D-デイ
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D-デイ(D-Day)は、戦略上重要な攻撃、もしくは作戦開始日時を表す際にしばしば用いられたアメリカの軍事用語。
成り立ち
語頭のDの由来については諸説あるが、一例として漠然とした日付を表す「Day」の頭文字という解釈がある[1][2]。
ノルマンディー上陸作戦
歴史上最も有名なD-デイは1944年6月6日であり、これは第二次世界大戦中にナチス・ドイツ占領下のヨーロッパに連合国軍が侵攻を開始した「オーヴァーロード作戦」の開始日である。詳しくはノルマンディー上陸作戦を参照のこと。
ノルマンディー上陸作戦のD-デイは当初1944年6月5日に設定されたが、悪天候により連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥は翌6月6日に作戦を延期した。それ以来、1944年6月6日は一般的に「D-デイ」[3]と呼称されるようになった。これが一般に広く知れ渡ったため、その後の軍事作戦立案担当者は作戦開始の日付を「D-デイ」と呼称するのを避けるようになった。例えば、ダグラス・マッカーサー元帥指揮によるレイテ島への侵攻作戦は「A-デイ」と呼称され、沖縄侵攻作戦は「L-デイ」と呼ばれた。マッカーサーは日本本土侵攻作戦の開始日を「X-デイ」(九州・オリンピック作戦、1945年11月に予定)「Y-デイ」(関東・コロネット作戦、1946年3月に予定)と提案していた。
同様の語法で作戦開始時刻を「H-アワー」(H-hour)と言うことも多い。これを基準に時間の経過を表現し、たとえば「H+2」は作戦開始2時間後の意味である。
脚注
- ^ US Army. “Frequently asked questions: What does the "D" signify in D-Day, and the "H" signify in H-Hour?” (英語). 2025年4月1日閲覧。
- ^ "D-Day". The Oxford Companion to World War II. Oxford: Oxford University Press. 2005. p. 220. ISBN 0-19-280666-1。
- ^ フランス語ではJour-J(jour=日)もしくはLe Choc(衝撃)と呼ばれる
関連項目
D-Day
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「テキサス (BB-35)」の記事における「D-Day」の解説
1944年6月6日午前3時、テキサスとグラスゴーはオマハ西部の砲撃支援航路へ到達し、午前4時41分には砲撃開始位置であるポワント・デュ・オックから11km(12,000ヤード)沖の水域に戦艦アーカンソー、ネバダとその他3隻のアメリカ重巡洋艦と米英の戦艦による小艦隊そして5隻の巡洋艦と22隻の駆逐艦と共に到着した。さらに砲撃観測飛行小隊のVCS-7が、スーパーマリン スピットファイアMk. VbとシーファイアIIIを飛ばし砲撃艦隊の目標地点の座標情報の提供とその射撃の支援の一翼を担った。また、一時的にテキサスおよび他のアメリカ艦艇の戦場観測パイロット達もこの観測支援のためにVCS-7へ割り当てられる事になった。 午前5時50分、最初の砲撃がポワント・デュ・オックの上部に設置されている6門の15cm(5.9インチ)砲へ向けて開始された。午前6時24分に砲撃を終えるまでの34分間に、35.6cm(14インチ)砲から255発の砲弾が1分間につき7.5発の間隔で発射され、これは第二次世界大戦中、テキサスにとって最長の砲撃時間となった。35.6cm砲でポワント・デュ・オックにある敵陣地を砲撃している間、12.7cm(5インチ)砲は第1歩兵師団のオマハ西部への進攻ルートを確保するため、その障害となっていた区域へ攻撃を行っていた。午前6時26分、テキサスはその主砲の攻撃地点をオマハ・ビーチの西の端にある町ヴィエルヴィル=シュル=メールへと変更した。そして、副砲は同じくオマハ・ビーチの西部にある内陸部へ抜けるための進路上にある峡谷に設置された敵防衛拠点への攻撃に取りかかった。後に、空中偵察機による指示の元、主要攻撃地点を内陸部へと変更していき、敵の防衛活動を阻むために内陸部にある各敵防衛拠点と敵の砲台陣地を次々と狙っていった。 同日正午まで、オマハ・ビーチでの激しい攻勢は、連合軍の機甲部隊と砲兵部隊が浜辺へ上陸できなかったことと、ドイツ軍の予想以上に強力な抵抗によって崩壊の危機に晒され続けることとなった。オマハでの連合軍歩兵部隊の戦闘支援のために、何隻かの駆逐艦がドイツ軍の射程範囲内に入る海岸線まで接近し集中的な火力支援を行なった。テキサスもまた海岸線沿いに移動し、午前12時23分には海岸からわずか2,700m(3,000ヤード)の地点まで進み、ヴィエルヴィルの手前まで進んでいる第1歩兵師団のために街の西側に突破口を開くため、主砲によるほぼ0度の水平射撃を行なった。特に浜辺から離れた隘路に隠されている狙撃手と機関銃手の陣地を主な目標として砲撃した。それらの撃退任務が終わると、テキサスはヴィエルヴィルの西にいる敵対空部隊への攻撃を開始した。 6月7日、テキサスにポワント・デュ・オックにいるレンジャー大隊から、不足している弾薬の補給と戦場から離れることになった死傷者の回収要請が行われた。その要請に応じて2隻の小型ボートが艦から派遣された。ボートはテキサスで治療するためのレンジャー大隊の負傷兵34名と共に、何名かのドイツ兵捕虜が運ばれてきた。捕虜はテキサス艦内で尋問を受けた後、LSTによってイングランドへ送られた。その日の遅く、テキサスの主砲はドイツ軍部隊の集中を打ち砕くために彼らが占拠しているトレヴィエレとスレインに砲弾の雨を降らせた。そして夜になると、浜辺へ攻撃を行なっていたドイツ軍迫撃砲台に対して攻撃した。真夜中過ぎ頃、ドイツ空軍機がノルマンディー沖の艦船を攻撃するために来襲し、その内の1機がテキサスの右舷側から低空で接近し、攻撃してきた。これに対しテキサスの対空部隊はすぐに反撃体勢に入ったが、このドイツ軍機に対して反撃することは出来なかった。6月8日の朝になるとテキサスはイシグニー=シュル=メール、そして海岸砲台、さらに2度目のトレヴィエレに対する最終的な攻撃を行なった。 その後、テキサスは補給と再武装のためにプリマスへ一旦戻り、6月11日には再びフランスの海岸へと向かった。それから6月15日までの間、テキサスはフランス内陸部へと進撃する陸軍の支援に従事した。6月15日には進撃部隊はテキサスの最大射程範囲の地点まで進み、テキサスは最後の火力支援のために右舷にある対魚雷用バルジに注水し船体を2度傾け、火力支援に必要とされる射程範囲を得た。6月16日、戦闘活動区域はテキサスの射程範囲外となり、テキサスは次の任務へと移ることとなった。
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