クイーン (バンド)
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メンバー
メンバー全員がギター・キーボード(ピアノ・シンセサイザー・オルガン等)を演奏できるため、この表に当てはまらない場合も多い。詳細は、各メンバーの項目を参照のこと。
メンバー
名前 | 生年月日・出身地 | 担当 | 活動期間 |
---|---|---|---|
ブライアン・メイ (英語: Brian May) |
1947年7月19日(76歳) イングランド・ミドルセックス ハンプトン |
ギター | 1970年 - |
ロジャー・テイラー (英語: Roger Taylor) |
1949年7月26日(74歳) イングランド・ノーフォーク キングズ・リン |
ドラムス |
旧メンバー
名前 | 生年月日・出身地 | 担当 | 活動期間 |
---|---|---|---|
フレディ・マーキュリー (英語: Freddie Mercury) |
1946年9月5日 - 1991年11月24日(45歳没) ザンジバル保護国・ザンジバルシティ ストーン・タウン |
ボーカル キーボード |
1970年 - 1991年[注釈 1] |
ジョン・ディーコン (英語: John Deacon) |
1951年8月19日(72歳) イングランド・レスターシャー オードビー |
ベース | 1971年 - 1997年[注釈 2] |
音楽性
クイーンは、音楽的嗜好の異なるメンバー全員が作曲に参加するため、プログレッシブ・ロック、アート・ロック、グラムロック、アリーナ・ロックなど、その作風は幅広い。しかしながら、多くの曲に共通して見られる特徴がある。
そのひとつとして、エレクトリック・ギターの音を多重録音することによって作られるギター・オーケストレーションが挙げられる。これを生み出すメイの手製ギター「レッド・スペシャル」は、机のオークや暖炉のマホガニーを素材にメイの父親と共に製作されたもので[11][12]、当時ではまだ珍しかった位相で音を変えるフェイズスイッチ、ローラーブリッジなどの斬新なアイデアが盛り込まれた。シンセサイザーを用いずにギター・オーケストレーションで重厚なサウンドを生み出していることを明示するため、初期の作品には「ノー・シンセサイザー(No Synthesizer)」というクレジットがなされていた。
マーキュリー、メイ、テイラーの3人が、声を何重にも重ねることによって作られるハーモニーも、『オペラ座の夜』や『華麗なるレース』などで見られるクイーンの音楽的特徴とされている。「ボヘミアン・ラプソディ」でのオペラ風コーラスの録音では、180回ものボーカルの多重録音を行った、とメイが語っている[13]。
現役時代の来歴
デビューまで
クイーンの母体となったのは、ブライアン・メイとロジャー・テイラーが在籍していたバンド「スマイル」であった。1969年9月、シングル「Earth」をリリースするも、まったく成功せず[14]、ボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退[15]。その後任として加入したのが、スタッフェルの同級生であり、バンドとも知り合いだったフレディ・マーキュリーであった[16]。
1970年7月12日に開催されたライブから、クイーンと名乗り始める。1971年2月には、入れ替わりを繰り返していたベーシストが、オーディションでジョン・ディーコンに固定(正式加入したのは1971年3月1日)[17]。公式サイトでは、4人が揃った1971年を正式なバンド結成の年としている[18]。
初期(1973年 - 1976年)
1973年7月13日、アルバム『戦慄の王女』で本国デビュー。リリース1週間前の7月6日には、先行シングル「炎のロックンロール」がリリースされた(日本でのリリースは1974年)。
本楽曲のリリース当初、母国・イギリスでは「ロックなのに曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い」「ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、イエス[注釈 3]の亜流」などとメディアから酷評され、「遅れてきたグラムロックバンド」と見られることもあった。また、彼らは、本楽曲制作からリリースまでに2年近くももたつき、レコード契約から1年以上待機させられたため、「リリース時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」と、後にマーキュリーが回想している。
1974年3月8日、2ndアルバム『クイーンII』をリリース。イギリスのメディアの評価はいっこうに変わらなかったが、シングル「輝ける7つの海」のヒットもあり、アルバムは全英5位を記録[19]。本アルバムをきっかけに、本格的なブレイクにつながるようになる。
同年11月8日には、3rdアルバム『シアー・ハート・アタック』をリリース。先行シングル「キラー・クイーン」が全英2位[19]・全米12位のヒットとなり[20]、後にマーキュリーは、作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。また同年、ディープ・パープル、モット・ザ・フープルの前座として、バンド初の全米ツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまい、ツアーの途中降板を余儀なくされる。
1975年2月、カンサス、スティクスらの前座として、再び全米ツアーを開始する。ツアーは各地で大盛況を得たが、ツアーの途中に、今度はマーキュリーが喉を痛めてしまう。マーキュリーはしばらく安静状態を強いられたが、その後回復し、ツアーを無事終了させる。
同年4月17日、初来日を果たす。この頃、既に日本では若い女性を中心に人気を集めており、空港には約1200人のファンが押し寄せ、日本武道館で開催されたライブは成功を収めた[21]。
10月31日、4thアルバム『オペラ座の夜』からの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が、全英9週連続1位の大ヒットを記録[19]。当初、「6分を超える長い曲などラジオで流してくれない」と、レコード会社側は曲のカットを指示したが、マーキュリーとテイラーに意見を求められたラジオDJのケニー・エヴェレットは本楽曲を気に入り、自身のラジオ番組では、2日間で14回も流された。本楽曲は、チャリティーソングでない楽曲としては、イギリス史上最高の売り上げを記録し、マーキュリーは本楽曲のヒットにより、2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。本アルバムは、バンド初の全英1位を獲得し、クイーンに批判的だったメディアからも、非常に高い評価を得た[22]。
1976年、軌道に乗ったクイーンは、アメリカ・日本・オーストラリアなどで次々とツアーを開催する。
同年12月18日、5thアルバム『華麗なるレース』をリリース。初のセルフプロデュース作となる本アルバムは、これまで以上に重厚なサウンドになっているものの、基本的には、前作『オペラ座の夜』の路線をさらに推し進めた作風となっている[23]。先行シングルとしてリリースされ、全英2位・全米13位のヒットとなった「愛にすべてを」や「懐かしのラヴァー・ボーイ」のほかに、クイーン流ハードロックの名曲として、ファンの間で名高い「タイ・ユア・マザー・ダウン」や、歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」が収録され、イギリスや日本で1位を獲得するヒット作となった。
中期(1977年 - 1981年)
1977年10月28日、再びセルフプロデュースで臨んだ6thアルバム『世界に捧ぐ』をリリース。パンク・ロックが流行しつつあった当時の音楽シーンの流れを汲んだ本アルバムは、音楽的にはシンプルな方向へ向かい、トレードマークの一つであったコーラスパートの全くない楽曲(「永遠の翼」など)も収録された。日本とイギリスでは4位止まりだったが、「伝説のチャンピオン」や「ウィ・ウィル・ロック・ユー」がヒットしたアメリカでは、これまでの最高位である3位を記録。また、ヨーロッパの中で唯一クイーンが苦手としていたフランスでは、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が12週連続1位となり、13週目には「伝説のチャンピオン」が1位となった。
1978年、ヨーロッパ9ヶ国でツアーを開催。6年目にして初のフランスでのコンサートも開催し、成功を収めた。
同年11月10日、7thアルバム『ジャズ』をリリース。再びプロデューサーにロイ・トーマス・ベイカーを迎え、バラエティに富んだサウンドと楽曲を展開している。「バイシクル・レース」のプロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとビデオは物議を醸し、その影響もあり、本アルバムのリリース直後には、マスコミの批判に晒されたが、全英2位・全米6位の大ヒットとなった[24]。また同年、カナダを皮切りに、北米ツアーを開催。マーキュリーは、ステージに上半身ヌード姿で自転車に乗って登場した。
1979年には、ヨーロッパツアーを開催。東西冷戦状態であったユーゴスラビアもツアーのプログラムに入っていたことで、話題を呼んだ。また、マーキュリーがバレエ好きであったことから、国立バレエ団の知的障害者への義援金チャリティー特別公演に出演し、マーキュリー自身もバレエを踊った。カンボジア救済チャリティコンサートにも出演し、初日に単独コンサートを開催。さらに、マーキュリー作の「愛という名の欲望」が、バンド初となる全米1位を獲得するなど、アメリカをはじめ、世界で好成績を収め、ライブ・アルバム『ライヴ・キラーズ』で、1970年代を締めくくった。
1980年6月30日、8thアルバム『ザ・ゲーム』をリリース。全英・全米ともに1位を記録した。エルヴィス・プレスリーを彷彿とさせるロカビリー風の「愛という名の欲望」が、アメリカを中心に大ヒットした。また、ディーコン作の「地獄へ道づれ」は、全米1位を記録し、バンド最大のヒット曲となった。もともとマイケル・ジャクソンのために書かれた本楽曲は、彼の前作『オフ・ザ・ウォール』を意識したソウルやファンクの曲となっており、アメリカのブラックミュージックのチャートでも、上位にランクインしている。
また、本アルバムから、これまで頑なに使用を拒んできたシンセサイザーが導入された[25]。これは、本アルバム制作途中に映画『フラッシュ・ゴードン』のサウンドトラックの録音が挟まったことが大きな要因となっている。
1981年、初の南米進出を果たす。最初のブエノスアイレスでのライブをはじめ、サンパウロではたった2日で観客動員数の記録を更新するなど、各地で大成功を収めた。
同年10月、南米でのツアーを終えたメンバーはデヴィッド・ボウイとの共作「アンダー・プレッシャー」をリリース。イギリスやアルゼンチンで1位を獲得するなど、世界的にヒットした[26]。なお、ボウイとはスイスでのレコーディング中に親交を深めていたという。
さらに11月2日、初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』をリリース。クイーンのキャリア前期を総括する本アルバムは現在、イギリス史上最も売れたアルバムとなっている。
後期(1982年 - 1987年)
1982年5月21日、10thアルバム『ホット・スペース』をリリース。「地獄へ道づれ」の成功を受け、マーキュリーとディーコンを中心にファンク、ダンス・ミュージックの要素を徹底的に突き詰めた内容となった。しかし、この大きな方向転換は、ファンや評論家から強い反発を受け、従来のアルバムに比べて、売上は振るわなかった。
1983年、バンドの活動を休止し、各自ソロ活動に専念した。
1984年、11thアルバム『ザ・ワークス』で復活を果たす。本アルバムでは、作風の軌道修正を図り、ファンが待ち望んでいたような楽曲が集まった作品に仕上がった。この頃になると、アメリカや日本での人気は落ち着く一方で、テイラー作の「RADIO GA GA」が、19ヶ国で1位を獲得するなど、大ヒットを記録し、また、ディーコン作の「ブレイク・フリー」が、南米などで「自由へのシンボルとしての曲」と位置づけられるなど、ヨーロッパ圏だけではなく、南米やアフリカといった地域でも人気を集めるようになっていった。
1985年1月、リオデジャネイロにて「第1回ロック・イン・リオ」が開催された。クイーンの出演した2日間は世界60カ国で中継され、約2億人が視聴したとも言われており、観客動員数60万人という驚異的な記録を打ち立てた。しかし、この頃から、各メンバーがソロ活動に勤しんだこともあり、メンバー間の距離が開きはじめ、次第に仲も険悪になっていく。
1985年7月13日、20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」に出演。出演アーティストの中で最多となる6曲を披露し、そのパフォーマンスは観客を圧倒した。あまりの質の高さに、ロンドン会場のヘッドライナーを務めたエルトン・ジョンが、舞台裏で悔しさを顕にし地団駄を踏んだとされる[27]。本コンサートの反響は絶大で、世界各国でクイーンのアルバムがチャートを急上昇した。
この思わぬ反響を受け、新曲のレコーディングを開始し、11月4日、シングル「ワン・ヴィジョン」をリリース。メディアは、こぞって「ライヴエイドの便乗商売だ」と批判したが、イギリスでは、チャート最高位2位と、好成績を残した。「ライヴエイドへの出演がなければ、そのまま本当に解散していたかもしれない」と、後にメンバーも振り返っている。
1986年6月2日、12thアルバム『カインド・オブ・マジック』をリリース。イギリスを中心に、世界中で大ヒットを記録した。本アルバム発表後には、「マジック・ツアー」を開催し、ヨーロッパ諸国の全26公演で200万人以上の観客を動員した。中でもウェンブリー・スタジアムにて開催されたコンサートは、2日間で15万人の観客動員を記録し、8月9日には、イギリスのネブワース・パーク公演が、観客30万人を記録、ツアーは大成功を収めた。しかし、マーキュリーの体調の悪化に伴い、バンドの4人が揃ってツアーを行ったのは、これが最後となった。
末期(1987年 - 1991年)
「マジック・ツアー」の成功以来、再びメンバーは、ソロ活動に専念しはじめた。この頃は、ライブ後のパーティーにて、レズビアン・ショーや、約10人のダンサーによるストリップ・ショーがしきりに行われ、マーキュリーの誕生パーティーでは、総額20万ポンド(当時約8千万円)が浪費されたという[28]。
1988年1月には、スタジオに再集結し、アルバム制作を開始。1989年5月22日、13thアルバム『ザ・ミラクル』をリリース。先行シングル「アイ・ウォント・イット・オール」共々、イギリスやヨーロッパ各国で大ヒットを記録し、人気が健在であることを証明した。しかし、ツアーの開催について、マーキュリーはあっさり否定した。以前からマーキュリーには、「エイズに感染しているのではないか」との噂が飛び交っていたが、当時、本人はこれを否定し続けていた。実際には、マーキュリーがエイズに感染していることは1987年頃に判明したといわれているが、その真相は長年ベールに包まれていた。
1991年1月30日、14thアルバム『イニュエンドウ』をリリース。音楽的には、やや原点回帰志向がみられ、ブリティッシュ・ロックバンドとしての自覚が垣間見える作品となった。全英1位を獲得した表題曲「イニュエンドウ」では、イエスのスティーヴ・ハウが参加し、間奏部分でフラメンコギターのソロを披露した。バンドのスタジオ・アルバムで、メンバー以外の人物がギターを演奏したのはこれが最初で最後である。続く「ショウ・マスト・ゴー・オン」も、全仏2位と大健闘した。しかし、この頃すでに、マーキュリーの体は病魔に侵されていたという。また、本アルバム収録の「輝ける日々」は、マーキュリーの生前最後のミュージックビデオ出演となり、マーキュリーが見る影もなくやせ衰えていることがわかる。
同年11月23日、マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて以下の声明文を発表している。
私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい。
そして翌日11月24日、フレディ・マーキュリーは、HIVによる免疫不全が原因で引き起こされたニューモシスチス肺炎により、45歳という若さで死去した。亡くなった1991年は、奇しくもクイーン結成20年目だった。葬儀会場は、世界中から駆けつけたファンの花束で埋め尽くされた。マーキュリーの死後、バンドのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは「ボヘミアン・ラプソディ」が、イギリス史上初となる同一曲での2度目の1位という記録を打ち立てた。また、マーキュリーの遺言により、初登場1位を獲得した作品の収益金は、すべてエイズ基金に寄付された。
1992年、バルセロナオリンピックの開会式で、オペラ歌手のモンセラート・カバリェとマーキュリーがデュエットする予定だったが、マーキュリーの急死により、ホセ・カレーラスが代役を務めた。
注釈
出典
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