1959 - 60年ストライキとは? わかりやすく解説

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1959 - 60年ストライキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 22:30 UTC 版)

三井三池争議」の記事における「1959 - 60年ストライキ」の解説

1953年ストライキ以降経営合理化進まない三井鉱山経営はますます悪化していった。このため三井鉱山三池炭鉱からの活動家一掃決意し1959年昭和34年1月19日6000人の希望退職を含む会社再建案を提示した同年8月29日には4580人の人員削減案を発表続いて12月2日3日には1492人に退職勧告し、これに応じない1278に対し12月11日指名解雇通告した労組側はこの措置反発し無期限スト突入した一方会社側経営再建決意固く三池鉱山ロックアウト組合員坑内立ち入り禁止でこれに対抗した財界三井鉱山全面的に支援した一方日本労働組合総評議会総評)は三池労組全面的に支援したため、三井三池労組は「総資本総労働対決」などと呼ばれた。 だが、実際には三池労組孤立していた。総評下部組織であり全国炭鉱労組加盟する日本炭鉱労働組合炭労)は、表向き総評足並みを揃えて三池労組支持表明したが、三井以外の炭鉱労組支援スト皆無等しく生活費支援のためのカンパすら出し渋る有様だった。また、事務員形成する三井鉱山社員労組連合会三社連)は、当初より会社との妥結優先して柔軟に立ち回り炭鉱労組闘争には加わらなかった。これは、三社連組合員は会社現場作業員連絡であったが、会社炭鉱労組意思汲まないとなると炭鉱労組員が三社連組合員を吊し上げたためであるまた、事務採用された者はのち管理職として会社側人間になることがある為、普段自分たちを攻撃してくる炭鉱労組員をかばってまで足並み揃えて闘争加わ意思はなかった。 これは、ここに至るまで、日本三大財閥系石炭鉱業会社のうち、三井鉱山のみが三池53年スト結果思うように合理化進まず組合が度を超えて力を持ち攻撃的になったことが遠因だった。住友石炭鉱業現・住石マテリアルズ)や、三菱石炭鉱業などでは、解雇人員別のグループ企業斡旋するなどして、比較平和裏に合理化進めたのだが、三井の場合、三池労組過激化著しいため、三井グループの別企業から人引受拒否されていたのであるこのような有様であったから、同業他社労組はもとより三井鉱山他の炭鉱労組にも三池労組足並みをそろえようとする意思はなかった。 ストライキ長期化し、総評からのカンパ以外の収入絶たれ組合員の生活は、次第苦しくなっていった生活苦耐えかねた一部組合員1960年昭和35年3月17日第二組合三池炭鉱労働組合:三池新労)を結成してストライキ離脱する。これを受けて、翌3月18日三社連は炭労脱退し正式にストから離脱した3月29日にはピケ張っていた三池労組組合員久保清暴力団員刺殺される。 三池労組組合員約半分三池新労に加わってストから離脱した。すると、第一労組構成員第二労組構成員に対して攻撃的になり、婦人会までもが第二労組構成員宅に嫌がらせ行い、ときに暴力事件発展した命にかかわるということで妻子疎開させた第二労組構成員少なくなかった会社三池新労は操業再開決意し三川坑への入山決めた3月28日入山に向かう労組合員に対し、これを阻止するため第一労組構成員実力行使至り双方負傷者出たこの為これ以降、新労組合員や会社関係者入山にあたっては、警察1000単位護衛するようになったまた、第一労組陸上封鎖していたため、会社海上から人員や機材搬入試みたが、第一労組漁船などを手配してこれの妨害開始した。これに対し、新労もチャーター船繰り出して会社船の“護衛”を開始した海上での闘い放水、がれき類の投げ合い体当たりエスカレートしていった。これら一連の攻防有明海戦と呼ばれた4月6日中労委から出され斡旋案(藤林斡旋案)に対し、三鉱連内部でその取扱分かれた4月9日始まった炭労臨時大会では、強行闘争完遂訴え三池労組に対し他の5労組美唄芦別田川砂川山野)は、早期妥結求めたため、対立した意思決定4月15日にまで遅れ、しかもその結果は、斡旋拒否議決されたものの、三池を除く5山労組独自の早期妥結認めるという、中途半端なのだったその後三池労組は5山労組との対立深め4月18日三池労組は三鉱連を脱退したこれにより三池新労が三鉱連に正式加入した。 こうして孤立深める三池労組だったが、一方で左翼過激派日本共産党日本社会党下部団体学生運動団体、などからの支援人員オルグ)の到着表向き闘争支持を訴える総評などを見て自分たちが孤立深めているどころか全国から国民的に支持集まっていると誤解して自信深めることになり、ますます過激化ていった7月7日石炭出荷まで貯めておく貯炭場であるホッパーへの組合員立ち入り禁止仮処分福岡地裁下すと、福岡県警ホッパー占拠している三池労組組合員排除するため警官隊差し向けた間もなく三池労組組合員警察との間で衝突起こった双方負傷者が出、三池労組組合員からは逮捕者出た。すると、婦人会や、オルグなどから別働隊組織され逮捕者連行され警察署包囲したついには警察署でも衝突発生した。もはや三池争議労働争議から、内乱の様相を呈し始めていた。 これ以上事態の悪化危惧した炭労三井鉱山中央労働委員会事態解決一任した。 7月15日岸内閣総辞職した新日安保条約締結に伴いそれまで国内騒乱に対して線引するためだった向坂を始めとする社会党極左派の啓蒙によって政治色強めていた三池労組は、三池争議中も“安保粉砕”など日米安保体制反対する態度採っていた。このこともあって、岸の退陣三池労組に有利となり、新労組会社にとって不利になるではないかという憶測飛び交った。新労組はすでに斡旋受諾決めていた栗木社長激しく批難した。 しかし、7月19日池田内閣発足したが、韓国との関係改善という外交方針もあり、池田左翼活動家温床となっていた三池労組排除することを決めていた。 8月10日中央労働委員会斡旋案を発表したが、その内容会社指名解雇取り消代わりに整理間の終了待って指名解雇された労働者自然に退職したものとみなすという組合側圧倒的に不利なものであった。しかし、もはや戦う限界達していた炭労総評斡旋受諾決め向坂斡旋案を受諾するよう三池労組幹部説得し11月11日三池労組無期限ストライキ解除して三井三池争議組合側敗北終わった

※この「1959 - 60年ストライキ」の解説は、「三井三池争議」の解説の一部です。
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