開園の経緯
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「カナディアンワールド公園」の記事における「開園の経緯」の解説
1984年に芦別市が三井芦別炭鉱の閉山による産炭地の斜陽化の対策の一つとして旭町油谷地区での大規模観光開発計画「憩いの村建設基本構想」を立案、計画案を委託した東急エージェンシー北海道支社が提案した市の澄んだ空気で星が綺麗に見られる特徴を活かした星をテーマとした地域活性化策「星の降る里構想」の提案を元に、芦別レジャーランド(後の北の京芦別)等の既存観光資源を生かした「北斗七星観光ライン」ゾーンとの相乗効果による観光集客を見込み観光事業計画の策定を開始。 その後1985年9月に東急エージェンシーから天体関連のセンター施設群とスポーツ・アウトドア施設群からなる基本構想を提示、1986年には観光開発構想促進市民会議も設立されたが開催はなく市民不在での開発がカナディアンワールド問題の発端になったと後に指摘されている。 国の産炭地域活性化支援事業の支援を受け1987年2月に星と天体をテーマとした観光レジャー施設を中心とした100億円規模の地域振興計画「星の降る里ワールド基本計画」を策定し、1987年10月20日には一部を見直した事業計画を決定し油谷地区の炭鉱跡地230ヘクタールに総事業費70億円で屋内型ウォーターパークを中心に小説「赤毛のアン」のテーマパークと200名規模のホテルを建設する内容とされた。東急エージェンシー役員の木村王一が北海道と同じ北方圏のプリンスエドワード島を視察し、木村の夫人が赤毛のアンのファンだった事も影響し赤毛のアンを用いた開発提案となった。 その後星の降る里ワールド計画の事業主体として産業基盤整備基金からの出資第一号指定を受け芦別市(27.7%出資)・通産省産業基盤整備基金(26.6%出資)・東急エージェンシーを中心とした第三セクター「星の降る里芦別」が1988年3月11日に設立され、社長には当時の芦別市長が就任したものの実質的な経営は東急エージェンシーに依存する形となった。 1988年8月には収支計画の検討の結果ウォーターパーク計画を撤回し156ヘクタールでの「カナディアンワールド」計画案を発表。第1次計画として芦別鉱業が石炭露天掘を行っていた新旭炭鉱黄金露天掘坑の跡地48haに39億円の事業費で赤毛のアンのテーマパークとそれを取り巻く形でラベンダー畑とハーブ畑の建設、第二次計画として108haの敷地にリゾートホテルやコテージや森林レクリエーション施設を31億円で建設とした。これに関連し民間企業によるスキー場やゴルフ場の開発や芦別市による天体博物館やレジャー施設の構想も立てられ大規模開発が見込まれていた。 東急エージェンシーから星の降る里芦別へ出向していた東急エージェンシー山本浩専務取締役は開園直後の社内報にてカナディアンワールド開発について第三セクターでの母体組織間の意見対立、東急グループの支援不足、テーマパーク経験者不在を問題点として指摘していた。 なお開園後の1991年時点で芦別市内では官民合わせて合計423億円規模の以下のリゾート開発が計画されていた。 計画建設地事業主体内容事業費開業予定最終実態カナディアンワールド(第1次) 黄金町 星の降る里芦別 赤毛のアンテーマパーク 52.5億円 1990年 開業・倒産後市営公園 カナディアンワールド(第2次) 黄金町 星の降る里芦別 ホテル・コテージ・博物館 31億円 1994年 廃案 カナディアンスポーツワールド 新城町 三栄スポーツ産業 スキー場・ゴルフ場・ホテル 108.76億円 1996年 一部用地買収後中止 星の降る里ナチュラルパーク 旭町油谷 芦別鉱業 オートキャンプ場・スポーツ施設・牧場 50億円 1995年 廃案 星の降る里シンボリックワールド 旭町油谷 芦別市 星の博物館 27.32億円 1995年 廃案 星の降る里シンボリックワールド 旭町油谷 芦別市 天文台・レストラン・芸術館・生活館 68.3億円 1995-2004年 廃案 星の降る里リフレッシュの森 旭町油谷 芦別市 広場・キャンプ場・花園・アスレチック 8.26億円 1990-1998年 一部造成後中止 芦別市健民センター 旭町油谷 芦別市 芦別温泉の改築 2.24億円 1991年 実現 芦別ゴルフクラブ 豊岡町 大東産業 ゴルフ場 50億円 1995年 一部用地買収後中止 滝里ダム周辺地域振興 滝里町 空知川ゴルフ公社 ゴルフ場 3億円 1990年 実現 滝里ダム周辺地域振興 滝里町 北海道開発局 ダム湖畔施設整備 9.61億円 1995-98年 実現・市に管理委託 星の降る里コミュニティエリア 本町 芦別市 道の駅・物産センター・百年記念館 12.72億円 1991-93年 実現
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開園の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 18:53 UTC 版)
五桂地区は、ミカン栽培が盛んな地域であり、昭和30年(1955年)代まではミカンによる好景気で潤い、裕福でまとまりのある集落を形成していた。そして昭和40年(1965年)代には集団みかん園が造成されたが、その後ミカン価格の低迷で五桂地区は大きな経済的打撃を受けた。この事態を打開しようと区長や班代表による話し合いがもたれ、五桂池ふるさと村の構想が出来上がった。構想では、五桂池周辺の自然環境と農業体験を組み合わせた「第二のふるさと」を作ることと、地区の共同作業の場を創生することで婦人会や老人会の活性化を図ること、の2点を目指すこととなった。 計画は1981年(昭和56年)に認定され、多気町の後押しと国庫補助事業・農林漁業金融公庫の低利融資、宝くじ緑化事業という行政の資金面の支援を受け、1985年(昭和60年)に正式な開園に至った。
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