外国人居留地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 00:27 UTC 版)
居留地と華僑
横浜、神戸、長崎では居留地の中(神戸は隣接地)に中華街が形成され、日本三大中華街(横浜中華街、神戸の南京町、長崎新地中華街)に発展した。これは、当初来日する外国商人は中国の開港場から来る者が多く、日本は漢字が通用するので中国人買弁が通訳として同行してきたためである。その後日本と中国各地の開港場に定期船航路が開けると、中国人商人(華僑)が独自に進出してきた。
中国人もオランダ人同様、長崎唐人屋敷で長年日本貿易を行ってきた歴史がある。神戸に進出した華僑は富裕な貿易商が多く、彼らは北野町とその西に居を構えた。これが神戸の関帝廟が例外的に中華街から離れた山手の住宅地に存在する理由である。
大阪の川口居留地周辺には、居留地廃止後に華僑が進出したが、現在は数世帯の子孫を残すのみとなっている[11]。
横浜に進出した華僑は、その大半が飲食業を営んだために、中華街の面積が大きくなった。
治安
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その他
- 例外としてお雇い外国人などは居留地外に居住することもできた。
- 同時期に中国各地の開港場に設置された租界と基本的には同じであり、日本では1920年代ごろまで中国における租界も一般的に「居留地」と呼んでいた。
- 外国人男性と市井の日本人女性との接触を回避したい幕府は、外国人居留者側からの要望もあり、各居留地に遊郭を作った。居留地付き遊廓としては、すでに外国人遊郭となっていた丸山遊郭・寄合町遊廓のほかに、横浜(港崎遊廓)、箱館、江戸(東京、新嶋原遊廓)、大坂(大阪、松嶋遊廓)、兵庫(神戸、福原遊廓)などが新設された[12]。このほか、長崎稲佐山にはロシア人向けの遊廓、横須賀にはフランス海軍の要請により大瀧遊廓が開設された[12]。
- 居留地があった7地域の関係者による「外国人居留地研究会全国大会」が現代において開催されている[13]。
- ^ 中央区教育委員会 2005, p. 8.
- ^ “米国大使館の歴史”. アメリカンセンターJAPAN. 2019年1月19日閲覧。
- ^ 【東京の記憶】築地外国人居留地/近代日本生んだ街/住民勉強会 歴史を継承『読売新聞』朝刊2017年4月17日(東京面)。
- ^ a b c d 重久篤太郎、「1860年代横浜のイギリス人」『英学史研究』 1976年 1977巻 9号 p.1-9, doi:10.5024/jeigakushi.1977.1, 日本英学史学会
- ^ 会社概要コーンズ テクノロジー株式会社
- ^ The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea, Indo-China, Straits Settlements, Malay States, Sian, Netherlands India, Borneo, the Philippines, &cHongkong daily Press office, 1865, p235 The Yokohama Directory
- ^ あるドイツ人が残した写真帳から横浜開港資料館『開港のひろば』第132号、2016(平成28)年4月15日
- ^ “「大阪港150年史-物流そして都市の交流拠点-」35頁”. 大阪港湾局 (2021年7月). 2024年1月3日閲覧。
- ^ 海野福寿著『明治の貿易--居留地貿易と商権回復』塙書房、1967年刊が先駆的研究である。
- ^ a b c d e f g "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013
- ^ 「大阪春秋」第53号
- ^ a b 居留地付き遊廓・外国人向け遊廓遊廓・遊所研究データベース
- ^ 「外国人居留地 日本の女子教育の夜明け/7地域の関係者が集い研究会」『朝日新聞』夕刊2018年12月12日(文化面)2018年12月18日閲覧。
固有名詞の分類
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