D Dayとは? わかりやすく解説

ディー‐デー【D-day】

読み方:でぃーでー

計画開始予定日。特に、第二次大戦中1944年6月6日連合軍ノルマンディー進攻作戦開始の日をいう。


【D-Day】(でぃーでい)

Departure day.

  1. 直訳する出発日作戦開始日を意味する

  2. 主にノルマンディー上陸作戦決行された日を指す。

D-デイ

(D Day から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/31 15:11 UTC 版)

D-デイD-Day)は、戦略上重要な攻撃、もしくは作戦開始日時を表す際にしばしば用いられたアメリカの軍事用語。

成り立ち

語頭のDの由来については諸説あるが、一例として漠然とした日付を表す「Day」の頭文字という解釈がある[1][2]

ノルマンディー上陸作戦

歴史上最も有名なD-デイは1944年6月6日であり、これは第二次世界大戦中にナチス・ドイツ占領下のヨーロッパ連合国軍が侵攻を開始した「オーヴァーロード作戦」の開始日である。詳しくはノルマンディー上陸作戦を参照のこと。

ノルマンディー上陸作戦のD-デイは当初1944年6月5日に設定されたが、悪天候により連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥は翌6月6日に作戦を延期した。それ以来、1944年6月6日は一般的に「D-デイ」[3]と呼称されるようになった。これが一般に広く知れ渡ったため、その後の軍事作戦立案担当者は作戦開始の日付を「D-デイ」と呼称するのを避けるようになった。例えば、ダグラス・マッカーサー元帥指揮によるレイテ島への侵攻作戦は「A-デイ」と呼称され、沖縄侵攻作戦は「L-デイ」と呼ばれた。マッカーサーは日本本土侵攻作戦の開始日を「X-デイ」(九州オリンピック作戦、1945年11月に予定)「Y-デイ」(関東コロネット作戦、1946年3月に予定)と提案していた。

同様の語法で作戦開始時刻を「H-アワー」(H-hour)と言うことも多い。これを基準に時間の経過を表現し、たとえば「H+2」は作戦開始2時間後の意味である。

脚注

  1. ^ US Army. “Frequently asked questions: What does the "D" signify in D-Day, and the "H" signify in H-Hour?” (英語). 2025年4月1日閲覧。
  2. ^ "D-Day". The Oxford Companion to World War II. Oxford: Oxford University Press. 2005. p. 220. ISBN 0-19-280666-1
  3. ^ フランス語ではJour-J(jour=日)もしくはLe Choc(衝撃)と呼ばれる

関連項目


D-Day

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:29 UTC 版)

テキサス (BB-35)」の記事における「D-Day」の解説

1944年6月6日午前3時テキサスグラスゴーオマハ西部砲撃支援航路到達し午前4時41分には砲撃開始位置であるポワント・デュ・オックから11km(12,000ヤード)沖の水域戦艦アーカンソーネバダとその他3隻のアメリカ重巡洋艦米英戦艦による小艦隊そして5隻の巡洋艦22隻の駆逐艦と共に到着した。さらに砲撃観測飛行小隊のVCS-7が、スーパーマリン スピットファイアMk. VbシーファイアIII飛ばし砲撃艦隊目標地点座標情報の提供とその射撃支援の一翼担ったまた、一時的にテキサスおよび他のアメリカ艦艇戦場観測パイロット達もこの観測支援のためにVCS-7へ割り当てられるになった午前5時50分、最初砲撃がポワント・デュ・オックの上部に設置されている6門の15cm(5.9インチ)砲へ向けて開始された。午前6時24分に砲撃終えるまでの34分間に、35.6cm(14インチ)砲から255発の砲弾が1分間につき7.5発の間隔発射され、これは第二次世界大戦中テキサスにとって最長砲撃時間となった。35.6cm砲でポワント・デュ・オックにある敵陣地を砲撃している間、12.7cm(5インチ)砲は第1歩師団オマハ西部へ進攻ルート確保するため、その障害となっていた区域攻撃行っていた。午前6時26分、テキサスはその主砲攻撃地点オマハ・ビーチの西の端にある町ヴィエルヴィル=シュル=メールへと変更した。そして、副砲同じくオマハ・ビーチ西部にある内陸部抜けるための進路上にある峡谷設置された敵防衛拠点への攻撃取りかかった。後に、空中偵察機による指示の元、主要攻撃地点内陸部へと変更していき、敵の防衛活動阻むために内陸部にある各敵防衛拠点と敵の砲台陣地次々と狙っていった。 同日正午まで、オマハ・ビーチでの激し攻勢は、連合軍機甲部隊砲兵部隊浜辺上陸できなかったことと、ドイツ軍予想以上に強力な抵抗によって崩壊危機晒され続けることとなったオマハでの連合軍歩兵部隊戦闘支援のために、何隻かの駆逐艦ドイツ軍射程範囲内に入る海岸線まで接近し集中的な火力支援行なったテキサスもまた海岸線沿いに移動し午前12時23分には海岸からわずか2,700m(3,000ヤード)の地点まで進み、ヴィエルヴィルの手前まで進んでいる第1歩師団のために街の西側突破口を開くため、主砲によるほぼ0度の平射撃を行なった。特に浜辺から離れた隘路隠されている狙撃手機関銃手陣地主な目標として砲撃した。それらの撃退任務が終わると、テキサスはヴィエルヴィルの西にいる敵対部隊への攻撃開始した6月7日テキサスにポワント・デュ・オックにいるレンジャー大隊から、不足している弾薬補給戦場から離れることになった死傷者回収要請が行われた。その要請に応じて2隻の小型ボートが艦から派遣された。ボートテキサス治療するためのレンジャー大隊負傷兵34と共に、何名かのドイツ捕虜運ばれてきた。捕虜テキサス艦内尋問受けた後、LSTによってイングランドへ送られた。その日遅くテキサス主砲ドイツ軍部隊集中打ち砕くために彼らが占拠しているトレヴィエレとスレイン砲弾降らせた。そして夜になると、浜辺攻撃行なっていたドイツ軍迫撃砲に対して攻撃した真夜中過ぎ頃、ドイツ空軍機がノルマンディー沖の艦船攻撃するために来襲し、その内の1機がテキサス右舷側から低空接近し攻撃してきた。これに対しテキサス対空部隊はすぐに反撃体勢入ったが、このドイツ軍機に対して反撃することは出来なかった。6月8日の朝になるとテキサスはイシグニー=シュルメール、そして海岸砲台、さらに2度目のトレヴィエレに対す最終的な攻撃行なったその後テキサス補給と再武装のためにプリマスへ一旦戻り6月11日には再びフランス海岸へと向かった。それから6月15日までの間、テキサスフランス内陸部へと進撃する陸軍支援従事した6月15日には進撃部隊テキサス最大射程範囲地点まで進みテキサス最後火力支援のために右舷にある対魚雷バルジ注水船体2度傾け火力支援に必要とされる射程範囲得た6月16日戦闘活動区域テキサス射程範囲外となり、テキサス次の任務へと移ることとなった

※この「D-Day」の解説は、「テキサス (BB-35)」の解説の一部です。
「D-Day」を含む「テキサス (BB-35)」の記事については、「テキサス (BB-35)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「D Day」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

「D Day」に関係したコラム

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「D Day」の関連用語

D Dayのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



D Dayのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
航空軍事用語辞典++航空軍事用語辞典++
この記事はMASDF 航空軍事用語辞典++の記事を転載しております。
MASDFでは航空及び軍事についての様々なコンテンツをご覧頂けます。
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのD-デイ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのテキサス (BB-35) (改訂履歴)、偽情報 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS