1950年代から1960年代初期
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「イラク空軍」の記事における「1950年代から1960年代初期」の解説
1950年代には、1958年に王制が崩壊した際にRIrAFが影響を受け、イギリスなどの西側諸国からの武器輸入の停止につながった。1950年から1958年までの大半のRIrAF航空機はイギリス製であり、最初のジェット戦闘機のデ・ハビランド バンパイアは1953年に納入された。RIrAFは、1950年代半ばにデ・ハビランド ベノムとホーカー ハンターを受け取った。1954年と1956年に米国からの資金提供により19機のデ・ハビランド バンパイアジェット戦闘機と14機の元イギリス空軍のホーカーが納入された。また、1953年に4機のブリストル フレイターを受け取った。 1958年7月14日の革命の間に、イラク国王が打倒され同国はワルシャワ条約加盟国と外交的および政治的関係を確立すると同時に西側諸国との関係を断絶した。イラク王立空軍は革命後にその名前から「Royal」を無くしイラク空軍(Iraqi Air Force、IQAF)となった。ソ連はMiG-17、MiG-19およびMiG-21戦闘機、そしてIl-28爆撃機をイラク新政府に迅速に供給した。彼らはまた、1959年にポーランドからIl-14輸送機13機を受け取った[要出典]。最初のMiG-17は、1958年にデ・ハビランド バンパイアに代わって初めて納入された[要出典]。1960年代後半から1970年代初頭にかけて、MiG-17の追加サンプルが購入されシリアまたはエジプトに発送された可能性がある。 トム・クーパーとステファン・クーンは、1961年の空軍の飛行隊を以下のようにリスト化している。 第1飛行隊(ハバニヤ空軍基地拠点):ベノムFB Mk.1、指揮官はA.-Mun'em Ismaeel大尉 第2飛行隊(ラシッド空軍基地):Mi-4、指揮官はWahiq Ibraheem Adham少佐 第3飛行隊(ラシッド空軍基地):An-12B、指揮官はTaha Ahmad Mohammad Rashid大尉 第4飛行隊(キルクーク空軍基地):フューリーFB Mk.11、指揮官はA. Latif少佐 第5飛行隊(ラシッド空軍基地):MiG-17F、指揮官はKhalid Sarah Rashid少佐 第6飛行隊(ハバニヤ空軍基地):HunterFGA.59/A/B、指揮官はHamid Shaban大尉 第7飛行隊(キルクーク空軍基地):ミコヤン・グレビッチMiG-17F、指揮官はNe'ma Abdullah Dulaimy少佐 第8飛行隊(ラシッド空軍基地):IL-28。指揮官はAdnan Ameen Rashid少佐 第9飛行隊:MiG-19、編成中。 IQAFは1960年代初頭に約50機のMiG-19を受け取ったが、ほとんどは使用されずエジプトに再配送され、これまでに第6飛行隊のみがおおよそ18機のMiG-19Pとミサイル兵装のMiG-19PMをバグダッドのラシッド空軍基地で運用していた。イラクは、1962年にMiG21F-13戦闘機、1963年以降にTu-16爆撃機も受け取った。 1963年11月のイラククーデターにより、イラクがNATO勢力と再び手を組むようになった結果、より多くの中古のホーカー ハンターがIQAFに引き渡された。共産主義の東欧諸国からの航空機の輸入は1966年まで中断されていたが、イラク大統領アブドッサラーム・アーリフが航空機事故で死亡(彼の兄が後任を務めた)した後、ソビエト連邦からMiG-21PF迎撃機を購入した。 1966年、イラクのムニル・レドファ大尉は彼のMiG-21F-13でイスラエルに亡命し、イスラエルはコードネーム「Have Donut」の下で評価のために同機をアメリカに引き渡した。しかし、それまでにMiG21-F13はイラク空軍の前線部隊のMiG21FLとPFMに置き換えられており、MiG21-F13は運用転換練習機として使用されていた。
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