1950年代と1960年代、および黄金時代の終わり
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「アメリカン・アニメーションの黄金時代」の記事における「1950年代と1960年代、および黄金時代の終わり」の解説
しかしながら主要なスタジオの活動は、いずれも他分野での発展には盲目のままであった。ストライキの時期に古巣を離れた元ディズニーアニメーターのジョン・ハブリーは、より新しく、より抽象的で、より実験的なアニメーションという彼自身のビジョンを追求するための小さな制作会社を設立した。ハブリーと彼の仲間たちは、ユナイテッド・プロダクション・オブ・アメリカ、あるいはUPAと呼ばれる新たな制作会社の起業に着手した。UPAはリミテッド・アニメーションとして知られるようになったスタイルを、表現手法の一環として使用した。新しく起こされたスタジオでの最初の短編が、フランクリン・D・ルーズヴェルト再選キャンペーンのために作られた『ヘル・ベント・フォー・エレクション』(原題:Hell-Bent for Election)である。この作品はワーナーのベテラン監督であるチャック・ジョーンズが監督した。この新作は成功したものの、ハブリーと仲間たちが期待したような画期的な作品ではなかった。彼らの意図は二作目の短編であるボビー・キャノンの『ブラザーフッド・オブ・マン』(原題:Brotherhood of Man)までは成し遂げられなかった。この作品から、UPA作品は他の制作会社の作品に比べて野心的な作風を取りはじめた。キャノンの作品は、当時は軽視されていた人種的寛容というメッセージを伝えていた。 最終的にUPAはコロンビア映画の傘下に落ち着き、最初の2年間で2つのアカデミー賞へのノミネートを獲得した。これを皮切りに、UPAのアニメーターらは似たり寄ったりの作品がひしめきあうアニメーション業界の中にあって、一頭地を抜く作品を制作し始めた。UPAの『近眼のマグー』(原題:Mr. Magoo)シリーズの成功はあらゆる制作会社の注目を引き付け、UPAの短編『ジェラルド・マクボイン・ボイン』(原題:Gerald McBoing-Boing)がオスカー賞を受賞すると、ハリウッドは俄然沸き返った。UPAのスタイルはそれまでの映画館のスクリーン上で見られたアニメーションと何もかも違っており、旧態依然たるネコとネズミの追いかけっこに異議を示したUPAに観客は反応した。 1953年までに、UPAは多大な影響をアニメーション産業に与えていた。ハリウッドのアニメーション制作会社らは、豪華絢爛で写実的な1940年代のアニメーションから、より単純素朴で抽象的なアニメーションへと徐々に移行していった。この時期においては、ディズニーですらUPAの模倣を試みていた。とりわけ1953年の『プカドン交響楽』(原題:Toot, Whistle, Plunk and Boom)は、この新しく起こされた企業の足跡を辿ろうとするディズニーの実験作であった。 UPAによるアニメーションの革命以前に、1950年代の初期にワーナー・ブラザースとメトロ・ゴールドウィン・メイヤーカートゥーンスタジオの両社はその創造性の頂点に到達していた。とりわけワーナーのチャック・ジョーンズの作品が到達した高みは、アニメーション史を通じて前代未聞のものであった。多数の凡作(これらは時には残酷であり暴力的だった)を残した一方で、1950年代の連作『ロードランナー』(原題:Road Runner)やバッグス・バニーとダフィー・ダック物、『カモにされたカモ』(原題:Duck Amuck)『オペラ座の狩人』(原題:What's Opera, Doc?)『セビリアのラビット理髪師』(1950年、原題:Rabbit of Seville)『子ネコに首ったけ』(原題:Feed the Kitty)などのジョーンズ作品の幾つかは、アニメーション史に残る作品となった。『カモにされたカモ』と『オペラ座の狩人』はアメリカ合衆国政府より「文化的に重要な作品」と認定されており、アメリカ国立フィルム登録簿に登録されている。 1950年代のメトロ・ゴールドウィン・メイヤーのアニメーションもまた、1940年代に続いてアカデミー賞を受賞し続けた。『トムとジェリー』はMGMに更に2つのオスカー像をもたらし、テックス・エイヴリーの伝説的な仕事はスタジオがアニメーション部門を閉鎖する4年前の1953年まで続いた。1957年にMGMがアニメーション部門を閉鎖したのは、その高い制作費のためであった。今やその制作を続けるには、アニメーションは高価になりすぎていたのである。 しかしながら、パラマウント映画は他社ほど上手くはいかなかった。第二次世界大戦終了後の1940年代後半において、フェイマス・スタジオの作品の品質は目に見えて低下していき、その作品はお定まりのネタと暴力表現に頼り始めた。1950年代には『おばけのキャスパー』(原題:Casper the Friendly Ghost)や『ヘルマンとキャットニップ(英語版)』などの新作が作られたものの、その一方で『ポパイ』のような作品ですら、その独創性や独自性の多くを失っていた。パラマウント作品は、『ノヴェルトゥーン』のネズミのヘルマンなどの、かわいらしいキャラクターで人気を集めていたが、作品の質は他社の埋め草映画のレベルにまで落ち込み、1960年代が始まる頃にはほぼ忘れ去られていた。 ディズニーによる長編アニメーション映画は1950年代を通じて大衆の人気を集め続けた。1940年代後半の本来は短編であるシリーズを綴りあわせた長編シリーズ制作の後に、ディズニー・スタジオはお伽噺や児童文学のアニメーション化という成功した方式へ回帰した。1950年代のディズニーは『わんわん物語』(原題:Lady and the Tramp)『ピーター・パン』(原題:Peter Pan)『101匹わんちゃん』(原題:One Hundred and One Dalmatians)『シンデレラ』(原題:Cinderella)『眠れる森の美女』(原題:Sleeping Beauty)などの多数の古典となった映画を制作したが、『ファンタジア』や『ピノキオ』のような魅惑的なリアリズムに満ちた作品を再び制作することは、もはやディズニーですらも不可能であった。 1960年代までにアニメーション産業を移行を始めていた。テレビというメディアはますますその勢いを増しつつあった。この変化の先駆けとなったのは、『トムとジェリー』を制作したウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラの二人組であった。新しく生まれたハンナ・バーベラ・スタジオは、UPAが表現手法として開拓したリミテッド・アニメーションの手法を利用した。現在に至るまで、この手法はもっぱら予算削減のために使われている。テレビが大衆的な人気を獲得にするにつれ、映画館の観客数は減り始め、アメリカン・アニメーションの状況は永久に変わってしまった。それでもテレビに移行後もしばらくの間は黄金時代は続いていた。ハンナ・バーベラ・プロダクションを中心に数々のテレビアニメが作られ人気を獲得した。この頃の代表作としては、『チキチキマシン猛レース』や、『宇宙忍者ゴームズ』などである。しかし、1970年代前半に日本のアニメーションが数多く輸入されるにつれ、アメリカのアニメーション・スタジオはかつての力を振るえなくなってしまった。黄金時代は終わりを告げ、アニメーションの中心も完全に変わってしまった。
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