1950年代とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 05:58 UTC 版)
「ジャズ・スタンダード」の記事における「1950年代とその後」の解説
詳細は「:en:List of post-1950 jazz standards」を参照 マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』などのモード・ジャズのレコードが1950年代後半にはポピュラーなものになっていた。モード・ジャズの人気のあるスタンダード曲としてはデイビスの「オール・ブルース」や「ソー・ホワット(英語版)」(ともに1959年)、ジョン・コルトレーンの「インプレッションズ(英語版)」(1963年)とハービー・ハンコックの「処女航海」(1965年)などが挙げられる。その後、サクソフォン奏者のウェイン・ショーターとピアニストのハービー・ハンコックが参加したデイヴィスの「第二期グレートクインテット」は1960年代半ばから終盤にかけて高く評価されている一連のアルバムを録音した。このセッションからのスタンダード曲としては、ショーターの「フットプリンツ(英語版)」(1966年)とエディ・ハリス(英語版)による「フリーダム・ジャズ・ダンス(英語版)」(1966年)がある。 ブラジルでは1950年代後半にボサノヴァと呼ばれる新しいスタイルの音楽が発展していた。ジャズと共にブラジルのサンバを基礎とし、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ルイス・ボンファ(英語版)らによって提唱された。ジルベルトとスタン・ゲッツは1963年の共同アルバム『ゲッツ/ジルベルト』でアメリカ合衆国にボサノヴァ・ブームを巻き起こした。このジャンルの楽曲の中ではボンファの「カーニバルの朝」(1959年)、マルコス・ヴァーリの「サマー・サンバ(英語版)」(1966年)および「デサフィナード」(1959年)、「イパネマの娘」(1962年)、「静かな夜(英語版)」(1962年)を含む数多くのジョビンの曲が今日もスタンダード曲と見做されている。その後、エドゥ・ロボやエグベルト・ジスモンチといった作曲家が"Casa Forte"、"Frevo Rasgado"、"Loro"となどの楽曲でブラジルのジャズ・レパートリーに大きな貢献をした。 ジャズ・フュージョン・ムーヴメントが、有名なところではファンクやロックなどのほかのスタイルの音楽と、ジャズとを融合させた。その黄金時代は1960年代後半から1970年代半ばまでだった。ウェザー・リポート、チック・コリア、リターン・トゥ・フォーエヴァー、ハービー・ハンコックとザ・ヘッドハンターズ、マンハッタン・トランスファー、マハヴィシュヌ・オーケストラなどのトップ・フュージョン・アーティストはジャンル横断的な人気を博したが、1980年代に切り替わるころにはこのジャンルへの一般の関心は薄れていた。フュージョンでの最大級のヒット曲、コリアの「スペイン」(1971年)、ハンコックの「カメレオン(英語版)」(1973年)、ジョー・ザヴィヌルの「バードランド(英語版)」(1977年)などはその後も何度もカバーされ、モダン・ジャズのスタンダード曲と見做されている。 リンダ・ロンシュタットとジェームス・イングラムが歌った「サムホエア・アウト・ゼア」、ビートルズの「イエスタデイ」、ザ・ビーチ・ボーイズの「神のみぞ知る」、ヴァン・モリソンの「ムーン・ダンス」などのポップやロック・アーティストによって書かれた多くの曲もスタンダード曲となっている。
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