ふじわら‐の‐ひでひら〔ふぢはら‐〕【藤原秀衡】
藤原秀衡
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藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍、陸奥守。藤原基衡の嫡男。奥州藤原氏最盛期時の当主。
注釈
- ^ 没年齢については享年66説があるが、これは『源平盛衰記』や『結城系図』に記されていたもので、特に『源平盛衰記』は軍記物語で小説的な要素が強いため、容易く信頼できない。また、当時を窺い知るうえでの一級史料といえる『吾妻鏡』や『玉葉』にも秀衡の没年齢についての記載は無い。他の史料を見ると、『平泉実記』では享年73、『平泉志』や『平泉雑記』では享年80や享年92と記されており、ばらつきがあって一致せず、諸説あってはっきりしていないというのが現状である。加えて、これらは後世の著作であることから『源平盛衰記』や『結城系図』と同じく一級史料ではなく、信憑性に欠けていると言わざるを得ない。故に秀衡の没年齢と生年を確定することは困難となっている。ただし、『平泉志』や『平泉雑記』に記されている享年80説や享年92説に関しては、遺体の状態から60 - 70歳、もしくは70歳前後で死亡したとされていることやこれらの説を採ってしまうと秀衡の生年が享年80説では嘉承3年、天仁元年(1108年)、享年92説では嘉保3年、永長元年(1096年)となってしまい、1100年前後の生まれと目されている父・基衡との親子関係が成立しなくなるため、否定・除外できるとされる。また、63歳~64歳で没したという推測もあり、この場合、生年は保安5年、天治元年(1124年)~天治2年(1125年)となる。なお、津軽為信を輩出した津軽氏は秀衡の弟・十三秀栄の末裔を自称(現在では仮冒とされる)したことを『可足筆記』にまとめている。この中で秀衡の生年は嘉保2年(1095年)と記述してある。この場合、享年93となるが、津軽氏自身が秀栄の末裔と仮冒したとの説が有力であることからして信頼できない。
- ^ 秀衡の通称が次郎で秀衡の次男泰衡の通称が次郎の次男という意味合いがある小次郎であることから、秀衡には兄がいたとの推測がある。
- ^ 一説に弟とされ、従兄弟とも。
- ^ 基衡の娘で秀衡の姉妹、または清衡の娘で秀衡のおばという説がある。実際には清原真衡の娘で清衡の養女(つまり、秀衡の義理のおば)とも、基衡の養女との説もある。
- ^ 『又玉海の記に、秀衡の娘を頼朝に娶はすべく互に約諾を成せりとあれど、秀衡系圖には娘なし、何等の誤りにや、否や、後の批判を待つ』という記録があり[1]、訳せば、源頼朝と秀衡の娘を娶わせる約束が成されたとあるが系図に娘が記されていない、となる。
- ^ 大河ドラマ『炎立つ』では、秀衡がその対応に悩み、出家する(第3部第10話)。
- ^ 当時86歳だった山村聡のテレビドラマにおける遺作。※「山村總」と誤表記されている。
出典
- ^ a b 『平泉志』
- ^ 『史料総覧』3編903冊497頁。
- ^ 『史料総覧』3編903冊497頁。「玉葉」五月廿七日条。
- ^ 『史料総覧』3編903冊652頁。「玉葉」
- ^ 『史料総覧』3編903冊657頁。「玉葉」八月十五日条。
- ^ 野口実『治承〜文治の内乱と鎌倉幕府の成立』(清文堂出版、2014年)
- ^ 『大日本史料』4編1冊298頁。「吾妻鏡」四月廿四日条。
- ^ 『大日本史料』4編1冊850頁。「吾妻鏡」
- ^ 『玉葉』文治3年9月29日条
- ^ 『大日本史料』4編2冊87頁。「吾妻鏡」十月廿九日条。「玉葉」文治四年正月九日条。
- ^ 『玉葉』文治四年正月九日条
- ^ 古畑種基『血液型の話』〈岩波新書〉、1962年、147-148頁。
- ^ 川島茂裕「藤原基衡と秀衡の妻たち」『歴史』101号、東北史学会、2003年。
- ^ 川合康「中世武士の移動の諸相」メトロポリタン史学会編『歴史のなかの移動とネットワーク』桜井書店、2007年。/所収:川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、39-42頁。
- ^ 『真岡市史案内』第4号中村城 (真岡市教育委員会発行) 栃木県立図書館蔵書
- ^ 『伊達氏と中村八幡宮』中村八幡宮、1989年。
- ^ 山崎純醒 編『源義経周辺系図解説』批評社、2016年、42頁。
藤原秀衡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 16:39 UTC 版)
奥州藤原氏の当主。奥州の王ともいうべき存在で、泉のように湧き出る黄金と肥沃な牧草地で産出される駿馬によって豪富を築き、自らの都である平泉を京にも負けぬ殷賑の府として繁栄させている。英邁な才覚を寛仁大度な人柄が包み、潮が満ちあふれるような包容力を湛える君子人。が、奥州人の通弊で中央に対して過剰なほどの劣等意識を持ち、「奥の俘囚」・「東夷の遠酋」という蔑称を拭い去ろうと朝廷に莫大な献金を重ねて官位を買い、藤原氏の支流の末裔という僭称にも黙許を得ている。
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藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)
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「うらたろう」の記事における「藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)」の解説
鎮守府将軍陸奥守(ちんじゅふしょうぐんむつのかみ)。奥州平泉の統治者で千代を監視していた。金熊童子との契約で「触れた物を金にする能力」をもち、多くの少女を金細工にして蒐集していた。大陸の魔術である跳屍送尸術を使い、キョンシーを操って逃げた千代を捕えようとする。千代を取り逃した事を安徳天皇に見抜かれると攻撃しようとするが、教経に首を刎ね飛ばされた。
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藤原秀衡(ふじわらのひでひら)
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「リョウ」の記事における「藤原秀衡(ふじわらのひでひら)」の解説
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藤原秀衡
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「大水滸シリーズの登場人物」の記事における「藤原秀衡」の解説
基衡の嫡男。基衡より気力にあふれると評されている。交易への指向は強く、梁山泊から航海術を学ぶ。
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藤原秀衡
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