1954 FIFAワールドカップ
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1954 FIFAワールドカップ 1954 FIFA World Cup 1954 FIFA Fußball-Weltmeisterschaft |
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---|---|
大会概要 | |
開催国 | ![]() |
日程 | 1954年6月16日 - 7月4日 |
チーム数 | 16 (4連盟) |
開催地数 | 6 (6都市) |
大会結果 | |
優勝 | ![]() |
準優勝 | ![]() |
3位 | ![]() |
4位 | ![]() |
大会統計 | |
試合数 | 26試合 |
ゴール数 | 140点 (1試合平均 5.38点) |
総入場者数 | 889,500人 (1試合平均 34,212人) |
得点王 | ![]() |
< 19501958 > |
1954 FIFAワールドカップ(英: 1954 FIFA World Cup)は、1954年6月16日から7月4日にかけて、スイスで開催された第5回目のFIFAワールドカップである。
予選
出場国
出場選手は1954 FIFAワールドカップ参加チームを参照。
大陸連盟 | 出場 枠数 |
予選 | 組 予選順位 |
出場国・地域 | 出場回数 | |
---|---|---|---|---|---|---|
UEFA/CAF | 1+11 | 開催国 | ![]() |
4大会連続4回目 | ||
欧州予選 | 1組 | 1位 | ![]() |
2大会ぶり3回目[1] | ||
2組 | 1位 | ![]() |
2大会ぶり4回目 | |||
3組 | 1位 | ![]() |
2大会連続2回目 | |||
2位 | ![]() |
初出場 | ||||
4組 | 1位 | ![]() |
2大会ぶり4回目 | |||
5組 | 1位 | ![]() |
3大会ぶり2回目 | |||
6組 | 1位 | ![]() |
初出場 | |||
7組 | 1位 | ![]() |
2大会ぶり3回目 | |||
8組 | 1位 | ![]() |
2大会ぶり3回目 | |||
9組 | 1位 | ![]() |
4大会連続4回目 | |||
10組 | 1位 | ![]() |
2大会連続3回目 | |||
CONMEBOL | 1+1 | 前回優勝国 | ![]() |
2大会連続3回目 | ||
南米予選 | 11組 | 1位 | ![]() |
5大会連続5回目 | ||
CONCACAF | 1 | 北中米カリブ海予選 | 12組 | 1位 | ![]() |
2大会連続3回目 |
AFC | 1 | アジア予選 | 13組 | 1位 | ![]() |
初出場 |
本大会
概要
![]() |
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1946年7月22日、戦後初となる1950年大会開催国をブラジルに決定したのと併せて1954年大会の開催国が決定された。FIFA創立50周年であったため、大会は本部のあるスイスで行われることとなった。スイスは第二次世界大戦で中立を保ち、戦災を免れたため、スタジアムなどの施設・環境整備が容易という理由もあった[2]。大会史上初めてテレビ中継されることになり、記念コインが初めて発行された。また、第二次世界大戦後に会費未納などで除名されていたドイツサッカー連盟(DFB)がドイツ連邦共和国(西ドイツ)の協会として復帰し[3]、日本蹴球協会の再加盟が認められ、この大会で初めて予選に参加した日本とともに国際サッカー界に復帰し、予選を突破した。
16チームが各地区予選を突破して選ばれたが、欧州と米州がほぼ半々だった前回のブラジル大会と大きく変わり、開催国のスイス以外の欧州だけで11と、前回大会の8(1938年大会の優勝国イタリア含む)から大幅増(ただし欧州枠にはトルコ、イスラエル、エジプトも含んだ)となった一方、米州は前回大会優勝のウルグアイを含めても僅か3と前回大会の7(開催国のブラジルを含む)の半分以下、そしてアジアからは前回大会と同じ1(実際にはインドの辞退により前回大会本大会参加は0)という構成となった。
本大会参加国は4チームずつ4つのグループに分けられたが、グループリーグに初めてシード制が導入され、2か国のシード国と2か国のノンシード国という構成になり、かつ総当たり制ではなく、シード国対ノンシード国の2試合ずつのみの各グループ4試合だけで、シードされた2チーム同士およびノンシードの2チーム同士はグループリーグでの対戦は組まれなかった。各グループの上位2チームは準々決勝に進出することになっていたが、2位と3位の勝点が同一の場合は、進出をかけて再試合(順位決定戦)が組まれることになっていた。全体としてはシード国優位でリーグが進んだが、ノーシードだったスイスはイタリアを、西ドイツはトルコをそれぞれ破り、同じカードで行われた順位決定戦でも、スイスが4対1でイタリアを下し、西ドイツがトルコを7対2で下し、ベスト8に進出した。
またこの大会では韓国がアジアの独立国として初めて出場したが[4]、ハンガリーに0対9で、トルコにも0対7で敗れ、大惨敗であった。
準々決勝は各組の1位同士と2位同士が対戦する形式のオープンドロー(ただしグループリーグ1位と2位の対戦は決勝戦までなし)で行われ、ハンガリーがブラジルを4対2で下したが、両チームを合わせて3人が退場となり、試合終了後も喧嘩になるなど、「ベルンの戦い」と後に呼ばれるほど醜い試合であった。前回優勝国のウルグアイはイングランドを4対2で下し、西ドイツはユーゴスラビアを2対0で下した。オーストリア対スイス戦は点の取り合いになり、ワールドカップ史上最多ゴールとなる7対5でオーストリアが勝利した。
準決勝で西ドイツがオーストリアを6対1で下したが、最も重要な試合はハンガリー対ウルグアイであった。ここまでワールドカップで無敗のウルグアイは後半開始1分の時点でハンガリーに2対0とリードされていたが、そこから2対2に追いつき、延長戦に持ち込んだ。しかし、延長ではコチシュ・シャーンドルに2点を挙げられ、ウルグアイはハンガリーにワールドカップにおける初の敗北を喫した。ウルグアイは3位決定戦でもオーストリアに敗れ、4位で大会を終えた。
決勝の舞台はバンクドルフ・スタジアムであり、6万人の観衆が西ドイツ対ハンガリー戦を見るために集まった。2チームはグループリーグでも同じ組であり、この試合はハンガリーが8対3で勝利していた。ハンガリーの中心選手、プスカシュ・フェレンツは怪我を押して出場し、開始6分で先制点を挙げた。2分後にチボル・ゾルターンが点を加え、この時点で国際試合で4年間無敗のハンガリーが、優位に試合を進めていた。
しかし、前半終了前に西ドイツはマックス・モーロックとヘルムート・ラーンの得点で追いつき、後半は西ドイツが優勢となった。ラーンが2点目を決めて西ドイツが3対2でリードし、残り時間2分でプスカシュが決めたシュートはオフサイドのため取り消され、西ドイツが史上3カ国目の初優勝を遂げた。しかし、決勝の数日後、ピッチに立った西ドイツの選手が相次ぎ病院の担ぎ込まれる事件も起きている。黄疸という共通した症状が物語るのは、肝臓への負担。「薬物の助けを借りて、あの決勝を戦っていたのではないか」という当時囁かれた疑惑は、今なお消えずに燻りつづけている。西ドイツはその後の大会で、それまでの劣勢を跳ね返して逆転する異常なまでの勝負強さを幾度となく発揮したが、その「ゲルマン魂」がワールドカップの舞台で初めて炸裂した試合といえる。[要出典]
ハンガリー代表のコチシュはこの大会で11得点を決め、これまでの記録を3つ更新し、得点王となった。
会場一覧
ベルン | バーゼル | ローザンヌ |
---|---|---|
ヴァンクドルフ・スタディウム | ザンクト・ヤコブ・パルク | スタッド・オランピック・ドゥ・ラ・ポンテーズ |
北緯46度57分46秒 東経7度27分54秒 / 北緯46.96278度 東経7.46500度 | 北緯47度32分29秒 東経7度37分12秒 / 北緯47.54139度 東経7.62000度 | 北緯46度32分00秒 東経006度37分27秒 / 北緯46.53333度 東経6.62417度 |
収容人数: 64,600 | 収容人数: 54,800 | 収容人数: 50,300 |
![]() |
![]() |
![]() |
ジュネーヴ | ルガーノ | チューリッヒ |
スタッド・デ・シャルミー | コルナレード・スタディウム | ハルトトゥルム・スタディウム |
北緯46度12分33秒 東経6度07分06秒 / 北緯46.2091度 東経6.1182度 | 北緯46度01分25秒 東経8度57分42秒 / 北緯46.02361度 東経8.96167度 | 北緯47度23分35秒 東経8度30分17秒 / 北緯47.39306度 東経8.50472度 |
収容人数: 35,997 | 収容人数: 35,800 | 収容人数: 34,800 |
![]() |
![]() |
![]() |
結果
グループリーグ
グループ 1
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ![]() |
3 | 2 | 1 | 1 | 0 | 6 | 1 | +5 |
2 | ![]() |
3 | 2 | 1 | 1 | 0 | 2 | 1 | +1 |
3 | ![]() |
2 | 2 | 1 | 0 | 1 | 3 | 3 | 0 |
4 | ![]() |
0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 2 | 8 | -6 |
グループ 2
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ![]() |
4 | 2 | 2 | 0 | 0 | 17 | 3 | +14 |
2 | ![]() |
2 | 2 | 1 | 0 | 1 | 7 | 9 | -2 |
3 | ![]() |
2 | 2 | 1 | 0 | 1 | 8 | 4 | +4 |
4 | ![]() |
0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 16 | -16 |
プレーオフ
グループ 3
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ![]() |
4 | 2 | 2 | 0 | 0 | 9 | 0 | +9 |
2 | ![]() |
4 | 2 | 2 | 0 | 0 | 6 | 0 | +6 |
3 | ![]() |
0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 7 | -7 |
4 | ![]() |
0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 8 | -8 |
グループ 4
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ![]() |
3 | 2 | 1 | 1 | 0 | 6 | 4 | +2 |
2 | ![]() |
2 | 2 | 1 | 0 | 1 | 2 | 3 | -1 |
3 | ![]() |
2 | 2 | 1 | 0 | 1 | 5 | 3 | +2 |
4 | ![]() |
1 | 2 | 0 | 1 | 1 | 5 | 8 | -3 |
プレーオフ
決勝トーナメント
準々決勝 | 準決勝 | 決勝 | ||||||||
6月26日 | ||||||||||
![]() |
7 | |||||||||
6月30日 | ||||||||||
![]() |
5 | |||||||||
![]() |
6 | |||||||||
6月27日 | ||||||||||
![]() |
1 | |||||||||
![]() |
2 | |||||||||
7月4日 | ||||||||||
![]() |
0 | |||||||||
![]() |
3 | |||||||||
6月26日 | ||||||||||
![]() |
2 | |||||||||
![]() |
4 | |||||||||
6月30日 | ||||||||||
![]() |
2 | |||||||||
![]() |
2 | |||||||||
6月27日 | ||||||||||
![]() |
4 | 3位決定戦 | ||||||||
![]() |
4 | |||||||||
7月3日 | ||||||||||
![]() |
2 | |||||||||
![]() |
3 | |||||||||
![]() |
1 | |||||||||
準々決勝
オーストリア ![]() |
7 - 5 | ![]() |
---|---|---|
ワグナー ![]() ケルナー ![]() オツヴィルク ![]() プロプスト ![]() |
レポート | バラマン ![]() ヒューギ ![]() |
準決勝
3位決定戦
決勝
|
![]() |
|
優勝国
1954 FIFAワールドカップ優勝国 |
---|
![]() 西ドイツ 初優勝 |
得点ランキング
順位 | 選手名 | 国籍 | 得点数 |
---|---|---|---|
1 | シャーンドル・コチシュ | ![]() |
11 |
2 | エーリッヒ・プロプスト | ![]() |
6 |
マックス・モーロック | ![]() |
||
ヨーゼフ・ヒューギ | ![]() |
||
5 | ハンス・シェーファー | ![]() |
4 |
ヘルムート・ラーン | ![]() |
||
オットマール・ヴァルター | ![]() |
||
ヒデクチ・ナーンドル | ![]() |
||
フェレンツ・プスカシュ | ![]() |
||
カルロス・ボルヘス | ![]() |
||
ロベール・バラマン | ![]() |
脚注
関連項目
- ワールドカップ・スイス大会決勝戦における西ドイツ代表の歴史的勝利を基軸に、戦争により引き裂かれた家族の再生をテーマとした2003年制作のドイツ映画。
外部リンク
「1954 サッカー・ワールドカップ」の例文・使い方・用例・文例
- 最初の原子力潜水艦は1954年に進水した
- 調査によると、米国政府に逮捕されたウェットバックの数は1954年がピークだった。
- 中国の後援する北ベトナム共産軍と米国の後援する南ベトナム軍との長期戦(1954年−1975年)
- 文鮮明によって1954年に設立され、大規模な結婚式と他のコミュニティの活動を行うことで知られているキリスト教の教会(若干の仏教の要素がある)
- 南ベトナムがベトナム戦争終了後暴落する前の、1954年から1975年まで存在した南東部アジアの旧国(ディエンビエンフーのフランスの敗北の後)
- 1954年(ジエンビエンフーのフランス人の敗北の後の)からそれが北ベトナムによって破られて、付加された1975年まで存在した南東のアジアの前の国
- 英国の走者で、1954年に1マイルを4分以内で初めて走った(1929年生まれ)
- フランスの女性についての小説の作家(1873-1954)
- フランスの画家で野獣主義の提唱者(1880年−1954年)
- スウェーデンの海洋学者で、海流へのコリオリ効果の役割を認識した(1874年−1954年)
- 米国のテニス選手で、米国とウィンブルドンで女子シングルスのタイトルを獲得した(1954年生まれ)
- イタリアの原子物理学者(1939年以降、米国)で、中性子衝撃によって引き起こされる人工放射能に取り組み、1942年に初の制御された核反応を実現したグループを率いた(1901年−1954年)
- 米国の弁護士で、いくつかの有名な法廷裁判に関係する(1881年−1954年)
- 米国の弁護士、政治家で、1930年から1966年まで米国の映画の道徳的な内容を定めた製造規則を定式化した(1879年−1954年)
- 米国の小説家で、1954年にノーベル文学賞を受賞した(1899年−1961年)
- フランスの競争自転車選手で、ツール・ド・フランスに5度優勝した(1954年生まれ)
- ベトナムの共産主義の政治家で、第二次世界大戦で日本人と戦い、1954年までフランス人と、また1975年まで南ベトナムと戦った(1890年−1969年)
- 英国の高位聖職者で、悲観的な説教と論説で知られる(1860年−1954年)
- 米国の作曲家で、多調性を革新的に使用したことで知られる(1874年−1954年)
- 米国の画家(1898年−1954年)
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