神道家とは? わかりやすく解説

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神道

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/08/20 13:32 UTC 版)

神道
国・地域 日本の旗 日本など
信者数 8337万1429人[1]
成立年 諸説あり
創始者 なし[注 1]
信仰対象 ・仏など
母体 律令祭祀制・自然信仰祖先信仰など
宗派 下記神道諸派参照
主な指導者 神職
聖地 神社などの祭祀施設・などの自然物など
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神道(しんとう、しんどう[2])は、現代の日本では主に、「日本の伝統的な神祭り」や「日本の民族宗教」の総称と理解されている[3][4]日本の民族信仰[5][6][7]仏教儒教といった日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた外来の宗教・思想に対して、それらが伝わる前から日本にあった日本土着の神観念に基づく宗教的実践・宗教的態度をあらわす言葉として用いられ、それを支える生活習慣や習俗、道徳、倫理まで含めることもある[8][9][2]。ただし、現代的な意味での「神道」の定義は一様でなく、また歴史的に見ても「神道」の意味は一様でない[10]。神道は、早くて7世紀後半・8世紀 天武天皇持統天皇朝の律令祭祀制において、遅くても15世紀に成立したと考えられている[11]

概要

大嘗祭が斎行された令和の大嘗宮

「神道」という概念は非常につかみどころがなく、漠然としており、起源の定説もなく、創始者もおらず、「神道」と称されるものの歴史的見解を辿ってみても一貫した姿は把握できない[12][13][注 2]

神道研究者の岡田荘司は「神道とは何かと問われれば、その具体的な姿は神社の中に備わっているといえよう。」「神道の信仰を最も具体的に表示した場が神社である。」と述べている[15][16]。神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社である[17]。神社とは常設の神殿を持つ宗教施設・祭祀施設であり、常時そこに神(祭神)が鎮座し、これを信仰の対象とし諸々の祭礼・儀礼を執行するものである[18][注 3]。神道研究者の井上寛司は、常設の神殿を持つ神社とは「7世紀後半の律令制の成立にともなって、中央政府の命にもとづいて全国的な規模で創出された、官社と呼ばれる常設神殿を持った新たな宗教施設」であると述べ、神社の成立を天武天皇朝以前に遡ることはできないことを指摘している[19][20]。神社は律令期以降に続々と創建されたと推定されている[16]

学術的に見て「神道」とは祭祀体系を伴うものであり、縄文時代弥生時代古墳時代といった祭祀体系成立以前は「神道」の成立には至っていないとする見解が主流である[21]

神道の成立期の定説はないが、主要な学説(2021年時点)が4つある[注 4]。4つの説には800年の隔たりがあり、それは神道の把握の違いに起因するため、この主要4説について述べる[11]。4つの成立期論とその神道認識は次の通りである。

  • 第1説:「7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武持統天皇朝成立説。」
律令国家体制を確立させた天武天皇・持統天皇の時代に太政官神祇官の二官体制のもとで律令官社制度が完成し、「神祇令」が制定され、国家的祭祀体系とその体系が整備・確立されたことをもって「神道」の成立とする説[23][24]大嘗祭伊勢神宮式年遷宮もこの時代に開始されており、『日本書紀』にも「神道」という用語が見られる(ただしこれ以降、「神道」の語は中世(第3節の時期)までほぼ使われていない[10])。
  • 第2説:「8・9世紀、平安時代初期成立説。提唱者は高取正男。」
奈良時代から平安時代初期に、仏教勢力とは距離を置き神と仏を隔てようとする「神仏隔離」が行なわれたと考える歴史学者の高取正男が唱えた説[23][24]。朝廷における禁忌意識・神仏隔離の成立に着目して「神道」の自覚過程を提示し、地域社会に根ざした「神道」の台頭に着目した[23]。この時代は平安祭祀制の確立期で、律令祭祀制からの転換が見られる[23]
  • 第3説:「11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。」
中世史の研究者黒田俊雄が唱えた「顕密体制」の成立期を「神道」の成立期とする説で、この時期は神道思想の形成期に当たる[25]。平安時代中期以降、院政期に朝廷で二十二社奉幣の制度が固まり、その後諸国一宮制が成立、中世的天皇神話や神国意識が地域社会にへ広まっていった時期に「神道」が成立したとみなす[25]。院政期以降、神の世界が様々に言語化され語られるようになり、注釈・秘説が多く展開し、こうして形成された中世の神道説が広まる中で「神道」という用語が多用されるようになった[25]
「顕密体制」が解体されていく中で顕密仏教に含有されていた神祇が自立し、15世紀に吉田兼倶吉田神道を作った[25]。「顕密体制」の終焉と共に初めて「神道」が成立したとする説であり、近代的宗教概念から「神道」理解・固定化を試みるもので、「宗教」としての確立をもって「神道」の成立としている[25]

岡田荘司は『日本神道史』(2021年)で、「神社の信仰体系は、古代以来の神社と祭祀とに備わって」おり、「第一説の古代律令神祇体系の中に、神道的要素を抽出するこは可能」として、成立期の基本を律令祭祀制に置き、本書で神社と祭祀に焦点を置いて日本神道史を展開している[26]。岡田荘司は第1説について、「大方の了解を得られる得られる妥当性な学説と考える」と述べている[23]。ただし、律令国家制度のもとで神祇祭祀(神道祭祀)において強固な宗教統制・支配が進められたわけではない[注 5]。第1説を支持する場合も、第2 - 4説は神道史上の転換点といえる。神道思想を重視する立場からは第3説以降が有力な説である[26]。第3説・第4説は「神道」の語義解釈を重視し意味を限定し、「神道」の成立を遅らせており、これは近年の神道研究の傾向である[26][27]。日本古代史・日本仏教史研究者の吉田一彦はシリーズ「日本宗教史を問い直す(全6巻)」(2020年)の総論で、「〈日本古来の神道〉といった言い方があるが、しかし実際には日本の神信仰がその多様性を一つの形にまとめて一定の体系性を形成していくのは平安時代のことと見るべき」として第1説に疑念を示し、「さらにこの宗教を『神道』なる語を持って呼ぶのがふさわしくのなるのは室町時代以降のこととすべきである。吉田兼倶による『吉田神道』の成立はその画期となるものとして重要である。吉田神道は、その後戦国時代、江戸時代を通じて日本の神道界の中心勢力として活動していった。」と述べている[28]

岡田荘司は「神社と神道を奉じた地域社会の営み」が日本国家の形成に影響を与え、日本の歴史に大きな影響を与えてきたことを指摘している[29]

伝統的な民俗信仰自然信仰祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した[30][31]。現代の神社神道の元締めである民間の宗教法人 神社本庁は、神道は日本人が昔から農耕や漁労など自然と交わり生活を営む中から生まれた信仰と主張している[32]

[浄明正直 (じょうみょうせいちょく)(浄く明るく正しく直く)を徳目とする[33]

神道は仏教が大陸から伝来したのち、それまで日本国独自の習慣や信仰が御祖神(みおやがみ)の御心に従う「かむながらの道(神道)」として意識されるようになった[34][35]。教えや内実は神社祭りの中に伝えられおり、『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる[36]

現代の神社本庁の教えでは、神道は仏教儒教道教などとも習合し日本文化に大きな影響を及ぼしたが、日本国独自の神観念は変わらず、現在まで脈々と受け継がれているということになっている[37]

神道は奈良時代(710年 – 794年)以降の長い間、仏教信仰と混淆してきた(神仏習合)。日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って一つの宗教となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性が維持されている[38]宮中祭祀伊勢神宮の祭祀では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されながら並存していた[39]明治時代には神道国教化を実現するために、神仏分離が行われた[40]

八百万の神々を信仰対象とする神道は、すべてのものが精神的な性質(人格があるか、擬人化された霊魂等)を持つと信じるアニミズムの特徴を保持してきたと考えられている[41][42]

神道は地縁血縁などで結ばれた共同体部族など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に人々の安心立命や救済国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[30]

日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)に記載があるが[43]、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守り御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無宗教を自称するという多くの調査結果とは矛盾する[44]

「神道」の意味

国産みを描いた『天瓊を以て滄海を探るの図』(小林永濯画、ボストン美術館所蔵)

日本における「神道」の初出は720年(養老4年)成立の『日本書紀』であり、当時の中国で使われていた成語からの借用である[10]

「神道」は中国で古くから使われた言葉で、「自然の理法」「霊妙なる理法」を意味し、これが道教仏教の教典に取り入れられ、道教・仏教が自らの教えを「神道」と呼ぶ例もみられた[10]。また、より一般的には神祇・神霊(神々)や、その祭祀・呪法を意味した[10][45]

『日本書紀』でどのような意味で使われたかは諸説あり、中国の「神道」すなわち道教などの影響を受けた信仰だったことを示すとする説や、単に神祭りや神祇(神)を意味する普通名詞として用いたとする説、日本固有の神への信仰を外来の仏教と対比するために用いたとする見方もある[46]。ただし『日本書紀』以降、中世まで「神道」の用例はほとんどみられない[10]

古代・中世には、一般的には「神の権威・力・はたらきや神そのもの」を意味し、今日のように、日本の神信仰やそれにまつわる言説・教説を「神道」と呼ぶことは、中世または近世に生じた新しい用法であると考えられる[47][45]。中世になって「神道」という言葉における「神」が天皇神話上の神々を指すようになり、天皇神話に対する思想的解釈・「神道」教説もまた「神道」と呼ばれるようになった[48][45]

分類

皇室神道 (宮中祭祀
皇居内の宮中三殿を中心とする皇室の神道である[49]。新年の四方拝歳旦祭、五穀豊穣や国家・国民の安寧を祈る新嘗祭(天皇即位後初の新嘗祭は大嘗祭という)などが行われる[50]
神社神道
神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によって行われる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である[51]
教派神道(神道十三派)
教祖開祖宗教的体験にもとづく。創唱宗教的色彩が濃い[要出典]
古神道
国家神道
特に近代(明治維新より第二次世界大戦終結まで)において国家の支援のもとに行われた神道を指す名称であり[52][注 6]、事実上の国家宗教となっていた[55]。(国家神道#語誌を参照)

歴史

樹齢約3000年の武雄神社御神木
春日大社にて、おみくじを結ぶ人々
一般家庭で祀られる神棚
神社本庁東京都渋谷区代々木)

農耕文化の進展とともに、自然の威力に神霊の存在を見出し、その霊魂を丁重に祭ることで自然の脅威を和ませ、農耕生活の安寧を祈るという神観念が生じたことが、神道の始まりであった[56]。このため、仏教キリスト教のような体系化された宗教とは根本的に異なり、開祖や設立年は存在せず、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている[35]

現在の神道・神社に直接繋がる祭祀遺跡が出土するのは、農耕文化の成立に伴って自然信仰が生じた弥生時代で、この時代には、荒神谷遺跡などに代表される青銅器祭祀、池上曽根遺跡のような後の神社建築と共通する独立棟持柱を持つ建物、鹿などの骨を焼いて占う卜骨太占、副葬品としてのの出土など、神社祭祀や記紀の神道信仰と明らかに連続性を持つ要素が見られるようになる[57]

ヤマト王権が成立する古墳時代には、最初期の神社と考えられる宗像大社大神神社で、古墳副葬品と共通する副葬品が出土することから、ヤマト王権による国家祭祀が行われたと推定されており、この時期に神道の直接の原型が形成された[58]飛鳥時代には律令の整備に伴い、神祇令に基づいた祭祀制度の体系化が行われ、神祇官が全国の神社に幣帛を頒布する班幣制度の確立や、全国の神社への社格区分や神階神位の授与など、全国の神社を包括する国家的な律令祭祀制度が整備されたため、この時期に体系的な「神道」が成立したとするのが、多くの研究者での概ねの共通認識となっている[59]

「神道」という名称は中国の『易経』や『晋書』の中にみえる[60]

日本における「神道」という言葉の初出は『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが[61]、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった[62][63]。また、稲作のような自然の理法に従う営みを指して神道とする解釈もある[64]

明治30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され[65]、学問上で「神道」の語が確立した[66][要ページ番号]

教義

神道には釈迦イエス・キリストのようなカリスマ的創唱者が存在しない[33]

神道には明確な教義がないものの、古事記や日本書紀などのいわゆる「神典」には、神道の基本的な観念をうかがうことのできる記述があり[67]常世黄泉などの他界観や、荒魂・和魂祖霊などの霊魂観、むすひ惟神(かんながら)、浄明正直などの倫理観、により穢れを払う清浄観などが、神道の基本的な観念と考えられる[67]

中世には、このような神道古典に見られる基本観念を体系的に追求し、神道の教学化を図る動きが見られた[67]。その最初期の動きは、両部神道山王神道など、仏教の僧侶たちが仏教の教理に基づいた神道解釈を試みた仏家神道であった[68]。それらの仏家神道説に影響を受けつつ、それに対抗する形で、神宮神官らにより社家の立場からの神道説である伊勢神道が形成された[69]。伊勢神道の教説は、それまでの神道祭祀における観念を、外来宗教の語彙も活用しつつ論理化したものと捉えられ[70]、これまで神道祭祀において重んじられてきたなどの身体的清浄を心の問題として解釈し[71]、「正直」「清浄」を神道の徳目とした[72]。中世後期には、それまでの中世神道の展開を集大成し、仏教から独立した教義・経典・儀礼を持つ神道説である吉田神道が形成された[73]。吉田神道の教説は、この世の中の現象の全てに神が内在するという汎神論であった[74]

近世に入ると、儒教の隆盛に伴い、理当心地神道吉川神道などの儒家神道が盛んになり、神仏習合が強く批判され、儒教の徳目と神道の一致が説かれた[75]。儒家神道を集大成したのが垂加神道で、垂加神道説では神と人が「天人唯一之道」という合一状態にあるとし、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に一心不乱の祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとする教説が説かれた[76]。また、幕末には後期水戸学による神道説も唱えられ、国学と儒教を結びつけることで国体論を説き、尊皇論を唱え、幕末の志士たちの思想に影響を与えた[77]

近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた[78]。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることを明らかにしなければならないという事情もあった[79]。このような経緯から、近代には神社非宗教論が説かれ、神社神道の神職らが宗教的な教義を説くことは政府により禁じられたが、他方で在野の神道家らによる神道教理が説かれるようになり、国家から公認を受けた教派神道13派が独自の神道の教えを説いて活動し、勢力を広げた[80]

神道における「神」

大洗磯前神社の神磯の鳥居
厳島神社

神道では、気象、地理地形などの自然現象に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める[64]。いわゆる「八百万の神々」である[64]アイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている[81][要ページ番号] 。元来、神の姿は、浮遊する霊力で、物に寄り付いたり去っていったりする「魂」と想起されており、非人格的なものであるとされた[82](そのような性質から、神の分霊を無限に行うことができる)が、仏教の影響で神像などが製作されるようになり、次第に神は可視的なものと考えられるようになった[83]

また、神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も荒魂・和魂の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている[82]。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている[64]。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったととらえることができる[84]

神道の神の種類は、大別すると自然神文化神の二つに分類ができる[83]。前者には、太陽神月神風神雷神山神海神などの天体や地形、気象を神格した神のほか、蛇などの動物神も含まれる[83]。また、文化神は、屋敷神氏神産土神などの社会集団を守る神や、疫病神田の神漁労神軍神竈神など、人間生活における特定の場面や職能を守護する神に分けられる[83]ほか、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神[64]。神道には、人間も死後神になるという考え方があり、神話に描かれる一族の先祖(祖霊崇拝)や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物(御霊信仰)なども「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある[64][85]

1881年の神道事務局祭神論争では、明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが[86]、敗北した出雲派的なものがいまだに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い[64]

なお、戦前の昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代の事から始まる日本の歴史について「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである」と説明されている[87][88]

神道の研究

鎌倉時代には伊勢神宮神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[64]本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い(古事記伝)、国学の主流を形成していった[89]

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された[要出典] 。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している[90]

神道の成立期については諸説出されている。おもな説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄[91]

現代の神道

神社の例(箱根神社

神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、現代の全国の神社の大部分は神社本庁が統括している[92]。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく民間の宗教法人のひとつであり、神道系包括団体である[93]

天皇・皇室と神道

岡ミサンザイ古墳宮内庁仲哀天皇天皇陵(墓)として「恵我長野西陵」と呼んでいるが、考古学研究の成果から学術的には別の人物の墓と考えられている[94]
皇室の祖先神を祀る伊勢神宮内宮
1990年(平成2年)第125代天皇(現・上皇)の大嘗祭
大嘗祭は新天皇の即位後、五穀豊穣と国民安寧を祈る神道祭祀である。

宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的に密接な関わりを持ってきた。記紀神話には、神武天皇大和橿原の地で即位したのちに鳥見山の祭壇で祭祀を行ったとの記述があり、古代においては祭政一致の観念のもと、神祭りを行うことと国を治めることが一体であり、そのいずれもが天皇の役割であると考えられていたとされる[95]。そして、記紀には崇神天皇の時代に天神地祇を祀る制度が整備されたとされ[96]律令制の整備が進む飛鳥時代には、神祇官より全国の神社へ幣帛が頒布される班幣制度が整備された[97]平安時代以降は、天皇が名神大社に対して勅使を派遣して奉幣宣命奏上を行わせる名神大社奉幣が盛んになり、次第に二十二社への奉幣と展開した[98]。平安時代の中期以降は、律令制度の弛緩に伴う神祇官の衰退により、天皇の親祭が高まり、年始の元旦四方拝や天皇が内裏で毎朝、「石灰壇」と呼ばれる台で伊勢神宮を遥拝する毎朝の御拝や、即位に際して特定神社へ神宝を送る一代一度の大神宝使の制度が始められたほか、神社の行宮まで天皇が赴く行幸も始められた[99]

『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭の期間は中央及び五畿官吏仏事を行うことが禁じられ、中祀および内裏の斎戒を伴う小祀には、僧尼の代理への参内を禁じ、内裏の仏事が禁じられたほか、平安時代中期以降には、新嘗祭月次祭神嘗祭などの天皇自らが斎戒を行う祭においては、斎戒の期間中、内裏の仏事をやめ、官人仏法を忌避することとなるなど、神道儀礼と仏教儀礼は、朝廷においては明確に区分されていた[100]

祭政一致

神道の特徴の一つに祭政一致がある[101][注 7]柳川啓一は、祭政一致を職業聖職者が直接統治を行う神権政治とは異なるものとして定義した[104]。原始・未開社会のは祭政一致し、祭と経済的活動が同一の場で行われ、タブーが法的または道徳的観念・行動と重なる[105][106]。祭政一致は主として古代天皇制の文脈において言及されてきた[107]古代天皇制国家の形成において大嘗祭の祭式と密接に結びついて成立した王権神話に象徴されるように、政治主権者は原始・未開社会に遡り宗教祭祀者の機能とは未分化であり[107][108]天皇家が諸部族の首長の祭祀権、祖神とその神話を血縁的系譜関係の神話的設定を通して奪い取り政治的統合を実現した[107]。原始・古代社会では風雨雷地震などの自然現象、狩猟・農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられていたが、この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり、律令制において神祇官を設置、中世の神道思想から江戸時代国学へと受け継がれ、明治維新以後は神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じ、昭和に入ると天皇を現人神とするようになった[109]

明治維新後の新政府は「太政官布達」で祭政一致し、神祇官を再興すると布告した[110]。日本でもの告げる神託が政治的な権威をもったヤマト王権の統治体制に遡ることができる[111]

神霊の憑依

昭和後期の民俗学研究者佐々木宏幹[注 8]神代紀の天鈿女命崇神紀の倭迹迹日百襲姫命仲哀紀の神功皇后などは突然神がかりして神の意志を伝えたりしており、神霊の憑依の例として挙げられている[114][115]

山上伊豆母は、4世紀の三輪王朝、5世紀の河内王朝、そして崇仏派の蘇我氏による大化の改新によって律令制国家となる以前の大和朝廷は、三輪氏多氏といったを司る一族と政を司る大王の共同統治が行われてきたと主張している[111]

小口偉一は、日本の宗教信仰の基底にシャーマニズム的傾向があるとし、神道系新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした[115]。神道系新宗教教祖らの中には召命型シャーマンの系統に分類されるものがいると考えられている[115]

信仰

神社信仰の性格は、大きく分類すると氏神型信仰と勧請型信仰(崇敬祈願型信仰)の2つに分けられる[116]。古代における信仰は、前者の、地域ごとに氏神・産土神を祀る閉鎖的な共同体祭祀が中心であったが、中世に入ると、霊威のある神々が地域を越えて各地に勧請され、個人の祈願が行われる勧請型の信仰が増加した[116]。中世期の律令制の崩壊と荘園制の成立に伴い、特定神社を国家が支える古代的な律令祭祀制度が崩壊し、荘園領主たちが有力神社を本所として荘園を寄進するようになった結果、その寄進された社領にその分霊社が勧請されるようになったことや、各神社が御師をして地方まで信仰を広げる活動をはじめたことなどが、中世期に入って神社信仰が拡散する要因となった[116]。また、中世期の惣村では、村民たちは日常の農耕生活の中で神社に寄り合い、村民の中から一年交代で年番神主が選ばれていたり、オトナ・年寄と呼ばれる古老が取り仕切り若者衆が神事の奉仕に当たる神事運営のための祭りの編成組織である宮座が結成されるなどしたほか、村の取り決めに際しては起請文を記して神に誓約し、一揆の時には一味神水が行われるなど、神社は、民衆の精神的拠り所となっていった[117]

近世期に入ると、治安や交通の改善によって人々の神社参詣がさらに活性化し、一層庶民の間での神社信仰が広がった。各村ではが結成され、毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行し、各講は御師や先達と師檀関係を結び、御師は講員の祈祷や参詣における宿泊の便を図った[118]。このようなことから、数百万人が短期間で伊勢神宮に参拝したと記録されるお蔭参りをはじめ、近世期には多数の人々が神社に参詣した。他方で、近世期の神社参詣は、近世社会における輸送組織の発達や道中での宿屋・遊楽施設の充実などにより、道中において様々な名所を見物したり、遊興を行うといった、観光・娯楽的な要素も多く持つものであった[119]。このような観光と寺社参詣の結びつきは、近代を経て現代でも受け継がれており、観光における神社の存在感は大きなものとなっている[120]。この他、現在における神社への信仰は、初詣お宮参り七五三結婚式など、個人や家族の年中行事や人生儀礼において現れている[121]

以下では、特に全国的に広がった神社信仰について概覧する。

現代の参拝の方法

厳島神社(広島県廿日市市)
簡易な参拝

神前ではまず神への供物として(供物を捧げるほかにお祓いの意味もあるといわれる)賽銭箱に賽銭を奉納する[126]。次に賽銭箱の近くにある鈴鐘を鳴らすが、これには邪気を払う[127]、清らかな音色で神を呼び寄せて参拝に訪れたことを神に告げる、参拝者を敬虔な気持ちにするとともに神霊の発動を願うなどの意味合いがあるとされる[128][129]

鈴鐘を鳴らした後に拝礼を行う。拝礼の基本的な作法は、現在は「再拝二拍手一拝」(あるいは「二拝二拍手一拝」「二礼二拍手一礼」)がおもに利用されている[127]

正式参拝や祈祷などで玉串を捧げる場合は、上記の深揖と再拝の間で、玉串に祈念を込めて根本を神前に向けるようにお供えする[130]

一部の神社では作法が異なっており、たとえば、出雲大社宇佐神宮彌彦神社では「四拍手」である。伊勢神宮熱田神宮での神事では「八度拝、八開手」となっている[131]

への供物
鶴岡八幡宮の供物
厳島神社に奉納された酒樽。手前に千福が見える。
香取神宮、御田植祭御斎田での供物。香取市。
  • 現代の神社本庁は、身内に不幸があった人は50日間(仏式の49日)を経過するまで神社参拝は控える必要があるとしている[127][132]死穢の観念からである[133]
  • 神前に捧げる御饌は、火を通したもの(熟饌)を供える場合、神聖な炎として火鑽具を用いて厳粛に起こされた忌火を用いるのが望ましいとされる[134]

神道諸派

神道を題材とした作品

脚注

注釈

  1. 吉田神道成立期説に立つ場合は吉田兼倶
  2. 宗教研究者の島薗進は、「古くから『神道』という言葉もあることにはあるが、宗教組織としての自覚を持つ神道があったかとなると不明確だ。『神道』という語の使用例を検討しても、独立の宗教という意味で使われている例は多くない」と指摘している[14]
  3. 井上寛司は、神社成立までには長い前史があるが、神社とそれ以前の祭祀施設(ヤシロ・ミヤ・モリ・ホコラなどと称された)は別物であり、これらを不用意に混同したことが神社の理解に混乱を招いていることを指摘している[18]
  4. 2010年に出版された岡田荘司編著の『日本神道史』は歴史学上の成果が多く取り込まれ、「日本の神道史のスタンダード」と捉えられている(2022年時点)[22]。2021年に小林宣彦が編集に加わり増補版が出ている[22]
  5. 律令国家制度のもとで、神祇祭祀(神道祭祀)において強固な宗教統制・支配が進められたという意見は戦後の歴史学で盛り上がりを見せたが、現在の研究では疑問視されており、律令祭祀制は「制度としての実態は十分機能していなかった」とする見方が有力である[23]
  6. 教派神道の『神道各派』から区別された神ながらの道はとくに国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例であった[53]。現在では政教分離が進んで「神社」の語義が変化しており、国家神道を単に「神社」と称することはほぼなくなった。しかし、この様な国家神道の概念・語を、創作・捏造とする説もある。昭和26年の宗教法人法により、多くの神社が政府機関から伊勢神宮を中心とした神社本庁傘下の宗教法人へと変更された経緯がある[54]
  7. 祭政一致は英語では「Saisei itchi」としてそのまま神道の用語として用いられている[101][102][103]
  8. 佐々木宏幹は、シャーマニズムには次のような3つの要素があるとした[112]
    • トランスという特別の精神状態において脱魂(ecstasy)または憑依(憑霊)(possession)が行われる
    • 精霊などの超自然的存在と直接接触・交流・交信
    • 社会的に一定の役割を持つ信仰と行動の体系。
      なお、現代の民俗学者松尾恒一は佐々木の研究について、「実証性にかけ、特に宗教史に関しては、その後の研究に与えた影響はほとんどない。」と評している[113]

出典

  1. これは『宗教年鑑』(文化庁)に基づく神道支持者とされる者の数で、神社側の自己申告によるものである 令和6年版』
  2. 1 2 松村明ほか (2018年). デジタル大辞泉”. 小学館. 2019年1月8日閲覧。
  3. 井上 2006, p. 368.
  4. 伊藤 2012, p. 9.
  5. 鎌田純一神道」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館コトバンクより2025年12月28日閲覧
  6. 神道とは | 神社と神道 | 神社本庁公式サイト”. www.jinjahoncho.or.jp. 2025年12月29日閲覧。
  7. 神道 - Shinto|日本語|東京都神社庁”. shinto.tokyo-jinjacho.or.jp. 2025年12月29日閲覧。
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  9. 日本大百科全書(ニッポニカ)『神道』 - コトバンク
  10. 1 2 3 4 5 6 伊藤 2012, pp. 11–12.
  11. 1 2 岡田 2021, p. 16.
  12. 井上 2021, pp. 4–5.
  13. 岡田荘司 2010年 ⅲページ
  14. 島薗 2022, p. 21.
  15. 岡田 2021, pp. ⅲ-ⅳ.
  16. 1 2 岡田 2021, p. 3.
  17. 岡田荘司 2010年 p.22-23
  18. 1 2 井上 2011, pp. 24–25.
  19. 井上 2011, p. 26.
  20. 井上 2006, p. 351.
  21. 岡田 2021, pp. 14–15.
  22. 1 2 島薗 2022, pp. 33.
  23. 1 2 3 4 5 6 岡田 2021, p. 15.
  24. 1 2 鎌田 2019, pp. 82–83.
  25. 1 2 3 4 5 岡田 2021, pp. 15–16.
  26. 1 2 3 岡田 2021, p. 17.
  27. 岡田 2021, p. ⅳ.
  28. 吉田 2020, p. 8.
  29. 岡田 2021, p. ⅲ.
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  44. 日本の宗教人口-2億と2-3割の怪の解- (PDF). 武蔵野大学仏教文化研究所 渡辺浩希. 2014年7月3日閲覧。
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  56. 小林宣彦 (2020年4月10日). コミュニケーションがとれない日本の神=自然 災害対策施策としての祭祀の歴史”. 國學院大學メディア. 2020年11月12日閲覧。
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  58. 岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),72頁
  59. 岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),14-15頁
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  65. 磯前順一『近代における「宗教」概念の成立過程』 第3巻(初版)、岩波書店〈近代日本の文化史〉(原著2002年1月15日)、185頁。ISBN 400011073X
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  77. 阪本・石井 編 2011, p. 70.
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  79. 『日本近代思想大系 5 宗教と国家』岩波書店、1988年、541-553頁。 ISBN 4-00-230005-6
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  109. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『祭政一致』 - コトバンク
  110. 「此度王政復古,神武創業ノ始ニ被為基,諸事御一新,祭政一致之御制度ニ御復被遊候ニ付テハ,先第一神祇官御再興御造立ノ上……(後略)」安丸良夫宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』425ページ
  111. 1 2 山上 1989, pp. 84–100.
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  122. 宝賀寿男『古代氏族の研究⑬ 天皇氏族 天孫族の来た道』青垣出版、2018年。
  123. 宝賀寿男『古代氏族の研究⑬ 天皇氏族 天孫族の来た道』青垣出版、2018年。
  124. 宝賀寿男『古代氏族の研究⑦ 三輪氏 大物主神の祭祀者』青垣出版、2015年。
  125. 宝賀寿男『古代氏族の研究⑭ 蘇我氏 権勢を誇った謎多き古代大族』青垣出版、2019年。
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参考文献

研究者(在野除く)による神道に関する二次資料
関連分野に関する研究者(在野除く)の二次資料
  • 佐々木 (1984):佐々木宏幹『シャーマニズムの人類学』弘文堂、1984年。 ISBN 9784335570315 
  • 佐々木 (1973):佐々木宏幹 著「シャマニズム」、小口偉一・堀一郎 編『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、249-253頁。 ISBN 9784130100274 
その他一般書
  • 石原藤夫『靖国神社一問一答』展転社、2002年。 ISBN 4-88656-226-4 
  • 菅田正昭『面白いほどよくわかる神道のすべて : 日常の暮らしに生きる神道の教えと行事』日本文芸社〈学校で教えない教科書〉、2004年。 ISBN 4-537-25212-X 
宗教団体による一次資料
  • 神社本庁監修 編『神社検定公式テキスト. 3』(神社のいろは 続)中公新書、2013年。 ISBN 978-4-594-06764-9 
一次資料(史料)

関連項目

外部リンク


神道家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「神道家」の解説

神道家としての後醍醐天皇は、大覚寺統慣例則り当時廃れつつあった伊勢神宮保護し外宮度会家行から伊勢神道学んだ。この縁で、後醍醐天皇第一側近であり中世最大思想家歴史家でもある北畠親房伊勢神道思想取り込み主著『神皇正統記』等に表現したため、日本哲学歴史学への思想的影響大きい。 伊勢神宮は、古代日本では特殊な地位築いていたが、律令制崩壊八幡宮熊野神社台頭によって、中世には権勢失いかけていた。そこで、外宮度会氏伊勢神宮独自性を保つため、独特の神道観を形成していった。ところが、後深草天皇初め持明院統天皇斎王未婚内親王もしくは女王伊勢斎宮送り天照大神御杖代みつえしろ)=依り代巫女として仕えさせること)の制度無視したため、伊勢神宮はさらに打撃を受け、天皇家との繋がりさえも失いかけていた。このような中、大覚寺統天皇たちはなるべく斎王を送る制度尊重したため、度会氏の側でも見返りとして秘伝である伊勢神道書物献上するようになっていた。岡野友彦によれば、「神本仏迹」(しんぽんぶつじゃく)、つまり本地垂迹とは逆に日本の神々の方が本体で仏がその化身であるという、伊勢神道独特の神道優位主義が、鎌倉幕府から自立したがる傾向にある大覚寺統思想相通じるものがあったのではないか、という。 度会氏は、元弘2年/正慶元年1332年)までに、後宇多法皇後醍醐の父)と後醍醐天皇へ、度会家行編纂した類聚神祇本源』を献上し、両帝は同書叡覧天子としての閲覧)をした。また、後醍醐天皇大覚寺統慣習通り元徳2年1330年)に、中宮西園寺禧子との間に生まれた懽子内親王斎王として卜定ぼくじょう指名)したが、この直後後醍醐元弘の乱隠岐流されたため、実際に懽子内親王伊勢赴くことはなかった。元弘3年1333年)、鎌倉幕府打倒して建武の新政開いた後醍醐は、寵姫阿野廉子との娘の祥子内親王斎王卜定したが、数年後建武の乱建武政権崩壊したため、結局祥子内親王歴史上最後斎王となってしまった。 その後延元元年/建武3年1336年10月10日後醍醐側近北畠親房は、宗良親王奉じて伊勢国下向したが、このとき親房が頼ったのが、既に後醍醐天皇との繋がりがある度会家行だった。同地で、親房は家行から初め伊勢神道学び、特に伊勢神道諸書梗概編集して成立した類聚神祇本源』には興味示して自らの筆で書写始め延元2年/建武4年1337年7月以降書写終わったその後の親房の著作中でも、特に『神皇正統記』元々集』には伊勢神道からの影響強く見られる小笠原春夫は、この時期度会家行度会常昌北畠親房慈遍らの学派活動について、「神道史画期的な出発の趣をな[す]」と評し中世末期吉田神道近世初期儒家神道などの後世神道対す影響多大であると述べている。 また、後醍醐天皇伊勢神道結びつき南朝軍事面にも貢献し宗教権門として伊勢国の8郡を支配する伊勢神宮からの支援得た北畠家は、伊勢国地盤を築くことに成功し伊勢国北畠家として、戦国時代末期まで200年以上に渡り同地大勢力として君臨した一方伊勢神宮全て南朝協力したではなく中には北朝についた神主もいた。これは、神宮内部での派閥争いとも関連していると見られているが、詳細不明であり、後醍醐天皇伊勢神宮の関係は2010年代時点でも研究され尽くした訳ではない

※この「神道家」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「神道家」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。

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