防御の詳細
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 04:56 UTC 版)
北軍がタイビー島に初めて入ったとき、プラスキ砦の工事は緩り進行していたが、ロバート・E・リーの方面軍指揮官としての判断は「この川は力で越えられない」だった。古いジャクソン砦は武装、強化され「内陸への障壁になっていた。」サバンナの水路は閉鎖されていた。12月、北軍はチャールストン港で「石の艦隊」を沈めていたので、それを使うつもりが無かったとリーは判断した。「我々は南部海岸の他の場所に対する襲撃に備える努力を怠ってはならない。」そのためにプラスキ砦背後に導く水路に南軍が船を沈めた。 リーはジェームズ川で指揮を執っていたジョサイア・タットノール海軍准将を連れて来た。ハンプトン・ローズ海戦(1862年3月8日-9日)直後に、今にも北軍のモニター艦からの攻撃がありそうな状況下で、水兵を上陸させてリッチモンドの防御を拡張した。タットノールはその砲手を砲台に駐屯させ、リッチモンドのトレドガー鉄工所をモニター艦が砲撃する脅威を除こうとした。タットノールの水兵はサバンナのジャクソン砦対岸の砲台と類似した働きをするはずだった。リーはプラスキ砦の防御に注意を向けて、砦の上流に砲台を築くという北軍の動きを予測した。リーは、北軍が包囲戦を仕掛けて、プラスキ砦の背後に入って来そうな位置を攻撃できるように大砲を据えるよう命令した。 1月、タットノールが3隻の砲艦で川の北軍砲艦7隻を攻撃した後、リーは「サバンナ川を敵が近づいて来るのを妨げる方法は無い。さらに敵に対抗できる川の戦力をもっていない」と評価していた。第3システムの砦であるプラスキ砦は土木工学によって作られた海岸防御の砦であり、少なくとも4か月の食料があった。このときの主要な目標は「我々は市を守るために努力しなければならない」になっていた。市の浮きドックは、新たな川の妨害物として沈められた。 3月、フロリダからテネシーへ連隊を移し、そこでの「我が軍の災難」後の作戦を回復するという陸軍省の命令をリーが伝えた。ジョージアの部隊は7月にバージニアに送られており、さらにジョージアの部隊がテネシーに移動することになった。南軍政府は、軍の食料を生産する穀倉地帯のプランテーションを確保しておくために、海岸部の部隊を引き上げて、サウスカロライナとジョージアの内陸部に移動させた。北軍の砲艦がジョージア内陸部まで深く入ってこられたので、フロリダではアパラチコラ川のみをあらゆる手段を尽くして守る必要があった。 リーのリッチモンド異動のときに、緊急防御工作の様子を詳述し、北軍が市に接近する可能性について、ロートンの「熱心で密接な注意」を要求した。「現在は敵がサバンナ川を取りそうに見える。」島の砲台にあった大砲は本土に移され、サバンナの防御線周辺に置かれた。サバンナ市より上流の川の障害物は、マカリスター砦が包囲された場合に上流の農園主によって設置されることになっていた。サバンナ川を使って直接上流に敵が進行するのを遅らせ妨げるために「あらゆる努力がなされるべきだった。」「敵が湿地あるいは島の砲台によって進軍しようとするならば、可能な限り追い返さなければならない。」斥候は敵の宿営地を発見し、いつ出発できるようになるかを見つけるよう命令された。マッケイのポイントに新たに置かれた大砲3門の砲台は、北軍の砲艦の侵攻を武力で止めることを意図していなかったが、タットノールの砲艦の支援があれば、ジャクソン砦を脅かすようなエルバ島に北軍が砲台を築くことを妨げられるはずだった。 サバンナにあるジャクソン砦は市から約3マイル (5 km) 下流にあり、他に2つの砲台で補われていた。守備兵は砲台船を建造した。リーは先ず、プラスキ砦の背後でサバンナ川に導く航行可能な入り江を見下ろすコーストンの崖上に砲台を置いた。続いてさらに上流のエルバ島に砲台を置き、サバンナへの川からのアプローチを塞いだ。北軍海軍指揮官サミュエル・デュポンはリーの防御体系を上流まで視察した。陸軍のトマス・W・シャーマン将軍がデュポンの推薦に逆らってリーの川の砲台を攻めるよう主張すると、シャーマンは西部戦線に転籍され、代わりにデイビッド・ハンターが指揮官になった。 北軍艦隊は大西洋の入り江や海岸の湿地を喫水の浅い船、ボート、モニター艦で探検した。しかし、サバンナの南にあるマカリスター砦のような土盛り工作物に対したとき、砲撃だけでは実効が無かった。北軍はウィリアム・シャーマンが1864年に行った内陸から海への進軍までサバンナに前進しようとしなかった。 1862年4月にプラスキ砦がサバンナから切り離されたとき、チャールズ・H・オルムステッド大佐指揮下の守備隊は650人から385人の将兵に減っていた。歩兵5個中隊に編成され、大砲はコロンビヤード砲10門、臼砲5門、4.5インチ (110 mm) ブレイクリー砲1門など48門あった。南軍のタイビー島砲台はそれ以前に解体、放棄されており、大砲は砦に移された。砦は1月28日に6か月分の食料を入れた。 オルムステッドはリーと相談して、あらゆる進入路に対応するために城壁と砲門の武器を配分し、幾つかは西部の湿地やサバンナ北の水路をカバーするように置かれた。南軍の襲撃者が島の綿花が北軍の手に渡るのを避けるために焼いた。タイビー島の灯台など航行補助材は解体され焼かれた。前進してくる北軍に利用されそうな物は全て、南軍兵が焼いたという現場からの報告があった。
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