アルフレート・プファフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/04/08 02:54 UTC 版)
 
    
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| 名前 | ||||||
| ラテン文字 | Alfred Pfaff | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1926年7月16日 | |||||
| 出身地 | フランクフルト・アム・マイン | |||||
| 没年月日 | 2008年12月27日(満82歳没) | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF | |||||
| 代表歴 | ||||||
| 1953-1956 | 7 (2) | |||||
| ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
アルフレート・プファフ (Alfred Pfaff, 1926年7月16日 - 2008年12月27日)は、フランクフルト・アム・マイン出身の元西ドイツ代表サッカー選手。現役時代のポジションはMF。
経歴
アイントラハト・フランクフルトのユース出身で、1949年から10年以上同クラブでプレーした。リーグ約300試合に出場し、1958-59シーズンにはブンデスリーガ優勝を手にした。1959-60シーズンのUEFAチャンピオンズカップではプレーメーカーとして素晴らしい技術やフリーキックを披露してクラブを準優勝に導き、自身も4得点を挙げた。1954年にはアトレティコ・マドリードからオファーを受けたが、夫人がスペイン行きに反対したことからドイツに留まった。
西ドイツ代表として7キャップ、2得点。同じ時代にフリッツ・ヴァルターがいたことから代表での出場機会は限られていたが、1954年のFIFAワールドカップにも出場。試合には敗れたものの、グループステージでは当時マジック・マジャールと呼ばれたハンガリー代表戦で西ドイツの1点目を記録した[1]。
1962年、36歳で現役を引退。引退後はオーデンヴァルト、シュネーベルクでバーテンダーやホテルの宿主などをしていた[2]。
所属クラブ
- 1947-1949 
 1.ローデルハイマーFC 02 - 1949-1961 
 アイントラハト・フランクフルト 
獲得タイトル
- ブンデスリーガ 1958-59
 - FIFAワールドカップ 1954
 
脚注
- ^ 1954 FIFA World Cup Switzerland Hungary - Germany FR FIFA.com
 - ^ Eintracht Frankfurt trauert um Alfred Pfaff eintracht.de
 
 
    
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