1950年代と1960年代、および黄金時代の終わりとは? わかりやすく解説

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1950年代と1960年代、および黄金時代の終わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 07:25 UTC 版)

アメリカン・アニメーションの黄金時代」の記事における「1950年代と1960年代、および黄金時代の終わり」の解説

しかしながら主要なスタジオ活動は、いずれも分野での発展には盲目のままであったストライキ時期古巣離れた元ディズニーアニメーターのジョン・ハブリーは、より新しく、より抽象的で、より実験的なアニメーションという彼自身ビジョン追求するための小さな制作会社設立した。ハブリーと彼の仲間たちは、ユナイテッド・プロダクション・オブ・アメリカ、あるいはUPA呼ばれる新たな制作会社起業着手したUPAリミテッド・アニメーションとして知られるようになったスタイルを、表現手法一環として使用した新しく起こされスタジオで最初短編が、フランクリン・D・ルーズヴェルト再選キャンペーンのために作られた『ヘル・ベント・フォー・エレクション』(原題:Hell-Bent for Election)である。この作品ワーナーベテラン監督であるチャック・ジョーンズ監督した。この新作成功したものの、ハブリーと仲間たち期待したような画期的な作品ではなかった。彼らの意図二作目短編であるボビー・キャノンの『ブラザーフッド・オブ・マン』(原題Brotherhood of Man)までは成し遂げられなかった。この作品から、UPA作品は他の制作会社作品比べて野心的な作風取りはじめたキャノン作品は、当時軽視されていた人種的寛容というメッセージ伝えていた。 最終的にUPAコロンビア映画傘下落ち着き最初2年間で2つアカデミー賞へのノミネート獲得した。これを皮切りにUPAアニメーターらは似たり寄ったり作品ひしめきあうアニメーション業界中にあって、一頭地を抜く作品制作し始めたUPAの『近眼のマグー』(原題Mr. Magooシリーズ成功あらゆる制作会社注目引き付けUPA短編『ジェラルド・マクボイン・ボイン』(原題Gerald McBoing-Boing)がオスカー賞受賞すると、ハリウッド俄然沸き返ったUPAスタイルそれまで映画館スクリーン上で見られアニメーション何もかも違っており、旧態依然たるネコとネズミ追いかけっこ異議示したUPA観客反応した1953年までに、UPA多大な影響アニメーション産業与えていた。ハリウッドアニメーション制作会社らは、豪華絢爛写実的な1940年代アニメーションから、より単純素抽象的なアニメーションへと徐々に移行していった。この時期においてはディズニーですらUPA模倣試みていた。とりわけ1953年の『プカドン交響楽』(原題Toot, Whistle, Plunk and Boom)は、この新しく起こされ企業足跡を辿ろうとするディズニー実験であったUPAによるアニメーション革命以前に、1950年代初期ワーナー・ブラザースとメトロ・ゴールドウィン・メイヤーカートゥーンスタジオの両社はその創造性頂点到達していた。とりわけワーナーチャック・ジョーンズ作品到達した高みは、アニメーション史を通じて前代未聞のものであった多数凡作(これらは時には残酷であり暴力的だった)を残した一方で1950年代連作ロードランナー』(原題Road Runner)やバッグス・バニーダフィー・ダック物、『カモにされたカモ』(原題Duck Amuck)『オペラ座狩人』(原題What's Opera, Doc?)『セビリアのラビット理髪師』(1950年原題Rabbit of Seville)『子ネコに首ったけ』(原題Feed the Kitty)などのジョーンズ作品幾つかは、アニメーション史に残る作品となった。『カモにされたカモ』と『オペラ座狩人』はアメリカ合衆国政府より「文化的に重要な作品」と認定されており、アメリカ国立フィルム登録簿登録されている。 1950年代メトロ・ゴールドウィン・メイヤーアニメーションまた、1940年代続いてアカデミー賞受賞し続けた。『トムとジェリー』はMGMに更に2つオスカー像もたらしテックス・エイヴリー伝説的な仕事スタジオアニメーション部門閉鎖する4年前の1953年まで続いた1957年MGMアニメーション部門閉鎖したのは、その高い制作費のためであった今やその制作続けるには、アニメーション高価になりすぎていたのであるしかしながらパラマウント映画他社ほど上手くはいかなかった。第二次世界大戦終了後1940年代後半において、フェイマス・スタジオ作品品質目に見え低下していき、その作品お定まりネタ暴力表現頼り始めた1950年代には『おばけのキャスパー』(原題Casper the Friendly Ghost)や『ヘルマンキャットニップ英語版)』などの新作作られたものの、その一方でポパイのような作品ですら、その独創性独自性多く失っていた。パラマウント作品は、『ノヴェルトゥーン』のネズミヘルマンなどの、かわいらしいキャラクター人気集めていたが、作品の質は他社埋め草映画レベルにまで落ち込み1960年代が始まる頃にはほぼ忘れ去られていた。 ディズニーによる長編アニメーション映画1950年代通じて大衆人気集め続けた1940年代後半の本来は短編であるシリーズ綴りあわせた長編シリーズ制作の後に、ディズニー・スタジオお伽噺児童文学アニメーション化という成功した方式回帰した。1950年代ディズニー『わんわん物語』原題Lady and the Tramp『ピーター・パン』原題Peter Pan)『101匹わんちゃん』(原題One Hundred and One Dalmatians)『シンデレラ』(原題Cinderella)『眠れる森の美女』(原題Sleeping Beauty)などの多数古典となった映画制作したが、『ファンタジア』『ピノキオ』のような魅惑的なリアリズム満ちた作品を再び制作することは、もはやディズニーですらも不可であった1960年代までアニメーション産業移行始めていた。テレビというメディアはますますその勢い増しつつあった。この変化先駆けとなったのは、『トムとジェリー』を制作したウィリアム・ハンナジョセフ・バーベラ二人組であった新しく生まれたハンナ・バーベラ・スタジオは、UPA表現手法として開拓したリミテッド・アニメーションの手法を利用した現在に至るまでこの手法はもっぱら予算削減のために使われている。テレビ大衆的な人気獲得にするにつれ、映画館観客数減り始め、アメリカン・アニメーションの状況永久に変わってしまった。それでもテレビ移行後もしばらくの間黄金時代続いていた。ハンナ・バーベラ・プロダクション中心に数々テレビアニメ作られ人気獲得したこの頃代表作としては、『チキチキマシン猛レース』や、『宇宙忍者ゴームズ』などである。しかし、1970年代前半日本のアニメーション数多く輸入されるにつれ、アメリカのアニメーション・スタジオはかつての力を振るえなくなってしまった。黄金時代終わりを告げアニメーション中心も完全に変わってしまった。

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