神道
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/08/20 13:32 UTC 版)
| 神道 | |
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| 国・地域 | |
| 信者数 | 8337万1429人[1] |
| 成立年 | 諸説あり |
| 創始者 | なし[注 1] |
| 信仰対象 | 神・仏など |
| 母体 | 律令祭祀制・自然信仰・祖先信仰など |
| 宗派 | 下記神道諸派参照 |
| 主な指導者 | 神職 |
| 聖地 | 神社などの祭祀施設・山、岩、川などの自然物など |
神道(しんとう、しんどう[2])は、現代の日本では主に、「日本の伝統的な神祭り」や「日本の民族宗教」の総称と理解されている[3][4]。日本の民族信仰や[5][6][7]、仏教や儒教といった日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた外来の宗教・思想に対して、それらが伝わる前から日本にあった日本土着の神観念に基づく宗教的実践・宗教的態度をあらわす言葉として用いられ、それを支える生活習慣や習俗、道徳、倫理まで含めることもある[8][9][2]。ただし、現代的な意味での「神道」の定義は一様でなく、また歴史的に見ても「神道」の意味は一様でない[10]。神道は、早くて7世紀後半・8世紀 天武天皇・持統天皇朝の律令祭祀制において、遅くても15世紀に成立したと考えられている[11]。
概要
「神道」という概念は非常につかみどころがなく、漠然としており、起源の定説もなく、創始者もおらず、「神道」と称されるものの歴史的見解を辿ってみても一貫した姿は把握できない[12][13][注 2]。
神道研究者の岡田荘司は「神道とは何かと問われれば、その具体的な姿は神社の中に備わっているといえよう。」「神道の信仰を最も具体的に表示した場が神社である。」と述べている[15][16]。神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社である[17]。神社とは常設の神殿を持つ宗教施設・祭祀施設であり、常時そこに神(祭神)が鎮座し、これを信仰の対象とし諸々の祭礼・儀礼を執行するものである[18][注 3]。神道研究者の井上寛司は、常設の神殿を持つ神社とは「7世紀後半の律令制の成立にともなって、中央政府の命にもとづいて全国的な規模で創出された、官社と呼ばれる常設神殿を持った新たな宗教施設」であると述べ、神社の成立を天武天皇朝以前に遡ることはできないことを指摘している[19][20]。神社は律令期以降に続々と創建されたと推定されている[16]。
学術的に見て「神道」とは祭祀体系を伴うものであり、縄文時代、弥生時代、古墳時代といった祭祀体系成立以前は「神道」の成立には至っていないとする見解が主流である[21]。
神道の成立期の定説はないが、主要な学説(2021年時点)が4つある[注 4]。4つの説には800年の隔たりがあり、それは神道の把握の違いに起因するため、この主要4説について述べる[11]。4つの成立期論とその神道認識は次の通りである。
- 律令国家体制を確立させた天武天皇・持統天皇の時代に太政官・神祇官の二官体制のもとで律令官社制度が完成し、「神祇令」が制定され、国家的祭祀体系とその体系が整備・確立されたことをもって「神道」の成立とする説[23][24]。大嘗祭・伊勢神宮の式年遷宮もこの時代に開始されており、『日本書紀』にも「神道」という用語が見られる(ただしこれ以降、「神道」の語は中世(第3節の時期)までほぼ使われていない[10])。
- 第2説:「8・9世紀、平安時代初期成立説。提唱者は高取正男。」
- 奈良時代から平安時代初期に、仏教勢力とは距離を置き神と仏を隔てようとする「神仏隔離」が行なわれたと考える歴史学者の高取正男が唱えた説[23][24]。朝廷における禁忌意識・神仏隔離の成立に着目して「神道」の自覚過程を提示し、地域社会に根ざした「神道」の台頭に着目した[23]。この時代は平安祭祀制の確立期で、律令祭祀制からの転換が見られる[23]。
- 第3説:「11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。」
- 中世史の研究者黒田俊雄が唱えた「顕密体制」の成立期を「神道」の成立期とする説で、この時期は神道思想の形成期に当たる[25]。平安時代中期以降、院政期に朝廷で二十二社奉幣の制度が固まり、その後諸国一宮制が成立、中世的天皇神話や神国意識が地域社会にへ広まっていった時期に「神道」が成立したとみなす[25]。院政期以降、神の世界が様々に言語化され語られるようになり、注釈・秘説が多く展開し、こうして形成された中世の神道説が広まる中で「神道」という用語が多用されるようになった[25]。
- 「顕密体制」が解体されていく中で顕密仏教に含有されていた神祇が自立し、15世紀に吉田兼倶が吉田神道を作った[25]。「顕密体制」の終焉と共に初めて「神道」が成立したとする説であり、近代的宗教概念から「神道」理解・固定化を試みるもので、「宗教」としての確立をもって「神道」の成立としている[25]。
岡田荘司は『日本神道史』(2021年)で、「神社の信仰体系は、古代以来の神社と祭祀とに備わって」おり、「第一説の古代律令神祇体系の中に、神道的要素を抽出するこは可能」として、成立期の基本を律令祭祀制に置き、本書で神社と祭祀に焦点を置いて日本神道史を展開している[26]。岡田荘司は第1説について、「大方の了解を得られる得られる妥当性な学説と考える」と述べている[23]。ただし、律令国家制度のもとで神祇祭祀(神道祭祀)において強固な宗教統制・支配が進められたわけではない[注 5]。第1説を支持する場合も、第2 - 4説は神道史上の転換点といえる。神道思想を重視する立場からは第3説以降が有力な説である[26]。第3説・第4説は「神道」の語義解釈を重視し意味を限定し、「神道」の成立を遅らせており、これは近年の神道研究の傾向である[26][27]。日本古代史・日本仏教史研究者の吉田一彦はシリーズ「日本宗教史を問い直す(全6巻)」(2020年)の総論で、「〈日本古来の神道〉といった言い方があるが、しかし実際には日本の神信仰がその多様性を一つの形にまとめて一定の体系性を形成していくのは平安時代のことと見るべき」として第1説に疑念を示し、「さらにこの宗教を『神道』なる語を持って呼ぶのがふさわしくのなるのは室町時代以降のこととすべきである。吉田兼倶による『吉田神道』の成立はその画期となるものとして重要である。吉田神道は、その後戦国時代、江戸時代を通じて日本の神道界の中心勢力として活動していった。」と述べている[28]。
岡田荘司は「神社と神道を奉じた地域社会の営み」が日本国家の形成に影響を与え、日本の歴史に大きな影響を与えてきたことを指摘している[29]。
伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した[30][31]。現代の神社神道の元締めである民間の宗教法人 神社本庁は、神道は日本人が昔から農耕や漁労など自然と交わり生活を営む中から生まれた信仰と主張している[32]。
[浄明正直 (じょうみょうせいちょく)(浄く明るく正しく直く)を徳目とする[33]。
神道は仏教が大陸から伝来したのち、それまで日本国独自の習慣や信仰が御祖神(みおやがみ)の御心に従う「かむながらの道(神道)」として意識されるようになった[34][35]。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられおり、『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる[36]。
現代の神社本庁の教えでは、神道は仏教や儒教・道教などとも習合し日本文化に大きな影響を及ぼしたが、日本国独自の神観念は変わらず、現在まで脈々と受け継がれているということになっている[37]。
神道は奈良時代(710年 – 794年)以降の長い間、仏教信仰と混淆してきた(神仏習合)。日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って一つの宗教となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性が維持されている[38]。宮中祭祀や伊勢神宮の祭祀では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されながら並存していた[39]。明治時代には神道国教化を実現するために、神仏分離が行われた[40]。
八百万の神々を信仰対象とする神道は、すべてのものが精神的な性質(人格があるか、擬人化された霊魂等)を持つと信じるアニミズムの特徴を保持してきたと考えられている[41][42]。
神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に人々の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[30]。
日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)に記載があるが[43]、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無宗教を自称するという多くの調査結果とは矛盾する[44]。
「神道」の意味
日本における「神道」の初出は720年(養老4年)成立の『日本書紀』であり、当時の中国で使われていた成語からの借用である[10]。
「神道」は中国で古くから使われた言葉で、「自然の理法」「霊妙なる理法」を意味し、これが道教や仏教の教典に取り入れられ、道教・仏教が自らの教えを「神道」と呼ぶ例もみられた[10]。また、より一般的には神祇・神霊(神々)や、その祭祀・呪法を意味した[10][45]。
『日本書紀』でどのような意味で使われたかは諸説あり、中国の「神道」すなわち道教などの影響を受けた信仰だったことを示すとする説や、単に神祭りや神祇(神)を意味する普通名詞として用いたとする説、日本固有の神への信仰を外来の仏教と対比するために用いたとする見方もある[46]。ただし『日本書紀』以降、中世まで「神道」の用例はほとんどみられない[10]。
古代・中世には、一般的には「神の権威・力・はたらきや神そのもの」を意味し、今日のように、日本の神信仰やそれにまつわる言説・教説を「神道」と呼ぶことは、中世または近世に生じた新しい用法であると考えられる[47][45]。中世になって「神道」という言葉における「神」が天皇神話上の神々を指すようになり、天皇神話に対する思想的解釈・「神道」教説もまた「神道」と呼ばれるようになった[48][45]。
分類
歴史
農耕文化の進展とともに、自然の威力に神霊の存在を見出し、その霊魂を丁重に祭ることで自然の脅威を和ませ、農耕生活の安寧を祈るという神観念が生じたことが、神道の始まりであった[56]。このため、仏教やキリスト教のような体系化された宗教とは根本的に異なり、開祖や設立年は存在せず、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている[35]。
現在の神道・神社に直接繋がる祭祀遺跡が出土するのは、農耕文化の成立に伴って自然信仰が生じた弥生時代で、この時代には、荒神谷遺跡などに代表される青銅器祭祀、池上曽根遺跡のような後の神社建築と共通する独立棟持柱を持つ建物、鹿などの骨を焼いて占う卜骨や太占、副葬品としての鏡・剣・玉の出土など、神社祭祀や記紀の神道信仰と明らかに連続性を持つ要素が見られるようになる[57]。
ヤマト王権が成立する古墳時代には、最初期の神社と考えられる宗像大社や大神神社で、古墳副葬品と共通する副葬品が出土することから、ヤマト王権による国家祭祀が行われたと推定されており、この時期に神道の直接の原型が形成された[58]。飛鳥時代には律令の整備に伴い、神祇令に基づいた祭祀制度の体系化が行われ、神祇官が全国の神社に幣帛を頒布する班幣制度の確立や、全国の神社への社格区分や神階・神位の授与など、全国の神社を包括する国家的な律令祭祀制度が整備されたため、この時期に体系的な「神道」が成立したとするのが、多くの研究者での概ねの共通認識となっている[59]。
「神道」という名称は中国の『易経』や『晋書』の中にみえる[60]。
日本における「神道」という言葉の初出は『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが[61]、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった[62][63]。また、稲作のような自然の理法に従う営みを指して神道とする解釈もある[64]。
明治30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され[65]、学問上で「神道」の語が確立した[66][要ページ番号] 。
教義
神道には釈迦やイエス・キリストのようなカリスマ的創唱者が存在しない[33]。
神道には明確な教義がないものの、古事記や日本書紀などのいわゆる「神典」には、神道の基本的な観念をうかがうことのできる記述があり[67]、常世、黄泉などの他界観や、荒魂・和魂、祖霊などの霊魂観、むすひ、惟神(かんながら)、浄明正直などの倫理観、禊祓により罪穢れを払う清浄観などが、神道の基本的な観念と考えられる[67]。
中世には、このような神道古典に見られる基本観念を体系的に追求し、神道の教学化を図る動きが見られた[67]。その最初期の動きは、両部神道や山王神道など、仏教の僧侶たちが仏教の教理に基づいた神道解釈を試みた仏家神道であった[68]。それらの仏家神道説に影響を受けつつ、それに対抗する形で、神宮神官らにより社家の立場からの神道説である伊勢神道が形成された[69]。伊勢神道の教説は、それまでの神道祭祀における観念を、外来宗教の語彙も活用しつつ論理化したものと捉えられ[70]、これまで神道祭祀において重んじられてきた祓や禊などの身体的清浄を心の問題として解釈し[71]、「正直」「清浄」を神道の徳目とした[72]。中世後期には、それまでの中世神道の展開を集大成し、仏教から独立した教義・経典・儀礼を持つ神道説である吉田神道が形成された[73]。吉田神道の教説は、この世の中の現象の全てに神が内在するという汎神論であった[74]。
近世に入ると、儒教の隆盛に伴い、理当心地神道、吉川神道などの儒家神道が盛んになり、神仏習合が強く批判され、儒教の徳目と神道の一致が説かれた[75]。儒家神道を集大成したのが垂加神道で、垂加神道説では神と人が「天人唯一之道」という合一状態にあるとし、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に一心不乱の祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとする教説が説かれた[76]。また、幕末には後期水戸学による神道説も唱えられ、国学と儒教を結びつけることで国体論を説き、尊皇論を唱え、幕末の志士たちの思想に影響を与えた[77]。
近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた[78]。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることを明らかにしなければならないという事情もあった[79]。このような経緯から、近代には神社非宗教論が説かれ、神社神道の神職らが宗教的な教義を説くことは政府により禁じられたが、他方で在野の神道家らによる神道教理が説かれるようになり、国家から公認を受けた教派神道13派が独自の神道の教えを説いて活動し、勢力を広げた[80]。
神道における「神」
神道では、気象、地理地形などの自然現象に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める[64]。いわゆる「八百万の神々」である[64]。アイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている[81][要ページ番号] 。元来、神の姿は、浮遊する霊力で、物に寄り付いたり去っていったりする「魂」と想起されており、非人格的なものであるとされた[82](そのような性質から、神の分霊を無限に行うことができる)が、仏教の影響で神像などが製作されるようになり、次第に神は可視的なものと考えられるようになった[83]。
また、神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も荒魂・和魂の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている[82]。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている[64]。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったととらえることができる[84]。
神道の神の種類は、大別すると自然神と文化神の二つに分類ができる[83]。前者には、太陽神や月神、風神、雷神、山神、海神などの天体や地形、気象を神格した神のほか、蛇などの動物神も含まれる[83]。また、文化神は、屋敷神、氏神、産土神などの社会集団を守る神や、疫病神、田の神、漁労神、軍神、竈神など、人間生活における特定の場面や職能を守護する神に分けられる[83]ほか、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神)[64]。神道には、人間も死後神になるという考え方があり、神話に描かれる一族の先祖(祖霊崇拝)や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物(御霊信仰)なども「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある[64][85]。
1881年の神道事務局祭神論争では、明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが[86]、敗北した出雲派的なものがいまだに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い[64]。
なお、戦前の昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代の事から始まる日本の歴史について「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである」と説明されている[87][88]。
神道の研究
鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[64]。本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い(古事記伝)、国学の主流を形成していった[89]。
神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された[要出典] 。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している[90]。
神道の成立期については諸説出されている。おもな説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄[91]。
現代の神道
神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、現代の全国の神社の大部分は神社本庁が統括している[92]。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく民間の宗教法人のひとつであり、神道系包括団体である[93]。
天皇・皇室と神道
大嘗祭は新天皇の即位後、五穀豊穣と国民安寧を祈る神道祭祀である。
宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的に密接な関わりを持ってきた。記紀神話には、神武天皇が大和橿原の地で即位したのちに鳥見山の祭壇で祭祀を行ったとの記述があり、古代においては祭政一致の観念のもと、神祭りを行うことと国を治めることが一体であり、そのいずれもが天皇の役割であると考えられていたとされる[95]。そして、記紀には崇神天皇の時代に天神地祇を祀る制度が整備されたとされ[96]、律令制の整備が進む飛鳥時代には、神祇官より全国の神社へ幣帛が頒布される班幣制度が整備された[97]。平安時代以降は、天皇が名神大社に対して勅使を派遣して奉幣と宣命の奏上を行わせる名神大社奉幣が盛んになり、次第に二十二社への奉幣と展開した[98]。平安時代の中期以降は、律令制度の弛緩に伴う神祇官の衰退により、天皇の親祭が高まり、年始の元旦四方拝や天皇が内裏で毎朝、「石灰壇」と呼ばれる台で伊勢神宮を遥拝する毎朝の御拝や、即位に際して特定神社へ神宝を送る一代一度の大神宝使の制度が始められたほか、神社の行宮まで天皇が赴く行幸も始められた[99]。
『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭の期間は中央及び五畿の官吏が仏事を行うことが禁じられ、中祀および内裏の斎戒を伴う小祀には、僧尼の代理への参内を禁じ、内裏の仏事が禁じられたほか、平安時代中期以降には、新嘗祭、月次祭、神嘗祭などの天皇自らが斎戒を行う祭においては、斎戒の期間中、内裏の仏事をやめ、官人も仏法を忌避することとなるなど、神道儀礼と仏教儀礼は、朝廷においては明確に区分されていた[100]。
祭政一致
神道の特徴の一つに祭政一致がある[101][注 7]。柳川啓一は、祭政一致を職業聖職者が直接統治を行う神権政治とは異なるものとして定義した[104]。原始・未開社会のは祭政一致し、祭と経済的活動が同一の場で行われ、タブーが法的または道徳的観念・行動と重なる[105][106]。祭政一致は主として古代天皇制の文脈において言及されてきた[107]。古代天皇制国家の形成において大嘗祭の祭式と密接に結びついて成立した王権神話に象徴されるように、政治主権者は原始・未開社会に遡り宗教祭祀者の機能とは未分化であり[107][108]、天皇家が諸部族の首長の祭祀権、祖神とその神話を血縁的系譜関係の神話的設定を通して奪い取り政治的統合を実現した[107]。原始・古代社会では風雨雷地震などの自然現象、狩猟・農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられていたが、この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり、律令制において神祇官を設置、中世の神道思想から江戸時代の国学へと受け継がれ、明治維新以後は神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じ、昭和に入ると天皇を現人神とするようになった[109]。
明治維新後の新政府は「太政官布達」で祭政一致し、神祇官を再興すると布告した[110]。日本でも巫の告げる神託が政治的な権威をもったヤマト王権の統治体制に遡ることができる[111]。
神霊の憑依
昭和後期の民俗学研究者佐々木宏幹[注 8]は神代紀の天鈿女命、崇神紀の倭迹迹日百襲姫命、仲哀紀の神功皇后などは突然神がかりして神の意志を伝えたりしており、神霊の憑依の例として挙げられている[114][115]。
山上伊豆母は、4世紀の三輪王朝、5世紀の河内王朝、そして崇仏派の蘇我氏による大化の改新によって律令制国家となる以前の大和朝廷は、三輪氏や多氏といった巫を司る一族と政を司る大王の共同統治が行われてきたと主張している[111]。
小口偉一は、日本の宗教信仰の基底にシャーマニズム的傾向があるとし、神道系新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした[115]。神道系新宗教の教祖らの中には召命型シャーマンの系統に分類されるものがいると考えられている[115]。
信仰
神社信仰の性格は、大きく分類すると氏神型信仰と勧請型信仰(崇敬祈願型信仰)の2つに分けられる[116]。古代における信仰は、前者の、地域ごとに氏神・産土神を祀る閉鎖的な共同体祭祀が中心であったが、中世に入ると、霊威のある神々が地域を越えて各地に勧請され、個人の祈願が行われる勧請型の信仰が増加した[116]。中世期の律令制の崩壊と荘園制の成立に伴い、特定神社を国家が支える古代的な律令祭祀制度が崩壊し、荘園領主たちが有力神社を本所として荘園を寄進するようになった結果、その寄進された社領にその分霊社が勧請されるようになったことや、各神社が御師をして地方まで信仰を広げる活動をはじめたことなどが、中世期に入って神社信仰が拡散する要因となった[116]。また、中世期の惣村では、村民たちは日常の農耕生活の中で神社に寄り合い、村民の中から一年交代で年番神主が選ばれていたり、オトナ・年寄と呼ばれる古老が取り仕切り若者衆が神事の奉仕に当たる神事運営のための祭りの編成組織である宮座が結成されるなどしたほか、村の取り決めに際しては起請文を記して神に誓約し、一揆の時には一味神水が行われるなど、神社は、民衆の精神的拠り所となっていった[117]。
近世期に入ると、治安や交通の改善によって人々の神社参詣がさらに活性化し、一層庶民の間での神社信仰が広がった。各村では講が結成され、毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行し、各講は御師や先達と師檀関係を結び、御師は講員の祈祷や参詣における宿泊の便を図った[118]。このようなことから、数百万人が短期間で伊勢神宮に参拝したと記録されるお蔭参りをはじめ、近世期には多数の人々が神社に参詣した。他方で、近世期の神社参詣は、近世社会における輸送組織の発達や道中での宿屋・遊楽施設の充実などにより、道中において様々な名所を見物したり、遊興を行うといった、観光・娯楽的な要素も多く持つものであった[119]。このような観光と寺社参詣の結びつきは、近代を経て現代でも受け継がれており、観光における神社の存在感は大きなものとなっている[120]。この他、現在における神社への信仰は、初詣、お宮参り、七五三、結婚式など、個人や家族の年中行事や人生儀礼において現れている[121]。
以下では、特に全国的に広がった神社信仰について概覧する。
現代の参拝の方法
- 簡易な参拝
神前ではまず神への供物として(供物を捧げるほかにお祓いの意味もあるといわれる)賽銭箱に賽銭を奉納する[126]。次に賽銭箱の近くにある鈴鐘を鳴らすが、これには邪気を払う[127]、清らかな音色で神を呼び寄せて参拝に訪れたことを神に告げる、参拝者を敬虔な気持ちにするとともに神霊の発動を願うなどの意味合いがあるとされる[128][129]。
鈴鐘を鳴らした後に拝礼を行う。拝礼の基本的な作法は、現在は「再拝二拍手一拝」(あるいは「二拝二拍手一拝」「二礼二拍手一礼」)がおもに利用されている[127]。
正式参拝や祈祷などで玉串を捧げる場合は、上記の深揖と再拝の間で、玉串に祈念を込めて根本を神前に向けるようにお供えする[130]。
一部の神社では作法が異なっており、たとえば、出雲大社や宇佐神宮、彌彦神社では「四拍手」である。伊勢神宮や熱田神宮での神事では「八度拝、八開手」となっている[131]。
神道諸派
神道を題材とした作品
脚注
注釈
- ↑ 吉田神道成立期説に立つ場合は吉田兼倶
- ↑ 宗教研究者の島薗進は、「古くから『神道』という言葉もあることにはあるが、宗教組織としての自覚を持つ神道があったかとなると不明確だ。『神道』という語の使用例を検討しても、独立の宗教という意味で使われている例は多くない」と指摘している[14]。
- ↑ 井上寛司は、神社成立までには長い前史があるが、神社とそれ以前の祭祀施設(ヤシロ・ミヤ・モリ・ホコラなどと称された)は別物であり、これらを不用意に混同したことが神社の理解に混乱を招いていることを指摘している[18]。
- ↑ 2010年に出版された岡田荘司編著の『日本神道史』は歴史学上の成果が多く取り込まれ、「日本の神道史のスタンダード」と捉えられている(2022年時点)[22]。2021年に小林宣彦が編集に加わり増補版が出ている[22]。
- ↑ 律令国家制度のもとで、神祇祭祀(神道祭祀)において強固な宗教統制・支配が進められたという意見は戦後の歴史学で盛り上がりを見せたが、現在の研究では疑問視されており、律令祭祀制は「制度としての実態は十分機能していなかった」とする見方が有力である[23]。
- ↑ 教派神道の『神道各派』から区別された神ながらの道はとくに国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例であった[53]。現在では政教分離が進んで「神社」の語義が変化しており、国家神道を単に「神社」と称することはほぼなくなった。しかし、この様な国家神道の概念・語を、創作・捏造とする説もある。昭和26年の宗教法人法により、多くの神社が政府機関から伊勢神宮を中心とした神社本庁傘下の宗教法人へと変更された経緯がある[54]。
- ↑ 祭政一致は英語では「Saisei itchi」としてそのまま神道の用語として用いられている[101][102][103]。
- ↑ 佐々木宏幹は、シャーマニズムには次のような3つの要素があるとした[112]。
出典
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- 菅田正昭『面白いほどよくわかる神道のすべて : 日常の暮らしに生きる神道の教えと行事』日本文芸社〈学校で教えない教科書〉、2004年。 ISBN 4-537-25212-X。
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- 国立国会図書館 デジタルコレクション 神奈川県内政部 / 神社祭式行事作法解説 昭和18年 P21 22 23 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1097500
関連項目
外部リンク
神道家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
神道家としての後醍醐天皇は、大覚寺統の慣例に則り、当時廃れつつあった伊勢神宮を保護し、外宮の度会家行から伊勢神道を学んだ。この縁で、後醍醐天皇第一の側近であり中世最大の思想家・歴史家でもある北畠親房も伊勢神道の思想を取り込み、主著『神皇正統記』等に表現したため、日本の哲学・歴史学への思想的影響は大きい。 伊勢神宮は、古代日本では特殊な地位を築いていたが、律令制の崩壊や八幡宮・熊野神社の台頭によって、中世には権勢を失いかけていた。そこで、外宮の度会氏は伊勢神宮の独自性を保つため、独特の神道観を形成していった。ところが、後深草天皇を初め、持明院統の天皇は斎王(未婚の内親王もしくは女王を伊勢の斎宮に送り天照大神の御杖代(みつえしろ)=依り代の巫女として仕えさせること)の制度を無視したため、伊勢神宮はさらに打撃を受け、天皇家との繋がりさえも失いかけていた。このような中、大覚寺統の天皇たちはなるべく斎王を送る制度を尊重したため、度会氏の側でも見返りとして秘伝である伊勢神道の書物を献上するようになっていた。岡野友彦によれば、「神本仏迹」(しんぽんぶつじゃく)、つまり本地垂迹とは逆に、日本の神々の方が本体で仏がその化身であるという、伊勢神道独特の神道優位主義が、鎌倉幕府から自立したがる傾向にある大覚寺統の思想に相通じるものがあったのではないか、という。 度会氏は、元弘2年/正慶元年(1332年)までに、後宇多法皇(後醍醐の父)と後醍醐天皇へ、度会家行が編纂した『類聚神祇本源』を献上し、両帝は同書の叡覧(天子としての閲覧)をした。また、後醍醐天皇は大覚寺統の慣習通り、元徳2年(1330年)に、中宮の西園寺禧子との間に生まれた懽子内親王を斎王として卜定(ぼくじょう、指名)したが、この直後に後醍醐が元弘の乱で隠岐に流されたため、実際に懽子内親王が伊勢に赴くことはなかった。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府を打倒して建武の新政を開いた後醍醐は、寵姫阿野廉子との娘の祥子内親王を斎王に卜定したが、数年後に建武の乱で建武政権が崩壊したため、結局祥子内親王が歴史上最後の斎王となってしまった。 その後、延元元年/建武3年(1336年)10月10日、後醍醐側近の北畠親房は、宗良親王を奉じて伊勢国に下向したが、このとき親房が頼ったのが、既に後醍醐天皇との繋がりがある度会家行だった。同地で、親房は家行から初めて伊勢神道を学び、特に伊勢神道の諸書の梗概を編集して成立した『類聚神祇本源』には興味を示して自らの筆で書写し始め、延元2年/建武4年(1337年)7月以降に書写し終わった。その後の親房の著作の中でも、特に『神皇正統記』『元々集』には伊勢神道からの影響が強く見られる。 小笠原春夫は、この時期の度会家行・度会常昌・北畠親房・慈遍らの学派の活動について、「神道史上画期的な一出発の趣をな[す]」と評し、中世末期の吉田神道や近世初期の儒家神道などの後世の神道に対する影響は多大であると述べている。 また、後醍醐天皇と伊勢神道の結びつきは南朝の軍事面にも貢献し、宗教権門として伊勢国の8郡を支配する伊勢神宮からの支援を得た北畠家は、伊勢国に地盤を築くことに成功し、伊勢国司北畠家として、戦国時代末期まで200年以上に渡り同地の大勢力として君臨した。 一方、伊勢神宮の全てが南朝に協力した訳ではなく、中には北朝側についた神主もいた。これは、神宮内部での派閥争いとも関連していると見られているが、詳細は不明であり、後醍醐天皇と伊勢神宮の関係は2010年代時点でも研究され尽くした訳ではない。
※この「神道家」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「神道家」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。
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