開園から第二次世界大戦終戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 00:11 UTC 版)
「楽々園遊園地」の記事における「開園から第二次世界大戦終戦まで」の解説
開園当初の園内には、遊戯場・売店・プール・休憩所を整備され、夏場には南側の砂浜で海水浴場が営業した。1938年(昭和13年)に撮影された動画には、ミニSL・ゴーカート・プール・猿山などが撮されている。また、海水浴場はきめの細かい白い砂が印象的だったとする証言もある。 開園日当日に温泉本館もオープン。館内には、真湯・潮湯・薬湯・家族湯の温浴施設のほか、大食堂や演芸室なども整備された。 開園当初は、春は花見。夏は海水浴。秋は菊の展示会で賑わった。またラジオ体操のイベントか開催され広島地区の新名所になった。開園効果は宮島線の乗客数にも影響を与え、1935年(昭和10年)の306万人から1936年(昭和11年)は329万人に増加した。その後も、海水浴シーズンを中心に来場者を集めた。 また、遊園地周辺にも影響を与え、楽々園駅と遊園地の間に旧・五日市町でも数少ない商店街が形成。また、1897年(明治30年)頃より海老園周辺には海水浴場が整備されていたが、砂浜の減少や海水汚染なども重なり、楽々園遊園地に客を取られ衰退していった。 第二次世界大戦中もしばらくは営業を継続。1942年(昭和17年)の広島ガス・広島電鉄の分離の時に、広島電鉄が引き継ぐことになった。1943年春頃に海軍および陸軍に関する展覧会を開催し、場内には小型並状旋回飛行塔が設置され、同年度上期の来場者数は26万人を数えた。しかし、戦況の悪化により園内の田園化も検討されるようになり、1944年12月に休園。施設は陸軍船舶部に貸し出された。その後、物資の集積場として使われた。
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