外国人居留地 居留地貿易

外国人居留地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 00:27 UTC 版)

居留地貿易

函館・横浜・長崎開港後まもなく、「ゴールド・ラッシュ」と呼ばれる奇妙な現象がブームとなる。世界的に金銀の比価は1:15であったのに、日本では1:5であった。つまり日本ではが安く、が異常に高かったのである(これは、幕府によって日本の銀貨には一種の信用貨幣的な価値が付与されていたという事情もあった)。このため、中国の条約港で流通している銀貨を日本に持ち込んで金に両替し、再び中国に持ち帰り銀に両替するだけで、一攫千金濡れ手で粟の利益が得られた。商売を禁止されている外交官でさえこの取引を行ったとされる。事態に気付いた江戸幕府が通貨制度の改革に乗り出すころには大量の金が日本から流出し、江戸市中は猛烈なインフレーションに見舞われていた。

政治的緊張が続く幕末には、武器や軍艦が日本の主要輸入品となった。武器商人トーマス・グラバー長州藩薩摩藩を相手に武器取引を行ったのは長崎であった。明治になっても、近代化のために最新の兵器や機械の輸入は続く。これに対して日本が輸出できるのは日本茶(グリーンティー)や生糸くらいしかなかった。貿易赤字は金銀で決済するしかない。このため富国強兵を掲げる明治政府は殖産興業に力を入れ、富岡製糸場などを建設していくとともに、日本人が海外に出て直接取引を行う「直貿易」を指向していく[9]

居留地の文化

開港場の居留地は、長く鎖国下にあった日本にとって西洋文明のショーウィンドーとなり、文明開化の拠点であった。西洋風の街並み、ホテル、教会堂、洋館はハイカラな文化の象徴となる。この居留地を中心として横浜、神戸の新しい市街地が形成され、浜っ子、神戸っ子のハイカラ文化が生み出されることになる。

横浜居留地では、1862年から1887年まで25年にわたって『ジャパン・パンチ』が発行された。この雑誌は、『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』特派通信員として来日したチャールズ・ワーグマンが出版したもので、風刺漫画で有名である。ジャパン・パンチによれば、当時人口2千人ほどの居留地外国人の楽しみは根岸競馬場での競馬観戦であり、テニスラケットボールクリケット(英国人)、野球(米国人)も人気があった。多くのスポーツ競技も居留地から日本に伝わった。このほか、横浜・神戸・長崎では英字新聞も発行されている。また、日本の発達した軽業手品は居留地の外国人を驚かせ、人気を集めた。サーカスのパフォーマーだったアメリカ人のリズリー (Richard Risley Carlisle) は、日本での乳製品販売に失敗して帰国する際、日本の人気軽業師や手品師の一座を引き連れ、欧米で興行し大成功を収めた(アクロバットの項参照)。

居留地競馬

居留地競馬時代の横浜競馬場(1908年)

1861年から横浜居留地内で居留外国人によって西洋式の競馬が行われるようになり、1866年に根岸競馬場が建設された後は特に盛んとなった。また、1868年から数年間、神戸居留地でも同様の競馬が行われた。このような競馬を居留地競馬といい、採用された競技方式の面において現在の日本競馬のルーツであるとされる。

居留地における西洋人社会

居留地に暮らす西洋人は多岐に渡ったが、多くは商人で、そのほとんどが35歳以下の男性が占めていた[10]イギリスから派遣された役人たちにとっては、商人とは教育のない賤しい種族であり、東洋に来るような人間は母国で失敗した者たちであるという偏見があった[10]。また、欧米では被差別対象者であったユダヤ人も商人に多かった[10]ラザフォード・オールコック駐日英国大使は、居留地の商人たちのことを「ヨーロッパのクズ」と呼び、クリストファー・ホジソン英国領事は「欲深なハゲタカ」「世界各地からの破廉恥の見本」と呼んだ[10]。実際、文盲や教育程度の低い商人も多く、こうした偏見は居留地の西洋人社会に広がっていた[10]。階層や出身国などで小さなコミュニティがいくつも作られ、粗野な商人や新参者を除外するため、厳格な社交の作法や手順を設けて部外者を締め出した[10]。同じ商人でも、事務所を構えるような商人と商店の商人とは線引きされ、観劇のような楽しみの場でも、役人や牧師、老舗の商人といったエリートたちが集まる日と、その他一般人の日は分けられていた[10]


  1. ^ 中央区教育委員会 2005, p. 8.
  2. ^ 米国大使館の歴史”. アメリカンセンターJAPAN. 2019年1月19日閲覧。
  3. ^ 【東京の記憶】築地外国人居留地/近代日本生んだ街/住民勉強会 歴史を継承『読売新聞』朝刊2017年4月17日(東京面)。
  4. ^ a b c d 重久篤太郎、「1860年代横浜のイギリス人」『英学史研究』 1976年 1977巻 9号 p.1-9, doi:10.5024/jeigakushi.1977.1, 日本英学史学会
  5. ^ 会社概要コーンズ テクノロジー株式会社
  6. ^ The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea, Indo-China, Straits Settlements, Malay States, Sian, Netherlands India, Borneo, the Philippines, &cHongkong daily Press office, 1865, p235 The Yokohama Directory
  7. ^ あるドイツ人が残した写真帳から横浜開港資料館『開港のひろば』第132号、2016(平成28)年4月15日
  8. ^ 「大阪港150年史-物流そして都市の交流拠点-」35頁”. 大阪港湾局 (2021年7月). 2024年1月3日閲覧。
  9. ^ 海野福寿著『明治の貿易--居留地貿易と商権回復』塙書房、1967年刊が先駆的研究である。
  10. ^ a b c d e f g "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013
  11. ^ 「大阪春秋」第53号
  12. ^ a b 居留地付き遊廓・外国人向け遊廓遊廓・遊所研究データベース
  13. ^ 「外国人居留地 日本の女子教育の夜明け/7地域の関係者が集い研究会」『朝日新聞』夕刊2018年12月12日(文化面)2018年12月18日閲覧。


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