1872年–1877年: 初期探検
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「化石戦争」の記事における「1872年–1877年: 初期探検」の解説
1870年代、コープとマーシュは大きな化石が発見されたと噂された米国西部に目を向けた。コープは、ワシントンでの影響力を使い、地質学者フェルディナンド・ヘイデン率いる合衆国地質調査団の一員としての地位を認められていた。調査団員は無給ではあったが、西部で化石を収集し論文を執筆するには絶好の機会であった。ヘイデンとしても、公式調査報告書に大衆向けの要素を加味する必要があり、文章を大げさに書く才能があったコープはこれにうってつけであった。1872年6月、コープは彼自身初めてワイオミングで始新世の化石層を調査することのできる探検調査に参加することができた。だがこの件でコープとヘイデンそしてライディの関係にひびが入った。コープが調査団に参加するまでの間、ヘイデンの調査隊で数多くの化石を発掘してきたのはライディであったが、新入りのコープはライディが発掘を行っているまさに同じ場所で発掘をしようとしたのだった。ヘイデンはことを穏便におさめようとライディに次のような手紙を書いた。 「私はコープに、あなた(ライディ)が行こうとする場所には行かないよう告げたのですが、『場所を限定するなんて馬鹿げてる』と笑い飛ばし、私の支援があろうとなかろうと自分の行きたいところへ行くと言いだしたのです。私は、我が隊の名誉となる人物に協力してもらうことを切に望みます。コープに給料を払っているわけでも遠征費用を肩代わりしているわけでもないのでコープがどこを発掘場所に選ぶか口出しする権限はありません。他人との競争というのものは楽しいものではありませんが、ほとんどはやむを得ないものです。お察しください。」 コープとライディが同じ場所で採掘しないようにとヘイデンが頭を悩ませている間、コープは家族を伴ってデンバーにまで赴いていた。地質学者フィールディング・ブラッドフォード・ミーク(英語版)からの内報を受けたコープは、ミークが化石を見つけたブラックビュート駅と鉄道路線周辺を調べようとしていたのである。はたしてコープは化石のある場所を見つけ、そこに、後にアガタウマス・シルヴェストリスとコープが記載することになる恐竜の化石が、まだいくつか残されていることを発見した。ヘイデンとヘイデン調査団の全面的サポートが受けられると信じていたコープは、6月にフォート・ブリッジャー(英語版)まで戻ってみたが期待していた人も荷馬車も馬も器材もそこには何もないことが分かった。コープは自費で御者2人と料理人とガイドを1人ずつ、そして発掘道具一式を何とか工面し、シカゴからコープと共に研究することを申し出た3人もこれに同行させた。後で分かったことだが、このときコープが雇った者のうち2人はマーシュが既に雇用契約を結んでいる者であった。自分の雇った男たちがライバル古生物学者コープからも金を受け取っていたことを知ったマーシュは激怒した。コープとの関係がバレた男たちは、マーシュとの雇用関係を継続しようとしたが(1人はコープを良い化石から遠ざけるためだったと釈明したが)、一方で男たちが他の仕事を探した原因は契約を結んできちんと支払いを行うといった手続きを怠ったマーシュの怠惰さにもあった。マーシュの雇い人が隊にいるとは知らないコープは、過去ヘイデンしか調査したことのない荒れ地を探検し、数十の新種の化石を発見したが、このときマーシュの雇い人がマーシュに送るつもりの化石をうっかりコープに送ってしまった。化石を受け取ったコープはそれをマーシュに送り返したが、2人の関係にはさらに深い亀裂が走った。 コープとマーシュのうわべだけの付き合いも1872年には終わり、1873年の春には互いに敵意を隠すこともなくなった。この頃、ライディ、コープ、そしてマーシュの3人は西部の化石層で古代の爬虫類や哺乳類にまつわる大発見を繰り広げていた。3人の古生物学者たちは自分たちの発見をまずは東部に向かって急いで電報を打ち、きちんとした論文は戻ってから発表するようにしていた。こうしてウインタテリウム、ロキソロフォドン Loxolophodon、エオバシレウス(英語版)、ディノケラス Dinoceras やティノケラス Tinoceras といった新種が記載されていった。問題は、こうした発見の多くが互いにあまり違いがないものということであった。事実コープとマーシュは、自分が記載した化石のいくつかはすでに他人によって発見済みのものだと知っていた。その結果、マーシュの記載した種名は多くが有効であったがコープのはひとつも有効でないということもあった。マーシュはさらに哺乳類の新しい目 cinocerea に新種を記載もした。恥をかかされたコープはライバルが行う変更に対して無力であった。だが代わりにコープは広範な分析研究を発表、その中で始新世の哺乳類について新たな分類法を提案した。これはマーシュの決めた属を放棄し自分自身の方を選ばせるものであった。マーシュは自分の立場を固守し、恐角目の種にコープがつけた名はすべて間違っていると主張し続けた。 古生物学者たちは、分類と命名についての争いを続けながら、さらなる化石を求めて西部に戻っていった。マーシュはイェール大学から支援を受けて1873年に最後の遠征を行っている。これは学生13人に加えインディアンのスー族に対して武力を誇示したい兵隊らを伴う大所帯であった。過去数年の遠征では金を湯水のように使い結果かなりの費用がかかっていたことを憂慮したマーシュは、学生たちに渡航費を自費で払わせることにし、イェール大学の負担金は1857.50ドルのみとなった。これはマーシュが前回遠征でかかった費用1万5000ドル(現在のドルに換算すると20万ドル以上)からするとかなり低い金額である。この遠征はマーシュにとって結果として最後の遠征となった。これ以降の「化石戦争」において、マーシュはその土地その土地に住む収集者に化石採掘の協力を求める方法を選んだ。マーシュは既に研究を数年続けるのに充分な量の化石をもっていたが、「もっと化石が欲しい」という学者としての欲は衰えることはなかった 。 この年コープは前年1872年よりも多くの化石を手に入れていたが、マーシュは自分だけの化石収集者を育てることに傾注し、このことはライバル・コープがブリッジャー砦では「好ましからざる人物(ペルソナ・ノン・グラータ)」であったことを意味していた。ヘイデンの下で働くのがいやになったコープは、陸軍工兵部隊で賃金が稼げる仕事を見つけたが、この仕事には制限があった。コープは部隊の調査についていかないといけないのに対し、マーシュはどこでも好きな場所で化石収集を行えたのである。 1870年代中頃、2人の視線はサウスダコタに注がれるようになった。サウスダコタ州とワイオミング州の州境にある山地ブラックヒルズで金が発見されネイティブ・アメリカンと合衆国軍との緊張が高まっていた。マーシュは、そうした場所で見つかった化石を欲し、やがて軍とインディアンの政治に巻き込まれていった。化石調査のためスー族のレッド・クラウドの支援を得ようとしたマーシュは、レッド・クラウドに対して収集した化石に金を払うことと、ワシントンに戻りインディアンへの不当な扱いについてレッド・クラウドらの代わりにロビー活動をすることを約束した。 結局マーシュは、マーシュ自身の言葉によれば(多少美化されているだろうが)荷車何台分もの化石を手に入れ、敵対的なミネコンジュー(英語版)族の一隊が来る少し前にキャンプを後にした 。次はマーシュが約束を果たす番であった。マーシュはレッドクラウドの代わりにアメリカ内務省と政権政府に働きかけた。だがその真の動機は、不人気のグラント大統領政権に対抗する事で自身の名声を高めることにあった。以降1875年までの間、コープとマーシュは化石発掘に経済的負担を感じていた上に手つかずの収集物を整理する必要もあったため、化石収集を一時停止した。だが1870年代が終わりさしかかろうとしたころ、とある新発見により2人はまた西部に戻っていった。
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