1872年–1877年: 初期探検とは? わかりやすく解説

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1872年–1877年: 初期探検

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 01:48 UTC 版)

化石戦争」の記事における「1872年–1877年: 初期探検」の解説

1870年代コープマーシュ大きな化石発見されたと噂され米国西部目を向けたコープは、ワシントンでの影響力使い地質学者フェルディナンド・ヘイデン率い合衆国地質調査団の一員としての地位認められていた。調査団員は無給ではあったが、西部化石収集し論文執筆するには絶好機会であったヘイデンとしても、公式調査報告書大衆向けの要素加味する必要があり、文章大げさに書く才能があったコープはこれにうってつけであった1872年6月コープは彼自身初めワイオミング始新世化石層を調査することのできる探検調査参加することができた。だがこの件でコープヘイデンそしてライディの関係にひびが入ったコープ調査団参加するまでの間、ヘイデン調査隊で数多く化石発掘してきたのはライディであったが、新入りコープライディ発掘行っているまさに同じ場所で発掘をしようとしたのだったヘイデンはことを穏便にさめようライディ次のような手紙書いた。 「私はコープに、あなた(ライディが行こうとする場所には行かないよう告げたのですが、『場所を限定するなんて馬鹿げてる』と笑い飛ばし、私の支援があろうとなかろう自分行きたいところへ行くと言いだしたのです。私は、我が隊の名誉となる人物協力してもらうことを切に望みますコープ給料払っているわけでも遠征費用肩代わりしているわけでもないのでコープがどこを発掘場所に選ぶか口出しする権限はありません。他人との競争というのものは楽しいものではありませんが、ほとんどはやむを得ないものです。お察しください。」 コープライディが同じ場所で採掘しないようにとヘイデン頭を悩ませている間、コープ家族伴ってデンバーにまで赴いていた。地質学者フィールディング・ブラッドフォード・ミーク(英語版)からの内報受けたコープは、ミーク化石見つけたブラックビュート駅と鉄道路線周辺調べようとしていたのである。はたしてコープ化石のある場所を見つけ、そこに、後にアガタウマス・シルヴェストリスとコープ記載することになる恐竜の化石が、まだいくつか残されていることを発見したヘイデンヘイデン調査団全面的サポート受けられる信じていたコープは、6月にフォート・ブリッジャー(英語版)まで戻ってみたが期待していた人も荷馬車も馬も器材もそこには何もないことが分かったコープ自費御者2人料理人ガイド1人ずつ、そして発掘道具一式を何とか工面しシカゴからコープと共に研究することを申し出た3人もこれに同行させた。後で分かったことだが、このときコープ雇った者のうち2人マーシュが既に雇用契約結んでいる者であった自分雇った男たちライバル古生物学者コープからも金を受け取っていたことを知ったマーシュ激怒したコープとの関係がバレ男たちは、マーシュとの雇用関係継続しようとしたが(1人コープ良い化石から遠ざけるめだった釈明したが)、一方で男たち他の仕事探した原因契約結んできちんと支払いを行うといった手続き怠ったマーシュ怠惰さにもあった。マーシュ雇い人が隊にいるとは知らないコープは、過去ヘイデンしか調査したことのない荒れ地探検し数十新種化石発見したが、このときマーシュ雇い人マーシュに送るつもりの化石をうっかりコープ送ってしまった。化石受け取ったコープはそれをマーシュ送り返したが、2人の関係にはさらに深い亀裂走ったコープマーシュうわべだけの付き合い1872年には終わり1873年春に互いに敵意を隠すこともなくなった。この頃ライディコープ、そしてマーシュの3人は西部化石層で古代爬虫類哺乳類まつわる大発見繰り広げていた。3人の古生物学者たちは自分たちの発見をまずは東部向かって急いで電報打ちきちんとした論文戻ってから発表するようにしていた。こうしてウインタテリウム、ロキソロフォドン Loxolophodon、エオバシレウス(英語版)、ディノケラス Dinoceras やティノケラス Tinoceras といった新種記載されていった問題は、こうした発見多く互いにあまり違いがないものということであった事実コープマーシュは、自分記載した化石いくつかはすでに他人によって発見済みのものだと知っていた。その結果マーシュ記載した種名多くが有効であったコープのはひとつも有効でないということもあった。マーシュはさらに哺乳類新しい目 cinocerea に新種記載もした。恥をかかされコープライバルが行変更に対して無力であった。だが代わりにコープ広範な分析研究発表その中で始新世哺乳類について新たな分類法提案した。これはマーシュ決めた属を放棄し自分自身の方を選ばせるものであったマーシュ自分立場固守し恐角目の種にコープがつけた名はすべて間違っていると主張し続けた古生物学者たちは、分類と命名についての争い続けながら、さらなる化石求めて西部戻っていった。マーシュイェール大学から支援受けて1873年最後の遠征行っている。これは学生13人に加えインディアンスー族に対して武力誇示した兵隊らを伴う大所帯であった過去数年遠征では金を湯水のように使い結果かなりの費用かかっていたことを憂慮しマーシュは、学生たちに渡航費自費払わせることにし、イェール大学負担金は1857.50ドルのみとなった。これはマーシュ前回遠征でかかった費用1万5000ドル現在のドル換算する20ドル以上)からするとかなり低い金額である。この遠征マーシュにとって結果として最後の遠征となった。これ以降の「化石戦争」において、マーシュはその土地その土地に住む収集者化石採掘協力求め方法選んだマーシュは既に研究数年続けるのに充分な量の化石をもっていたが、「もっと化石欲しい」という学者としての欲は衰えことはなかった 。 この年コープ前年1872年よりも多く化石手に入れていたが、マーシュ自分だけの化石収集者育てることに傾注し、このことはライバル・コープがブリッジャー砦では「好ましからざる人物ペルソナ・ノン・グラータ)」であったことを意味していた。ヘイデンの下で働くのがいやになったコープは、陸軍工兵部隊賃金稼げ仕事見つけたが、この仕事には制限があった。コープ部隊調査についていかないといけないのに対しマーシュはどこでも好きな場所化石収集行えのである1870年代中頃2人視線サウスダコタ注がれるようになったサウスダコタ州ワイオミング州州境にある山地ブラックヒルズで金が発見されネイティブ・アメリカン合衆国軍との緊張高まっていた。マーシュは、そうした場所で見つかった化石欲し、やがて軍とインディアン政治巻き込まれていった化石調査のためスー族レッド・クラウド支援得ようとしたマーシュは、レッド・クラウドに対して収集した化石に金を払うことと、ワシントン戻りインディアンへの不当な扱いについてレッド・クラウドらの代わりにロビー活動をすることを約束した結局マーシュは、マーシュ自身言葉によれば多少美化されているだろうが)荷車何台分もの化石手に入れ敵対的なミネコンジュー(英語版)族の一隊が来る少し前にキャンプを後にした 。次はマーシュ約束を果たす番であったマーシュレッドクラウド代わりにアメリカ内務省政権政府働きかけた。だがその真の動機は、不人気グラント大統領政権対抗する事で自身名声高めることにあった以降1875年までの間、コープマーシュ化石発掘経済的負担感じていた上に手つかず収集物整理する必要もあったため、化石収集一時停止した。だが1870年代終わりさしかかろうとしたころ、とある新発見により2人はまた西部戻っていった。

※この「1872年–1877年: 初期探検」の解説は、「化石戦争」の解説の一部です。
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