立する高麗(こうらい)とは別の国を指す。
  2. ^ 隋書 東夷伝 第81巻列伝46 : 新羅、百濟皆以倭為大國,多珍物,並敬仰之,恆通使往來
  3. ^ 宋書 列傳第五十七 夷蠻 : 詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王
  4. ^ 職貢図 : 斯羅国 : 斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘
  5. ^ 三國史記 新羅本紀 : 元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質
  6. ^ 三國史記 百済本紀 : 六年夏五月 王與倭國結好 以太子腆支爲質 秋七月大閲於漢水之南
  7. ^ 実際は海賊との見方もある[35]
  8. ^ 高麗史列伝巻十七 『若依蛮様、則工費多、将不及期..用本国船様督造』
  9. ^ 「元史」 卷十二本紀第十二世祖九 七月の条 『高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本』
  10. ^ イギリス商館長リチャード・コックスの日記 1617年8月31日 ある人々(それは庶民であるが)は、朝鮮通信使が来たのは臣従の礼を表し、貢物を献上するためで、もしそうしないと将軍は再び彼らに対して戦争を仕掛けたであろうと噂している[120]
  11. ^ 理由として、政治的儀礼で与えられた銀は朝貢に対する回賜と解釈したとされる[124]
  12. ^ 日本国内で慰安婦についての議論があり、「単なる売春婦であり、性的搾取をはじめとした慰安所における人権侵害など何もない」「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」などといった主張がある。これらの主張を「日本版歴史修正主義」とする反論もある[172]
  13. ^ 震災後に中国で日本支援運動が起きたが、中国人も殺害されていた。その多くは浙江省の自然災害のため出稼ぎに来ていた農民だった[176]
  14. ^ 第一大邦丸事件では漁労長が殺害されている
  15. ^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉諡焉。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
  16. ^ 法的な首都は1972年の新憲法制定までソウル。
  17. ^ ただし、1960年代後半からの高度経済成長まで、南の大韓民国は北の朝鮮民主主義人民共和国よりもさらに貧しく、国家経済の規模も劣っていた事を理解する必要がある。
  18. ^ 日本社会党や日本共産党でも、1980年代末に韓国の民主化で現地との交流を開始したのを受けて、「南朝鮮」から「韓国」への表記へと切り替えた。
  19. ^ なお、この拉致事件を追及する特定失踪者問題調査会によれば、被害者になった可能性がある「特定失踪者」は1948年から2004年まで存在し、特に拉致の疑いが濃い事例に限っても1960年から1991年にわたっている。
  20. ^ その後、閔は韓国国籍と日本での在留特別許可を得たが、刑事事件によりしばしば逮捕され、2004年に拘置中自殺した。
  21. ^ 斯盧国は503年に新羅と国号を改めた

出典

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