外国人居留地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 00:27 UTC 版)
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歴史
前史
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鎖国時代の長崎に設置された出島や唐人屋敷も、一種の居留地といえる。出島のオランダ人や唐人屋敷の清国人はみだりに長崎市街へ外出することは許されなかった。1854年の日米和親条約では米国商船の薪水供給のため下田、箱館の2港が開港され、日英和親条約では長崎と箱館が英国に開港されたが、外国人の居住は認められなかった。その後、ロシアやオランダと締結された和親条約も同様である。
安政五カ国条約
江戸幕府は、安政年間に、1858年の日米修好通商条約をはじめとして英国、フランス、ロシア、オランダと修好条約を締結した。これを「安政の五カ国条約」と総称する。この条約では、東京と大阪の開市、および、箱館(現:函館市)、神奈川(現:横浜市神奈川区)、長崎、兵庫(現:神戸市兵庫区)、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。実際に開港されたのは、神奈川宿の場合は街道筋から離れた横浜村(現:横浜市中区)であり、兵庫津の場合もやはりかなり離れた神戸村(現:神戸市中央区)であったが、いずれにしても開港場には外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、あるいは住宅倉庫商館を建てることが認められた。居留地の外国人は、居留地の十里(約40キロメートル)四方への外出や旅行は自由に行うことができた(十里より外の自由な行動は許されなかった)。条約上は領事裁判権を認めただけのものであり、居留地内の外国人も日本の行政権に従う必要があった。だが実際には諸外国とのトラブルを避けるため治外法権的取り扱いがなされ、関税以外の租役は徴収されず、また外国人商人の外出には日本人の護衛が付けられることが通常であった。日本人商人との貿易は居留地内に限定された。これが居留地の始まりである。
居留地の終焉
居留地は外国人を一ヶ所に集めておけるので、日本人との紛争防止に役立つなど、日本政府にとって便利な面もあった。半面でやはり治外法権、領事裁判権を認める不平等条約の落とし子であり、国家的な体面から容認できないものであった。このうち、欧米列強側の維持費の都合から、長崎では1876年に居留地の返還が行われ、横浜でも1877年に日本側の行政権が回復して事実上撤廃されたが、他の居留地は依然として継続された。このため明治政府は条約改正に努力したものの、逆に国粋主義者の一部には外国人を居留地に閉じ込めて日本の伝統・文化を守るべきだという対外硬運動も起きて、複雑な展開を見せることもあった。だが、条約改正の実施に伴って、1899年各地の居留地は一斉に回収(返還)された。居留地が置かれていた都市の港は居留地時代に大きな発展を遂げ、特に神戸は上海、香港を凌ぐ東洋最大の港へと飛躍していた。
これ以降、外国人は「内地雑居」を認められて旅行制限も解除された。ただ、横浜、神戸においては旧居留地を中心とする貿易が続いていた。
各地域
築地居留地
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東京は開港場ではないが、開市場に指定されたため、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地が設けられた。今日の中央区明石町一帯の約10ヘクタールである。しかし、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため、青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院、雙葉学園の発祥地となっている。また、アメリカンスクール・イン・ジャパンの発祥地にもなっている。
現在この地区のシンボルになっている聖路加国際病院も、キリスト教伝道の過程で設けられた病院が前身である。また外国公館も多く、1875年にアメリカ合衆国公使館が設置され[1]、1890年に現在の赤坂に移転するまで続いた[2]。築地に置かれた公使館やキリスト教会の母国は9カ国に達し、最盛期には300人以上の外国人が暮らした。
英国人宣教師ヘンリー・フォールズが、日本人の拇印の習慣などから、世界でも先駆的な指紋の研究を始めたり、平野富二が活版印刷所を興したりするなど、近代文化・産業の発信地となった。築地居留地は1899年の治外法権撤廃で法的に廃止された。立ち並んでいた洋館も、1923年の関東大震災で全て失われた[3]。
横浜居留地
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諸外国と締結した修好条約では開港場は神奈川となっていたが、東海道筋の宿場町である神奈川宿では日本人との紛争が多発すると懸念した幕府は、勝手に街道筋から離れた辺鄙な横浜村に開港場を変更してしまった。オールコックら英米外交団は条約の規定と違うと強硬に抗議したが、幕府は横浜も神奈川の一部であると押し通した。
横浜港は、1859年7月4日に正式開港し、まず山下町を中心とする山下居留地が4年で完成した。横浜居留地は幕府が勝手に造成したため当初は日本風の造りであったが、1866年の大火“豚屋火事”の後、洋風に改められた。この復興工事は幕府から明治政府が引き継いだ。居留地は掘割で仕切られていて、入り口にある橋のたもとには関所が設置されていたので、関内居留地とも呼ばれる。その後、外国人人口がさらに増加したので、1867年には南側に山手居留地も増設された。山下居留地は主に外国商社が立ち並ぶ商業区域となり、山手居留地は外国人住宅地となった。現在観光コースになっている山手本通り沿いにある数棟の西洋館は、旧イギリス7番館(1922年)を除けば、すべて観光資源として昭和時代以降に建築されたものか他所から移築されたものである。
横浜居留地にあった外国商社としては、ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)、デント商会 (Dent & Co.)、サッスーン商会 (Sassoon & Co.)、ウォルシュ・ホール商会、コーンズ商会、アダムソン商会(現・ドッドウェルジャパン株式会社)などがあったほか、横浜初の英字新聞『Japan Herald』の印刷発行所(1867年倒産)などもあった[4][5][6]。
1859年7月時点で50名近くの外国人が居住したと言われ、イギリス人が最も多く、そのほとんどが新天地日本との貿易で一攫千金を狙う商人だった[4]。1863年には西洋人だけで約170人がおり、半数近くがイギリス人だった[4]。開港当時の様子を描写した著作のあるアーネスト・サトウは、オールコックと思われるある外交官が居留地の外国人社会を「ヨーロッパの掃きだめ」と称したと記し、商人と公的に派遣された役人との仲は悪かった[4]。横浜の外国人はイギリス次いでアメリカ、ドイツが多く、ドイツ系の商社にはアーレンス商会、イリス商会、シモン・エヴァース商会、カール・ローデ商社などがあり、ドイツから機械や軍事品、化学製品等を日本へ輸入していた[7]。
当時、外国人の行動範囲は、東は多摩川、北は八王子、西は酒匂川であった。1862年夏、川崎大師見物のため乗馬していた横浜居留地の英人男女4人が生麦村(現:横浜市鶴見区)で薩摩藩の大名行列に切りつけられる生麦事件が起こり、幕府を震撼させた。居留地周辺は、幕末には攘夷浪人も出没して外国人殺傷事件がしばしば起こる物騒な地域であった。居留民保護のため1875年までは英仏軍隊も駐留していた(英仏横浜駐屯軍)。
1872年には、イギリス人のエドモンド・モレルの指導により、新橋-横浜間に鉄道が開通した。当時の横浜停車場(後に桜木町駅となる)は居留地を出てすぐの所であり、新橋停車場(後に汐留貨物駅となる)は築地居留地の外縁にあった。つまり、日本最初の一般営業鉄道は、横浜居留地と築地居留地を繋ぐものだったのである。また下岡蓮杖が走らせた乗合馬車も同区間にあった。
横浜居留地は、1877年に日本側の行政権が完全に回復した。山下の居留地完成から14年後、山手の居留地増設から僅か10年後のことである。なお、返還自体は他都市と同様に1899年7月17日である。
川口居留地
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安政五カ国条約で江戸と同様に開港ではなく開市となっていた大坂だが、1867年5月16日(慶応3年4月13日)の「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」によって川口に外国人居留地が設置されることとなった。川口は大坂市街へ遡上する二大航路の安治川と木津川の分岐点。大阪居留地、大阪川口居留地とも呼ばれる。
1868年1月1日(慶応3年12月7日)に神戸港の開港と大坂の開市が実施された。鳥羽・伏見の戦いののち大久保利通が「大坂遷都論」を展開し、1868年4月15日(慶応4年3月23日)から5月28日(閏4月7日)まで明治天皇の大坂行幸(大坂親征)が実施された。明治天皇大坂行幸中の1868年5月3日(慶応4年4月11日)に江戸開城が成ると、大久保に対して前島密が「江戸遷都論」を展開し、「大坂遷都論」は立ち消えとなった。そして、江戸遷都の方針が固まると、経済の大坂偏重や皇都警戒といった大坂を開市に留めておく理由がなくなり、大坂の「開市」が「開港」に改められることとなり[8]、開市から8ヶ月後の1868年9月1日(慶応4年7月15日)に大阪港が開港した。
当時の大阪港であった安治川左岸の富島は、河港であったため大型船が入港できず、貿易商らは早々に神戸へ移転。代わってカトリック教会の宣教師らが定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として多くのミッションスクールを創設した。木津川対岸の江之子島は、明治・大正時代の大阪府および大阪市の行政の中心地であった。
神戸居留地
江戸幕府は、天皇の居住する京都に近い畿内は攘夷気分が強く情勢不穏であるとして、兵庫開港を延ばしに延ばしていた。このため、神戸港は条約締結から10年を経過した1868年1月1日に開港した。
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日本人と外国人の紛争を避けるため、開港場や外国人居留地は当時の兵庫市街地から3.5kmも東に離れた神戸村の南東部に造成された。東は生田川、西は鯉川、南は海岸、北は西国街道に囲まれた土地で、外国人を隔離するという幕府の目的に適う地勢であった。ここにイギリス人土木技師J.W.ハートが居留地の設計を行い、格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などを整備、126区画の敷地割りが行われたが、開港日までに造成・分譲が間に合わず、さらに同年2月4日に神戸事件が発生した。
同年3月30日に、造成が未完の居留地に先んじて、東は生田川、西は宇治川、南は海岸、北は山麓に囲まれた範囲(居留地を除く)が日本人との雑居を認める雑居地に設定された。雑居地の範囲は中宮・宇治野・花隈・走水・二ツ茶屋・神戸・生田宮・北野の8村にまたがる広大なものだった。
遅れに遅れた居留地の造成は同年8月14日に完工し、同年9月10日に36区画、、1869年6月1日に25区画、1870年5月16日に60区画、1873年2月7日に5区画の永代借地権の競売が行われた。全区画が外国人所有の治外法権の土地であり、日本人の立入が厳しく制限された事実上の租界である。この東洋における最も美しい居留地とされた整然たる区画街路は往時のまま現存する。神戸居留地では外国人の自治組織である居留地会議がよく機能し、独自の警察隊もあった。競馬場については、1868年に居留地の北の生田神社の東に開設されたものの数年で廃止されている。
ただし、神戸居留地に神戸在住の外国人全てを収容することは到底不可能で、居留地の拡張を阻止したい政府は、暫定措置だった雑居地の設定を解除せずそのままとした。雑居地には山手の高台が含まれており、浜手の多湿な居留地は「仕事場」と捉え、住居は山手に構える外国人が多かった。これは華僑も同様で、最初期にやや集住が見られた浜手の南京町は「仕事場」に変わり、住居は山手に構え、集住ではなく分散した。雑居地のうち最も外国人の邸宅が建てられたのが重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)である北野町山本通(北野異人館街)である。
日本人の立入が厳しく制限される居留地と異なり、雑居地では日本人の邸宅と欧米人や華僑など外国人の邸宅が混在することも珍しくなく、神戸の特徴のひとつでもある共生の文化は、居留地が狭く雑居地が広範囲に及んだことによるところが大きい。
長崎・横浜においては1870年代に日本側の行政権が回復していたが、神戸において日本側の行政権が回復したのは各地の外国人居留地が日本に一斉に返還された時と同じく、不平等条約改正後の1899年であった。
返還後の旧神戸居留地は、もとから領事館や商館が多く邸宅が少なかったこともありオフィス街に姿を変えた。第二次世界大戦中の1945年に神戸大空襲を受けた影響で、現在の神戸市役所西側一帯にあった居留地時代(1899年以前)の建物で残っているのは旧居留地十五番館(旧アメリカ合衆国領事館、国の重要文化財)が唯一で、多く残る近代ビル建築は主に大正時代のものである。
長崎居留地
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鎖国時代から貿易港として機能した長崎港は、1854年に国際開放された。この時は来航する外国船に薪水を供給する程度であったが、1859年に本格開放され、1860年から大浦一帯の海岸が埋め立てられて居留地が造成された。1870年完成。グラバー邸を中心とする東山手・南山手(重要伝統的建造物群保存地区)一帯である。
江戸時代から日本唯一の対外貿易港であった長崎の居留地には、当初、多数の外国人が押しかけて繁栄したが、明治になると長崎居留地はそれほど発達せず、むしろ普段は中国大陸の上海を中心とする租界に在住した欧米人の保養地として賑わうようになった。居留地の海岸に近い方には貿易のための商館や倉庫が建造され、中程にはホテル、銀行、病院、娯楽施設が並んだ。眺望がよい東山手や南山手には洋風住宅・領事館が建てられた。また、近隣に雲仙温泉を控えていたことも彼ら欧米人にとっての保養地としての魅力を増すこととなった。今日でもオランダ坂に代表される石畳の坂路や点在する洋館などに居留地時代の雰囲気を残す。
長崎市では毎年9月中旬に「居留地祭り」を開催している。
箱館と新潟
箱館は、1854年から米国船の寄航が認められ、1859年正式開港、元町一帯が居留地と定められた。1868年には幕府反乱軍が箱館を占領し、五稜郭で箱館戦争が起こっている。諸外国は中立を守った。箱館の居留地は、ほとんど有名無実で、実際には外国人は市街地に雑居した。現在も赤レンガの倉庫やカトリック教会、正教会の教会堂が残る。
日本海側の新潟港は、江戸時代に北前船の寄港地として発展し、1868年に対外開港した。外国人の来住が少ないため特に居留地は設置せず、市街に雑居することが認められた。
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- ^ 中央区教育委員会 2005, p. 8.
- ^ “米国大使館の歴史”. アメリカンセンターJAPAN. 2019年1月19日閲覧。
- ^ 【東京の記憶】築地外国人居留地/近代日本生んだ街/住民勉強会 歴史を継承『読売新聞』朝刊2017年4月17日(東京面)。
- ^ a b c d 重久篤太郎、「1860年代横浜のイギリス人」『英学史研究』 1976年 1977巻 9号 p.1-9, doi:10.5024/jeigakushi.1977.1, 日本英学史学会
- ^ 会社概要コーンズ テクノロジー株式会社
- ^ The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea, Indo-China, Straits Settlements, Malay States, Sian, Netherlands India, Borneo, the Philippines, &cHongkong daily Press office, 1865, p235 The Yokohama Directory
- ^ あるドイツ人が残した写真帳から横浜開港資料館『開港のひろば』第132号、2016(平成28)年4月15日
- ^ “「大阪港150年史-物流そして都市の交流拠点-」35頁”. 大阪港湾局 (2021年7月). 2024年1月3日閲覧。
- ^ 海野福寿著『明治の貿易--居留地貿易と商権回復』塙書房、1967年刊が先駆的研究である。
- ^ a b c d e f g "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013
- ^ 「大阪春秋」第53号
- ^ a b 居留地付き遊廓・外国人向け遊廓遊廓・遊所研究データベース
- ^ 「外国人居留地 日本の女子教育の夜明け/7地域の関係者が集い研究会」『朝日新聞』夕刊2018年12月12日(文化面)2018年12月18日閲覧。
- 1 外国人居留地とは
- 2 外国人居留地の概要
- 3 居留地貿易
- 4 居留地と華僑
- 5 参考文献
固有名詞の分類
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